4話「1のメイド・あるま」
ぼくは前触れなく、カップを口元に運んでいた。きっかけとかわからない。単純に喉が渇いて身体が勝手にその行動を選択したのかもしれなかった。というよりも純粋にその香りの誘惑に、負けたのかもしれない。
飲んで、肩の力が抜けた。
正直紅茶なんて、午後ティーか紅茶花伝しか飲んだことがなかったし、というかそも最後に飲んだのが中学生かその辺りだったような記憶しか残ってなかった。もっぱら炭酸かカフェオレっていうかファミレスとかのドリンクバーが、口にする味のついたものの定番だった。
だってどれも同じくらいにしか思ってはいなかった。頭の中でコーヒー>紅茶の図式が完成していた。
おもっきし勘違いだった。世界は広かった。ぼくはたった一口で、一瞬で、中世ヨーロッパのなんかすごい名前も知らない喫茶店の元祖的ななにかにタイムワープしていた。
という大げさな表現が瞬間湧き上がるぐらい、それは衝撃的な味わいだった。
だから思わず、零れた。
「……うんまい」
「よかったです」
言葉に、状況を思い出す。そうだった、現在は中世でもここはヨーロッパでも座るのは喫茶店の元祖的ななにかでもなく、現代で日本で、そしてたぶんメイド喫茶だった。
目線をおそるおそる、そちらへ。
笑顔だった。なぜか床に膝をつき、横に倒した両腕を重ねてその上に、少し傾げた右頬を乗せ。今度はなにかを、期待する感じの。
それにぼくは頭のCPUを目いっぱい回して、
「……は、はい。その、むっちゃくちゃ、美味しいです、はい」
「はい。よかったです、はいっ」
真似されてしまった、むっちゃくちゃ可愛く。それに視線を、逸らしてしまう。眩しくて、見ていられなかった。例えるなら吸血鬼に対する、真夏の太陽だった。
五秒ていどの沈黙。ぼくは顔を伏せたまま、メイドさんが立ち上がる気配だけがあった。そのまま足音が、遠くに去っていく。おそらくは、厨房に戻ったのだろう。
安心したような。
ガッカリしたような。
そんなとても不思議な感覚に襲われた。そんな感覚は、ほとんど味わったことはなかった。なんていうか、これ読み切れんの? ってくらいバカぶ厚い具体的にいえば1000ページ超のラノベって言うかヘビーノベル的な小説を読み始めて残り30ページを切った時に似ているというか、むしろわかりづらいか。
ぼくは顔をあげ、改めて辺りを見回しながら、紅茶に口をつけた。酷く、落ち着いた。なにかこう、身体が溶けてしまうような。凝り固まり沈殿した気持ちが、床に染み込んでいくような。
「お待たせいたしました、ご主人さまっ」
いつも不意打ちだった。
「ぃ!? あ、はいィ?」
慌て振り返ると、メイドさんが両手でお皿をしずしずと掲げていた。銀食器。その単語が一瞬脳裏をよぎる。キラキラと光るその上に乗っていたのは――
「クッキー……いや、パン?」
少し歪な円形に近い、茶色の焼かれたものだった。見た目はくるみに近いかもしれない。脇には透明な小型のミルク入れのようなものに入った、琥珀色の液体。こちらはまず間違いなくはちみつだろう。
「スコーンです」
しずしずと、そのスコーンとはちみつがテーブルの上に置かれる。天真爛漫な笑顔と反するような、洗練された流麗な仕草。いわゆる本当のメイドさんって感じがした。
「は、はぁ……?」
まず考えたのが、頼んだっけ? という疑問だった。次に浮かんだのが、え? そういうシステム? という不安だった。そして最後に――それを越えてなお、試してみたいという好奇心だった。
それくらいさっきの紅茶の衝撃は、激しかった。
「…………」
ひとつ、摘む。軽い、そう思った。中が空洞みたいだった、たぶん違うけど。食べ方がわからない。普通に口に、運――
「御主人様」
一瞬自分のことを呼んでいるのだと、理解できなかった。つまりは何度呼ばれても慣れるものではないということだった。
「……な、なんですか?」
「はちみつを、どうぞ?」
にっこり、差し出されたそれに、こちらもスコーンを差し出す。はちみつが、美しい弧を描いて垂らされる。それはスコーンに美しい螺旋を描いたあとそれを越えて皿の上に、まるで絵を紡ぎ出すように――
って、
「おぉ……うさぎ」
「はい、おうさぎさんです」
おうさぎさんって呼称は初めて聞いた所存だった。オムライスのケチャップアートならぬ、銀食器のはちみつアートだった。簡素ながらも、絵本に出てきそうな可愛らしいウサギ。萌えとは一線を画す気配りだった。
「では、どうぞ?」
「あ、はい」
許しを得て――っておかしいか? 口に運ぶ。とたん、それはほろほろと口の中で崩れていった。味は、素朴だ。あまりないといっても嘘ではないかもしれない。だけど小麦というかそれの元来ある味わいみたいなものが、はちみつの天然の甘みと相まって、紅茶との相性は――
一口、啜る。
「……ふはあ」
ため息モノだった。
ああ、いいモノってホントいいんだな当たり前だけど実感も出来ていなかったけれど。
「いかがでしょう、ご主人さま?」
「あ、はい……いやホント、最高です」
偽らざる本心だった。この場所の雰囲気、紅茶の出来、スコーンとというお茶うけ。最高だった。
そしてなにより、メイドさん。
「……あの、」
「なんでしょう御主人様?」
笑顔過ぎる。しかも社交に見えない。不思議だった。営業スマイルなんて言葉、彼女のどこからも発せられていない。言葉のトーンか? 表情の作り方か? 距離感か? 実際言葉そのものでひとが受け取る情報は僅か7%に過ぎないという。ならば同じ文句でも、時と場合と相手によってまったく受け取り方は変わるということなのだろう。
だからなんだというわけじゃない。
ただただ、その子はメイドだなと思っただけだった。
だからといって別にぼくがご主人さまだなんて思ったわけでもないけれど。
「その……」
「あ、お名前でしょうか? わたくし、あるまと申します」
丁寧に頭が下げられる。さすがのメイドさんだった、気配りや先を読む能力が半端じゃない。
にしても――
「あ、あるま……さん?」
「はい、あるまたんとかあるみゃんとかお呼びくだされば幸いです」
スゴイ名前だったが、まぁメイドにはありがちらしかった。以前行ったメイド喫茶でも平仮名2から3文字のネームプレートが軒を連ねていたし、そういうものなんだろう。キャバクラでいうところの源氏名――というよりもネットのHNといったほうが近いのか?
ぼくもつられるように頭を下げつつ、
「そうですか、はい、よろしくお願いします。……それであの、この――」
「ご主人さまのお名前も、よろしければお聞かせ願えますでしょうか?」