悪意の形
あの夜、陛下は本当に無理をしていらしたようで。
それから五日ほどたつけれど、あれから未だ一度も後宮に来られていない。
詩玲の話では、黄将軍の助命嘆願や減刑嘆願、新たな告発などが多数送られてきているらしく、後任の人事やそれらにまつわる事で本当に忙しいらしい。ただ、陛下は将軍の処刑だけは、変えられないようだ。
将軍を罰することで、一族に累を及ぼすことなく事を収めることになるらしい。ということは、今は陛下に謹慎を命じられている黄德妃も、しばらくしたら謹慎を解かれるのだろう。
そうなったらまた絡んでこられるかもしれないので、今のうちにと今日も深澄園に出かけることにした。
「行きましょう、秀英、桂英」
「はい」
「かしこまりました。詩玲、とくに問題はございませんか?」
「はい。今のところ、とくに不審な人影も花水宮の周囲をうろつく者もおりません。今のうちに、いってらっしゃいませ」
詩玲に見送られて花水宮を出た。
念のため、宦官が四人ほど後ろからついてくる。わたしの護衛として。
深澄園では、木々がすっかり紅葉に染まっている。
夏には涼しげな印象だったけれど、今は少し涼しすぎるかもしれない。秋の花がたくさん咲いているけれど、それもどこか物悲しく見えた。
池面に映る景色に目をやりながら、細い橋を渡っていく。
「もうじき、ここにも来られなくなりそうね」
「冷えてまいりますから。それに、花琳さまもあまり身動きできなくなられますでしょう」
「そうね」
今でさえ、だんだんと動くのが辛くなってきている。
「ふう……今日はこのへんでやめましょうか」
たまに陛下と昼間に出会うこともあった、東屋に着く手前で足を止めた。ここから寝宮は近い。遠めにも清和殿のとくに普段と変わらない様子を見ると、陛下はまだ政堂で執務を執られているのだろう。
秀英も桂英も、わたしの横で清和殿に視線を向けた。
「もうじき収まりますでしょう、しばらくの辛抱ですよ」
「陛下も花琳さまにお会いされたいに決まってますもの」
「ええ、そうね」
ため息を吐きそうになるのをこらえて、踵を返す。
宦官たちと入れ替わって花水宮への帰路を辿っていると、ちょうどこちらの方へ向かってくる一団に気づいた。
緊張した宦官たちが、すぐに空気を緩める。
「劉葉皇子の一行のようですね」
わたしは足を止めて、周りを見回した。
ちょうど橋の途中にいたけれど、近くに少し広い場所がある。
「わたしたちはあちらに避けましょうか。こちらにいらっしゃるようだと邪魔になってしまうわ」
宦官たちが顔を見合わせて、頷いた。秀英が笑みを零す。
「花琳さまは控えめですね。避けられる必要はございませんのに」
「そうはいかないわ」
わたしにはよく理解できないところではあるのだけど、皇子と妃ならば皇子の方が控えなければならないらしい。仮にも陛下のお子である皇子の方が、身分が上ではないかと思うのだけど……。
こちらに気づいた一行も、どうしようかと足を止めたけれど、わたしたちが避けたのを見てこちらに向かって来られるようだ。
秀英、桂英に体を向けて話していると、甲高い声が聞こえた気がして皇子の一行を振り向く。
一団の後ろの方で、声が上がっている。
後ろの方で誰かが揉みあっているように見え、隙間から飛び出してくる人影が見えた。
次の瞬間、小さな体が橋から押し出される。悲鳴が聞こえた。
「殿下!」
「皇子殿下! 貴様っ」
騒ぐ数人の間を抜けて、こちらに向かってくる女。その手にあるものが、光った。
あれは、刃物だ。
気づいたと同時に、目の前を背中でふさがれた。左右から秀英と桂英に庇われる。
「止まれ!」
「何者か」
「どきなさい! 邪魔よ!」
身近に揉みあう気配がして、すぐに止んだ。
「離しなさいよ無礼者!」
「大人しくしろっ」
女は、宦官たちに取り押さえられていた。
刃物は床に落とされ、一人がそれを拾っている。ほっとしたと同時に、先ほどの光景が蘇った。
「皇子は……劉葉皇子さまは!?」
わたしの声でみなの視線が向かった先で、水の中から引き上げられる小さな姿が見えた。
ほっとした。
慌てたようにずぶ濡れの皇子を抱えて、一行が去って行く。誰かは来て事情を聞かれると思ったのに、こちらを見ることもなく全員足早に出て行ってしまった。引き止める暇もなかった。
「随分あせっておられるようですが、あちらはとりあえずご無事のようですわね。それで、そちらの方は?」
秀英が問いかけると、女が暴れだした。
「離して! 離しなさいよ!」
「貴様、何者か! 薛婕妤さまを狙ってのことだな?」
「名前を……待てよ。黄采女では!?」
黄采女?
顔を上げて、わたしを睨んでくる。その顔には、確かに見覚えがあった。黄德妃の縁戚で、確か陛下に一番に召しだされたという方だ。
何故か、今は侍女の格好をしている。
「貴女……いったい、何故……」
「白々しいわね女狐が。お前せいで黄德妃さまの兄上は捕縛され、黄德妃さままで謹慎させられてしまった。死ねばいいのに!」
「黙れ!」
「きゃあっ」
宦官が黄采女の頬を張って、無理やりその体を立たせた。
「薛婕妤さまへの無礼、並びに殺害の意図は明らか。わたしどもが連れて参ります」
「婕妤さま、お早く宮へ戻りましょう。この者を連れて行かねばなりません」
「離しなさい、無礼者どもが! 死ね、お前なんか殺してやる!」
わたしを睨んでくる目が、憎悪に染まっていた。
「ええい、黙らんか」
「無礼なのは貴様のほうだっ」
「離して! 殺してやる、お前なんか生かしておくものか!」
宦官が乱暴に黄采女の体を抑えつけたので、顔は見えなくなったけれどわめき声が止まらない。
「花琳さま」
「戻りましょう、早く」
桂英、秀英に両側から支えられて、わたしはようやっと黄采女から目を離せた。
怖かった。
それが殺意というものなのだと、わたしは初めて知った。




