清花宮という場所
昨夜は顔色を悪くしたわたしを心配された陛下が、早くに帰してくださった。
清花宮で出迎えに現れた秀英、桂英を見てももやもやとした気分になったけれど、何も言えないまま寝台に入った。
朝になって二人の侍女が起こしにきて朝食をとって、そしていつもの挨拶に来た詩玲をぼんやり見つめながら。そういえば前の専任宦官だった寛林はどうだったのだろうと、疑問がわいた。
詩玲がきびきびした動きで房室を出て行くのを見送る。
桂英は卓の上に書物を用意してくれた後、朝食をさげるために房室から出て行った。秀英と、二人きり。
「秀英」
「はい」
呼べばすぐに手を止めて、わたしを注視する有能な侍女。そんな彼女に感謝こそすれ、他意はないのだけれど。
「秀英がわたしの侍女になったのは、陛下のご命令があったからなの?」
秀英は驚いたような表情を浮かべた。すぐに嬉しそうに頷く。
「陛下にお伺いになられましたか? 正確には、陛下のご下命を受けてわたくしの伯母上が侍女と女官の人選を行いました」
やっぱり、そうなんだ……。
「では寛林は?」
「あの方は……分かりませんが、おそらく宦官に命じられてその方が選ばれたのだと思います。あの、これは花琳さまはご存知ないと思われますが」
「何かしら?」
「詩玲は最初、夏才人につけられていたのだそうですよ。そちらに新しい宦官をあてがわれて、こちらの宦官として交代になったのです。本人に聞きました」
「……あー……」
それは、夏才人にとっては微妙かもしれない。
自分につけられた宦官を取り上げられて、別の宦官がやってきて、元の宦官は同じ位の別の才人につけられたとなると。
氾婕妤のところで顔を合わせたときに、初対面なのに睨まれた気がしたけれど気のせいではなかったみたいだ。てっきり、こちらは面識がないのに勝手に敵視されたものと思っていた。ちゃんと、理由があったのですね。
「それに、寛林は売られてきた宦官ですが、詩玲は自宮です。ゆえに心がまえが違うと思いますわ」
「自宮って、つまり自分から宦官になったということ?」
「そうです。彼の家は貧しかったらしく……自ら処置をして宦官になったと聞いております」
「そう」
宦官にも二種類……否、三種類ある。
犯罪を犯して性器切除をされ、宦官として働かされているもの。ただしこちらは裏で雑用をさせられているらしく、貴人の目に触れる場所には出てこられない。
寛林のように人身売買によって切除され、宦官として売られてきた者。切除手術の成功率は低く、ゆえに宦官は高値で売れるのだという。手術失敗はもちろん、そのまま死を意味する。
最後が自ら宦官となった詩玲のような人物。こちらは自ら望んで宦官となったためか、有能な人物が多い……と、言われている。
「寛林のことで下手をうったので、有望な者をお傍に、ということでしょう。彼もまた薛才人さまのために働くものと思われます。たまには、お仕事を作ってさしあげるとよろしいのではないでしょうか」
秀英は悪戯っぽくわたしに笑いかけてくる。
まあ、毎日毎日「何かございませんか?」「とくに何もありません」の繰り返しは、彼にも悪いことをしているかなあ、という気はするのだけど。
でも、
「それって陛下に……ということになるでしょう? 気がすすまないわ」
詩玲は陛下にわたしのことを毎日報告するのが役目だそうなので。
あまりそんな気にならない。
花器に生けた花を手直ししていた秀英が振り返る。
「もしかして、花琳さまは陛下のことをあまりよく思ってはいらっしゃらないのですか?」
「そんなことはないわ」
「わたくしを信用してくださいませ。陛下に告げ口などしません、花琳さまの立場を悪くするようなこともいたしません」
「秀英……」
少しだけ、躊躇った。
「本当に、そんなことはないわよ。ただ、少し、腹立たしいと思うことがあるだけで」
「腹立たしい、でございますか? 恐れながら、陛下は随分とその……花琳さまには気を遣っておられると思うのですが。ゆっくりと時間をかけておられるように見受けられます」
言葉にしなかったが、秀英がうっすら頬を紅くする。
うん、確かにこれまで宮女として正しく陛下のお相手をしたことはない。当然ながらわたしの身近に侍る侍女である秀英、桂英もそのことを知っているとは思っていた。
もしかしたら他の宮女にもそうなのでは、と思ったのだけれど。秀英の反応を見る限り、それはなさそうだわ。……ちょっとだけ、嬉しいかもしれない。
「確かに、そうなのかもしれないと思うけれど」
「ですよね」
でも、そういう問題じゃないのよね。
「陛下は花琳さまの……その、薛家の事情を調べられた後でしたので、性急に事を進めるつもりはないと。そのつもりでいるようにと伺っております。ええ、伯母上から」
「そのことも知っていたの」
「はい。何も言わずにいて申し訳ありません。けれど陛下が人選にこだわられたのは、花琳さまの御身をお守りするためですわ。怪しい者を傍近くに寄せないようにと」
そうか。一応、後宮でわたしが害される可能性は考慮されていて。まあ、たぶん、この宮にいる限り安全、なのかもしれない。
でも事情を聞いても尚、わたしの心はもやもやしている。
「お怒りですか?」
「そうね。ちょっとだけ。……陛下はわたしの周りをすっかり囲い込んでしまわれているみたいだわ」
「後宮の事情は、陛下も深くご存知ではないので。ご心配なのでしょう」
「そうなんでしょうけれど。もう、わたしは……帰れそうにはないわね」
なんとなく、分かっていたけれども。
最近はもう、後宮にいることを前提で色々考えてもいたけれども。
「帰るってどちらに……ご実家にですか? それは無理です、陛下が手放されるとは思いません」
「……分かっているわ」
分かっているけど腹がたつのよ。何もかも、陛下の思い通りになっている。
陛下は皇帝なのだからそれが当然なのだけど、でも、やっぱり腹はたつのよね。
この後戻ってきた桂英と点心の焼け食いをして二人して腹痛を起こしたりして。
一人だけ節度を守って食べていた秀英に心配されたり寝込んだりしているうちに、わたしの心も少しずつ、固まっていった。
陛下をお断りすることなんて、出来る訳がない。そんなこと、最初から分かってる。でも、ただ陛下の思い通りになるのもやっぱり腹立たしい。陛下のことは嫌いではないけれど、たくさんの妃嬪を召抱えておられるのは嫌いだわ。でもそれも、わたしに拒絶する権利なんかなくて……。
どうすれば、良いのだろうと考えて。わたしは、陛下のお心を知りたいと思った。陛下がわたしのことを何故か思っていて下さるというのなら、どこまで、本気でいらっしゃるのか。わたしは知りたい。




