麗明園の凶事
対面以来顔を出さなかった寛林が、よりによって顔を出したのはその直後だ。宮の中へ入れずに秀英が出迎えに立ったため、遠くから二人の会話が聞こえる。
明日、陛下がお呼びだと寛林が言った。直後、秀英の怒声が響いてきた。
「陛下の召し出しについての連絡がこの時間になるとはどういうことですの! 本来、午前中には分かっていることでしょう。寛林殿は今まで何をされていたのですか!」
「手を離せぬ仕事があっただけだ。悪気はない」
「陛下のご用事よりも、大事な仕事があったと仰せですか!」
「いや、それは……。そんなことより薛才人さまはどうされたのだ、どうしてお会い出来ない?」
「今、すこし具合が悪くおなりなのです」
「では、明日陛下の元へ向かわれるのは無理ではないのか? ならば早くお伝えせねば」
「どなたに、何を、お伝えするんです!」
「もちろん陛下に決まっている。薛才人さまの具合が悪いのならば、別の方を召していただかねばならぬ」
「……貴方いったい、どちらのお方に仕えているのですか」
「薛才人さまだが。主は陛下のままだ」
「……ではさっさと伝えに行きなさい」
「無論だ。では薛才人さまによろしく伝えておいてくれ」
足音も荒く去っていく音が聞こえた。秀英の舌打ちも。
あの行儀の良い秀英が、と思うと笑いそうになって顔の痛みに呻く。桂英が慌てて冷たい布を押し当ててくれた。
「花琳さま、やはり痛いのですね……酷い」
「痛いわね……」
顔も痛いけれど、色々と。
「花琳さま」
戻ってきた秀英の顔が怖い。
「申し訳ありません。差し支えなければ、わたくし、少々出かけてまいりたいのですが……よろしいでしょうか」
「どちらへ行くの?」
「……少し、伯母に会ってまいります」
秀英の、伯母上。
今も、陛下が起居される清和殿でお側近くに仕えているという。
「黙っていては駄目かしら」
あまり騒ぎを起こしたいわけではないし、この程度ならば傷も残らないと侍医も言っていた。穏便にすませたほうが良いのではないかと思うのだけど。秀英も、桂英も首を振った。
「花琳さまも気づいておられるでしょう。婕妤の……張婕妤の侍女の行為はわざとでした。それも、おそらく間違いなく花琳さまに陛下のお声がかかったと知ってのことです」
「……そうかもね」
本来なら本日の午前中には明日のことが分かっていた。寛林の知らせは遅くなったけれど、他の宦官たちもおそらくとっくに知っていたわけで。でも。
「それを知っていたとしても、わたしが房室を出たのは偶然だわ」
「それとなく見張らせていたのではないですか。さほど不思議なことでもありません」
明日呼ばれているわたしのことを知って、わざわざわたしの宮を見張っていたと? 外出したら何かしら行動にうつせるように?
そんな馬鹿な。笑おうとしたけれど、秀英の顔は真剣だった。
「あのう、花琳さま。花琳さまは気づいておられませんでしたけど、わたくしたち、婕妤さまか才人さまがたが他にも来られていたのを見たんです。こちらに帰るときに……」
「お出かけを、止めるべきでした。まさかこんな露骨な嫌がらせをされるとは思わず」
「そんなこと」
知らなかったのだから、しようがないわ。
「花琳さま、わたくし行って参ります。桂英、しばらく頼むわね」
「まかせてください!」
秀英が肩をいからせて踵を返して宮を出て行く。
わたしは黙って見送った。秀英から伯母の侍女に話が行き、そこから陛下の耳にまで届くのだろうか。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
「花琳さま、大丈夫ですか?」
「平気よ」
「え、あの?」
「心配かけてごめんなさいね、桂英。でもわたしは大丈夫」
そう、大丈夫だ。
元々陛下の元に行きたかったわけじゃないから、別に明日行けなくなったからってどうってことはない。
張婕妤とその侍女には腹が立つけれど、陛下のところへ行かなくてよくなったというのならそれはそれで、役に立ったと思っておこう。腹が立つけど。ふつふつと怒りがわいてくるけれども!
「本当に陰険すぎるわよね、ここ」
「花琳さま?」
「そうは思わない? 桂英」
「……まあ、思いますけれど。本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。もちろん」
こんな悪意をぶつけられて、最初は動揺しちゃったけれど。よく考えなくても、後宮ってそういうところだったわ。
「怒っておられますね」
「当然でしょう」
「陛下にお手紙を書かれては? こういうの告げ口になるのかどうかはあた……わたくしには判断できませんけど」
「……必要ないと思うわ」
秀英が伯母のところへ向かったのは、まさにそのためなのだから。それで陛下がどうかなさるのか……なにもされないような気がする。どうだろう。面倒くさい後宮の厄介ごとはお嫌いそうだから。
わたしのことも、別に本気で心配されるわけでも、本気で気に入っておられるわけでもないのでしょうに。それでもわたしはこんな目に遭う……本当に、馬鹿馬鹿しい。
桂英が意外そうな顔をする。
「秀英が伝えてくれるので充分よ。それに皇帝陛下なのだから、女の争いごとなんかいちいち関わっておられないでしょう。わたしに命の危険があった、ということもないことだしね」
「ですが、花琳さまはこんな短期間に三度も呼ばれるほどのお気に入りにみえますが。だからこそ、あの方たちも嫌がらせなんかしたんだわ」
「盛大な誤解だと思うのよね……」
「そんなことありませんわよ」
二度目にお会いしたとき、陛下は誰にも好意を抱いていない、というようなことを仰っていた。もちろんわたしにも、だろう。このままお会いしなければそのうち忘れてくださるのではないだろうか?
仮病作戦でいこう。
ありがとう、張婕妤。あなたが嫌がらせをしてくれなかったら、わたし、明日も陛下のところに伺わなければならなかった。堂々と休めるわ。
──でもやっぱり腹が立つから、いつか復讐出来たらいいなと心に留めておきましょう。
いやだわ、わたしも何か陰険になってきたみたい……。