閑話:ヴェネリアの会議室で
三百年ほど前、聖霊の啓示を受けた聖人マルゴーが、洋上に浮かぶ島の中から一本の小さな樹木を見つけた。美しい香りを放つ香木だ。その香木を焚くと、諍いや争いに心を支配された人々の心は冷静に戻り、いつしか争いを止めた。香木は世界各地で起こる争いを諌めたが、やがて香木はなくなってしまった
聖マルゴーの死後、その遺骨を祀るため建設されたサン・マルゴー聖堂は二百年の時をかけ、ロマネスクやゴシック等の要素を取り入れながら、美しい建設物へと変貌していく
人々はその美しい聖堂を正面に、左右に大鐘楼と火の見塔がそびえ、経済を動かす局舎に四方を囲まれた空間、サン・マルゴー広場を作り上げた
サン・マルゴー広場を見渡す局舎の一室、華やかな調度品と見事な天井画が施された広間に六名の人影がある。三名はそれぞれ上等な衣服を身にまとい、中央のテーブルで活発な意見を交わし、二名は司祭がまとう法衣に身を包み、窓際に置かれた椅子に腰を下ろしている。そして最後の一名は革の鎧に身を包み重厚な扉の横で立ったまま全員を見ている
意見を交わしている彼らが、このヴェネリアで影響力を持つ三大ギルドの長たちで、法衣姿の二名がサン・マルゴー聖殿の聖職者であり、革鎧の男性はヴェネリア傭兵隊の隊長だ。
■女性司祭アリアの視点
私の名はアリア。サン・マルゴー聖殿で、司祭職の任を受けているサン・マルゴーでは唯一の女性司祭だ。私は栗色の長い髪を後ろでまとめていて、瞳の色は琥珀色だ。年齢は二十歳。
今話をしている細身の老紳士はヴェネリアングラス・ギルドの元締め、グラースだ。細身ながらも芯のある立ち姿は、美しいヴェネリアングラスを思わせる。
「燃料となる石炭が少し高くなって来ていますな。もう何ヵ所か、炭鉱を調べてネゴ(価格を下げる交渉)の材料にしたいものですが……」
「なるほど、では我々トランスポート・ギルドが早急に調べましょう」
そう答えたのは口ひげを生やした中肉中背の初老の男性だ。名をロードスというトランスポート・ギルドの長であり、各ギルド長のまとめ役だ。
トランスポート・ギルドはこの商業国家であるヴェネリアにはなくてはならない存在だ。資源のないヴェネリアでは食べ物も飲み物も、商売になる製品も、製品を作る材料も、別のところから調達しなくてはならない。最も重要なギルドである。
「パリース王国からアンケリー王女の成人祝賀用のレースのケープ注文が入りました。納期は半年後です」
今話したふくよかな女性は、ヴェネリアンレース・ギルドの元締めレスナーだ。この国では、男子はヴェネリアングラス職人、船乗りや漁師、女性はヴェネリアンレースの職人になることが多い。
「ほほう、それはまた良い話だ。各国から重鎮や子爵子女が集まるわけですからな。見事なレースを見せられれば、また引き合いが多くなるでしょう」
「ふむ。祝いのグラスも一緒に贈るのも悪くないのでは?」
いい提案だ、と皆が納得する。ヴェネリアンケープをまとった王女が、ヴェネリアングラスで乾杯を行う……これほど良い喧伝効果はあるまい。また王族に献上し式典に用いられたグラスという名誉がさらにヴェネリアングラスの品位を高めるだろう。
経済活動に関する話が一段落すると、ロードスが私ともう一人の司祭を見た。
「してモルゴー司教。例の不可解な病気について、原因は分かったのでしょうか?」
私の隣にいる白いひげの老紳士が、サン・マルゴー聖殿の司教のモルゴーだ。司教は首を横に振った。
「申し訳ない。まだ皆目、見当がつきませんでな」
「ふーむ。参りましたな」
集まった面々が神妙な顔になる。今、この街では不可解な『病気』に悩まされている。実に不可解な……。聖魔法によって回復する病ではあるが、見たことも聞いたこともない症状で、なぜその病気にかかったのか、その原因さえまるで判明していないのだ。
患者はまだ少ないものの、狭いこの街では急速に拡大するリスクと、また観光地として人々を招く街であることから風評による観光収入の減少リスクのほか、ヴェネリアから他の都市へ病気が伝播するリスクがあるのだ。
「聖魔法で治るとはいえ……病気を発症したすべての人々を治していくとなると……今は数が少ないから良いとしても、患者が増えた場合対応できなくなりますし……。聖魔法には聖魔法なりの『弊害』がでてきますからな」
そう、聖霊の奇跡の力『聖魔法』には弊害がある。どのような傷も病気も、たちどころに治してしまうからこそ、人の心身に良くない影響を与えてしまう。
一つは体が弱くなることだ。何か怪我をしたり、病気になったりした時、聖魔法で回復すると、身体は自然治癒力であったり、抵抗力であったり、免疫力が悪くなってしまう。自らを治そうとする力が働く前に、超越した外部からの力で治されてしまうからだ。
さらにもう一つは意識だ。聖魔法に頼る気持ちが、病気や怪我にたいして鈍感にさせてしまい、本来あるはずの生命の危機を、危機と思わなくなる。
それが弊害なのだ。
私の幼馴染で、今 神殿騎士となった青年がいるが、彼は少量の毒を飲んで免疫力と抵抗力、生命力を高める修練があると話していた。体に敢えて負荷をかけることで、肉体はもとより精神に爆発的な力を宿せるのだ、と話していた。
ロードスが革鎧の中年男性の方を見た。中年とはいえ引き締まった体をしている。傭兵隊のランス隊長だ。
「ランス隊長。旅人たちの中で、例の病気を持った人物がいたということはないですかな?」
「ええ、注意深く見てはおりますが、今のところそういった者はいないようです」
その言葉に皆が頭をひねった。この病がどこから来ているのか、外から運ばれているなら、対処のしようもあるのだが……
「数日後、また新月(月のない夜)になる。次の新月でもまた患者が出たら、法王庁へ怪異連絡をすることも必要になるか……」
ロードスの言葉に皆が頷く。
この病気は何故か……何故か新月の後になることが多い。陽が大きく西へ傾き、サン・マルゴー広場とこの部屋を赤黒く染め上げると、得も言われぬ焦燥感が湧き上がるのは私だけだろうか。
「では、本日の会議はこれにて締めくくろう。皆、大儀であった。怪我や事故なきようよろしく頼む」