愛蘭と皇帝陛下
翌日、改めて麗艶と紅花と一緒に愛蘭の房室に向かった。
何故か侍女が渋っていたけれど、臥房の方から愛蘭が声をかけてくれたのでそのまま待つ。臥房から出てきた愛蘭は、召しだされて皇帝陛下の元へ向かった時とは正反対に萎れてしまっていた。
泣いていたのか目元が赤い。
「麗艶、花琳、紅花……あたし……あたし、とんでもないことしてしまって……」
卓に顔を伏せ、さめざめと泣き出してしまった愛蘭に三人顔を見合わせる。
閨のことを話すのは禁止されていることだけど、
「愛蘭、ここにはわたしたちしかいないわ。侍女も下がらせたし……何があったのか、話してくれないと分からないわ」
「そうよ。何を聞いたかなんてわたくしたち口外しないわ」
「いったい、何をしたっていうの?」
紅花が優しく愛蘭の背を撫でてやる。わたしと麗艶はいつものように榻へ並んで座った。
しゃくりあげながら、愛蘭は泣きはらしたような顔を上げる。
「あたし……陛下に呼ばれたでしょ? それで、結構待たされて……で、いざ陛下の前に行こうとしたら躓いてしまって陛下の……書状を墨で汚してしまったの。それも一つだけじゃなくて……」
あー……。
同じ書房に呼ばれたのかしら。たしかに机の上にたくさん書状が載っていたけれど。
「慌ててなんとかしようとしたんだけど、あたし、どうしていいか分からなくなって……気がついたら陛下が、もうよいから帰れって……帰れって言われて……」
「で、でも、それにしては帰ってくるの遅かったじゃないの」
麗艶が不思議そうに問う。
「ふ、服も汚れてしまったから、宦官が途中の房室で休ませてくれたの。そこで着替えて、皆が寝静まったころに連れて帰ってくれたのよ……」
「そう……」
「一応、気をつかってくださったのね」
そのおかげで、愛蘭についておかしな噂などはたっていないと思う。麗艶が何も言わないのだから。
内容が皇帝陛下に関わることだけに、紅花も麗艶もかける言葉に困ったような顔をしている。
「あたし、陛下に怒られて……大事な書状を汚したって罪に問われるかと思うと怖くて……」
「でも、昨日一日何もなかったわけでしょう? たぶん、大丈夫じゃないかしら」
本当にまずいことをしてしまったなら、すぐさま処罰がくだると思うのだけど。
「私もそう思うけど……」
「陛下への心証はともかく、今とくに何もないなら……きっと大丈夫よ」
「ほ、本当に?」
そう聞かれると困るけれど……確証があるわけでもないし。
黙りこんだわたしたちに、愛蘭は顔をくしゃっと歪めた。
「罰も怖いけれど、あたし、陛下に呆れられてしまったみたいで。もう、呼んでいただけない……っ」
「愛蘭……」
一目お会いしただけだろうに、どうしてそんなに思いつめてしまうのか。皇帝陛下って、そういう存在なのだろうか。愛蘭は麗艶のように栄達を望んでいる風ではなかったけれど。
わたしには、よく分からない。
ただ、愛蘭の宮女としての未来は、もうほぼ終わってしまったのだということは分かる。
「もし帰れるようなら、最初の予定通り家に帰りましょうよ」
「花琳?」
紅花と麗艶の二人が、驚いたようにわたしを見る。
「わたしもその時は帰るから、愛蘭も一緒に帰りましょう」
「本当に?」
「ええ」
わたしとよく似た境遇で、豪商の娘だという愛蘭は父母もそろっていて、宮女になることにはあまり乗り気ではなかったそうだから帰る場所がないということはないと思う。だからこそ、愛蘭も帰りたいと言っていたのだろう。
「花琳、ありがとう。でもね……あたし、本当は、もう帰る気なんて、なくなってたの……」
「うん、そうだろうと思っていたわ」
「ここに来てみたら、陛下は本当にすごい人で、みんな陛下にお仕えすることを望んでいて……だんだん、あたしも、そうしたいなって思ったの。陛下は本当に……その、素敵な方だったの」
素敵かどうかはともかく。
愛蘭はきっと、皇帝陛下にあこがれてしまったのね。
「陛下でなくても素敵な方はいるわよ。きっと」
「まあ待って。まだ諦めることはないわよ。わたくしが陛下に召されて、お気に召していただけて寵妃になれたらきっと、愛蘭のことをとりなしてあげるから」
「……あんまり嬉しくない」
麗艶は苦笑する。
「そうだろうけど、仕方ないじゃない。陛下はきっと、その時でもあなたのことを覚えておられると思うわ」
「陛の書状を汚した宮女は、そういないでしょうね」
「紅花まで! 酷いわ」
文句を言いつつ、愛蘭が少し元気を取り戻してきたみたい。
良かった。
「それにしても、陛下の臥房に呼ばれるわけではないのね? 書状があるなんて」
「愛蘭とわたしはきっと同じ房室に行ったのだと思うわ。あそこは書房だと思う。わたしが伺ったときもたくさんの書状が机に積み上げられていたから」
「あ、そうね。そうだわ……臥房ではなかったわ」
「私もてっきり臥房に呼ばれるのだと思っていたわ」
まあ、宮女としての役割を思えばそうでないとおかしいと思うのだけど。
陛下の仰りようからして、全員が全員お相手することを望んでいるわけではなさそうだから、望んだ者だけを臥房に入れておられるのかもしれない。
その後、愛蘭の房室を辞す頃には、愛蘭はほとんど元の元気を取り戻しているように見えた。