後宮に入った日
朱色の門をくぐり抜けると、その先は石畳の広場になっていて、その周りを同じ朱色の壁で囲まれている。
空を見上げても高い壁にはばまれて、切り取ったような小さな空しか見えない。
どこか圧迫感をおぼえる光景に思わずため息をつきそうになって、慌ててやめた。
同じ年頃の女性たちが並ぶ列が、門が開いたのと同時に歩き出した。裙裳の裾を踏まないよう、わたしも続く。
門から先は後宮。
そしてここは、この国を統べる皇帝陛下が住んでおられる「紫微宮」だ。
門から先に続く狭くほの暗い道。それはそのまま、わたしの未来を示しているように見えた。
わたしの母方の祖父の姉、大伯母にあたる方は後宮に入り、その後失意のうちに非業の死をとげた方だった。
わたしの母はすでに亡くなっているけれど、そういうことがあったのだと母方の縁戚からもよく言い聞かせられてきた。
当時中央で官吏をしていた母方の実家はその事件後は望んで地方官吏になってしまい、未だに中央への不信感が根強い。
祖父の家系は代々女があまり生まれない家系らしく、祖父にとって女の姉妹は姉一人だったし孫の中での女はわたし一人。そのくらい、大事にもされていたせいだろう。
だから本来、宮女募集があってもわたしは後宮になど入るつもりはなかった。母亡き後、わたしを可愛がってくれた父もまた、入れたくなどなかったはずだ。
後宮の、わたしに与えられた房室に入った瞬間、ため息がでた。
一緒に入宮してきた女性たちは、夢見るような顔で幸せそうにしていた。
信じられない。
ここはただ一人の皇帝の寵愛と権力を得ようと、多くの女性たちが命をかけて争っている場所だ。そのためならなんでもするような人たちがいる場所。わたしの大伯母が酷い目に遭った場所でもある。
だから、いずれ皇帝陛下の寵愛をえて皇子を産んで栄達を、なんて夢物語にしか思えない。
「本当に、最悪だわ……」
予定では、十七歳になる頃には従兄弟と結婚して、父の跡を継いでもらう予定だったのに。
別に従兄弟のことを特別好きだったわけではないけれど、さりとて嫌いだったわけでもなく。
わたしは父の一人娘で、この国では女には相続する権利が認められていない。母はわたしを生んで間もなく亡くなり、再婚せず妾も持たなかった父にほかに子供はいないのだから、婿をとって家を継がせるのは当然のことだ。
裕福な塩商である父の跡を継がせるために、そろそろ婚約を──となるはずだった。少なくとも顔も知らない相手と結婚するのではなく、従兄弟と結婚するのはまだ恵まれているかなと思っていた。
宮女として後宮へ入宮するように、という皇帝陛下の命が下るまでは。
「まあ、花琳さま。そのようにお嘆きにならなくても」
聞き馴染んだ声に振り向く。実家から侍女としてついてきてくれた桂英の姿が、房室の入り口にあった。
「桂英、良かった。ちゃんと来ていたのね」
「はい。とくになにも問題ありませんでしたよ。お出迎え出来なくて申し訳ありません」
侍女は侍女で厳重な身元調査、身体検査などを受けてから後宮に入るため、桂英はわたしよりも五日ほど早く後宮に入った。準備をしてくれていたようで房室もちゃんと整っている。
わたしが宮女として与えられた房室は奥の方に寝台の置かれた臥室と、今いる房室、そして侍女である桂英の小さな房室の三つのようだ。ここは普段過ごすための房室のようで、壁にそって榻が置いてあり、少し離れたところ卓と椅子が二脚。衝立や花瓶も置かれているが、自宅の房室と比べると多少見劣りする。
最下級の宮女としては、こんなものなのかもしれない。
桂英がお茶を淹れてくれるので、敷物の敷かれた榻に腰を下ろした。あ、実家のわたしの房室の敷物と同じ感じだ。
「あたしの前では構いませんけれど花琳さま、くれぐれもお口には気をつけて下さいませ」
「分かっているわ」
「お気がすすまないことは重々、ほんとに重々承知しておりますけれども。こうなった以上、頑張って上を目指すべきではございませんか? ほら、お嬢さまは可愛らしい顔をなさっていらっしゃいますし」
「無理ね」
即答してお茶を飲むと、桂英が大げさに肩を竦める。
「戦う前から諦めるんですか?」
「後宮の美女たちと争うような美しさの持ち合わせはないわ。それにそもそも戦いたくないのよ。……あなただって、わたしより前に来ていたんだから色々、噂を聞いたのではないの?」
「確かに……色々とあるようではありますが」
色々、ね──色々。
たとえば皇帝陛下は御歳二十八歳。であるのに関わらず、お子さまは現在は皇子一人しかおられないとか。
市中に流れてきた噂だけでも皇子が三人、皇女が二人ほどお生まれになった後、なんらかの事情で亡くなっておられるとか。
皇后さまは太子妃時代から病がちであられるため、後宮の実権は高位の妃たちが握っていて権力闘争が耐えないとか。
一昨年には妃の位の方と、下位の寵妃が二人同日に亡くなられているとか。火事で亡くなられたそうだけれど、お二人は別々の宮を賜っておられたはずなのにその日の火事は一件。さらに二人とも妊娠しておられた、だから殺されたのだという噂もあったりした。
全てがただの噂と断じることが出来ないのは、昨年立て続けに寺院に送られたり冷宮に落とされた宮女がでたからだ。その人たちは、少なくとも何か事を起こしたか関与した、と判断されたということだ。事実はどうあれ。
ちょっと、うん、色々ありすぎだと思うんですよ。醜聞も死人も多すぎる。物騒すぎるわ。
「わたしは帰れないけれど、桂英は嫌なら帰ってもいいのよ……怖いでしょう」
後宮に仕える者たちも追放されたり死者がでたり、近年は多いと聞く。
尋ねてみると、勢いよく首を振られてしまった。
「花琳さまをお一人で残していくことなんて、出来ません」
「そう? 嬉しいけど、じゃあ、なるべく早めに帰れるように大人しくしていましょう」
「帰れ……るんですか?」
不安そうですね。確かに、後宮に一度入った以上、出て行くのは大変ではあるのですけどね。
「陛下の寵愛をいただけなかったり、病気になったりした者は実家に帰ることも許されるみたいだから。たぶん、大丈夫じゃないかしらね」
醜聞に関係なく、寺院へ預けられる場合もある。でもなるべくならそれは遠慮したい。
お父さまが亡くなって従兄弟が跡を継いでからでは帰る場所もなくなるかもしれませんが、それまではなんとかなるはず。
後宮をもし出られたら、第二の人生を初める。わたしは、失意のうちに死んだりしない。
「帰れるように頑張りましょう」
「何か方向が違うような気はしますが……頑張りましょうね。花琳さま」
「目立たないようにね」
桂英が笑顔になった。
後宮は広い。
今日、わたしと一緒に入宮した女性たちも数十人はいた。目立たなければ、なんとでもなると思う。
きっと後宮を出てみせる。