陛下の下命
翌日、まず清花宮を訪ねて来たのは、凛婕妤の侍女だった。
彼女は宮に入る前に女官に呼び止められ、わたしたちが対応するまでもなく、その場で帰ってもらったと報告が入った。
わたしの前で恐縮していた女官の話しぶりと苦い顔から察するに、相当粘ったらしい。でも皇帝陛下の命令と言われ、渋々帰ったというのでほっとした。
だけどその直後、今度は黄德妃の侍女が女官たちの制止も聞かずに入って来た。
「主は一昨日の宴の最中に倒れられた薛婕妤さまのことを、大層心配されておられます」
にこやかな声が聞こえてくる。
体調が良くなったので臥房から出たのだけど、失敗だった。この宮はそう広くない。来訪者を迎えている入口とわたしの起居する房室は近くて、声がはっきり届くのだ。
わざと声を張り上げているのかもしれないけれど、応対する秀英の声も聞こえる。
「誠にありがたいことでございます」
「して、薛婕妤さまはどちらにいらっしゃるのですか? わたくし、主から様子を見てくるようにと命を受けているのですが」
「……申し訳ありません。陛下のご命令で、どなたもこの奥にお通しすることが出来ません。婕妤さまへの面会も、禁じられております」
「わたくしにお会いになれないと仰る?」
侍女の声音が冷えた。
「恐れ多くも、陛下のご命令でございますれば。黄德妃さまにも、そのようにお伝え願えませんでしょうか」
「その德妃さまが、もったいなくも婕妤のお体を心配されているのですよ? こちらの品は黄德妃さまのご実家より贈られてきたもの。それを、直接、お渡しするように命じられているのです」
「申し訳ございません。陛下のご命令ですので……」
卓を叩くような音が聞こえて、側にいた桂英の肩が弾んだ。そっと手を伸ばして腕を触ると、申し訳なさそうに頭を下げる。
顔が蒼い。
「桂英、臥房に下がりましょうか?」
小声で話しかけるとこくこく頷いた。
「はい。……すみません、秀英さまはよく平気でいらしゃいますね」
「そうね」
本当に、秀英が応対に出てくれて助かった。桂英には、まだ高位の方の侍女と張り合うような真似は出来ないでしょう。
わたしもまた、陛下に出てはならないと言われているので助けにいけないのだけど……。
「わたくしは侍女といえど黄德妃さまの代理。それを追い返すとは。其方も婕妤さまも、覚悟はよろしいでしょうね?」
「申し訳ございません。わたくしもわたくしの主、薛婕妤さまも大変申し訳なく思っております。しかし陛下のご命令なれば、逆らうことは致しかねます」
「……黄德妃さまには、しかと伝えさせて頂きますからね!」
「よろしくお願い申し上げます。薛婕妤さまに代り、御礼申し上げます」
ふん、と鼻をならすような音が聞こえてから、足音も荒く遠ざかっていく気配。どうやら秀英が押し切れたようだ。
桂英と顔を見合わせて、ほうっと息を吐く。
こんな近くに居るのが分からないように、息もひそめていたのだった。
やがて、姿を現した秀英はわたしたちを目に留めて微笑んだ。
「臥房にさがっておられてよろしかったですのに」
「戻ろうと思ったのだけど、機会をなくしたの」
ちょうど戻ろうとしたのと、侍女が帰るのが同時だったのだ。
ふと秀英の手が空いているのに気づく。わたしの視線にひとつ頷いてから、秀英は今までいた房室の方を手で指し示した。
「黄德妃の侍女の方が持参された贈り物につきましては、宦官に預けました。花琳さまには、全て侍医が検査したものしか渡してはならないとのご命令ですから」
「陛下のご命令?」
「はい。このような中でいきなり問題のある物を贈って来られるとは思えませんけれども、慎重の上にも慎重にしなければなりません」
わたしに臥房と房室から出てはならないというのと。誰もわたしと面会してはならないというのと。そして陛下以外の者から渡される物は、全て検査しないといけないというのと。
陛下のご命令はこれ以外にもあるのかもしれないけれど、全てわたしを守るためのものだ。陛下のご下命がなければ、身分を盾にした侍女と会わなければならなかったかもしれないし、どうなっていたかも分からない。
「秀英には、苦労をかけるわね」
本当ならわたしが出ないといけないところを、侍女である秀英が矢面に立つことになる。
「平気ですとまではいきませんけれど、大丈夫ですわ。わたくしはああいう方たちにも慣れております。対応はすべてわたくしにお任せになって、休んでいて下さい」
「ええ。ありがとう」
「桂英は、花琳さまをお願いね」
秀英の言葉に、憂い顔をしていた桂英がはっと息を体を震わせた。
「わたくしがお側にいられない間、花琳さまに近づこうとする者がいないかしっかり見張っていてね」
「ええ……あたし。わたくし、頑張るわ」
にこりと笑う秀英に目配せで御礼をする。
わたしにもまた笑んでみせてから、女官の呼ぶ声が聞こえて秀英が頭を下げて踵を返した。
また来客があったのだろうか。桂英と連れ立って、臥房に戻って横になった。
「書物でもお読みになられますか? わたくしが読み上げましょうか」
「……そうね、今はいいわ。お茶をくれる?」
「はい」
用意を始めた桂英の衣擦れもあってか、声がここまで聞こえてこない。
そのまま桂英と話しながら、待っていた。
「宋賢妃の侍女でしたわ」
それから間もなくして秀英が顔を出し、そう教えてくれて肩を竦めた。
「思ったより早かったのね。大丈夫だった?」
「はい。黄德妃の侍女と違って、陛下のご命令だとお伝えするとすんなり納得いただけました。同じく贈り物をいただきましたので、そちらも侍医に回しております」
「そう……」
宋賢妃の侍女は、身分を盾に高圧的なことは言わなかったようだ。このあたり、二人のお妃の人柄が現われているように見えてしまう。
それを伝えると、
「確かにそうですが、宋賢妃さまにも注意が必要ですわ。何といっても、現在お一人しかおられない皇子を擁しておられるのは宋賢妃さまですから。花琳さまのお子がお産まれになって、もしも皇子でいらしたら……」
その先は言わなかったけれど、わたしにも想像がついた。
陛下はその皇子を病弱ゆえに太子にすることなど有り得ないと仰っていたけれど、宋賢妃はどう思っているのだろう。
「でも、わたしが皇子を産むかどうかも分からないのに」
「可能性があるというだけで、脅威なのでしょう」
産まれてしまってからでは遅いと……。そうね。
そうやって殺されてきた宮女たちがいたのだったわ。
「ほんとに後宮って……嫌いだわ」
久しぶりにそんなことを口にした。桂英と秀英が顔を見合わせて、苦笑するのが見えた。




