中編
中編になります。妹の性格が最悪です。
姉一家の住むという高層マンションに着いた黎は、コンシェルジュに出迎えられ、見晴らしのいいマンションの最上階にある部屋に通され、またもや驚くことになった。
お帰りなさいませ、とメイド服とおぼしき制服を着た、一人は中年、もう一人は姉と年齢の開きのなさそうな女性が一礼していた。
義兄の実家である、千寿家より派遣されてきたという女性らは本職のメイドだという。
黎には縁のなかった、使用人の立場にある人間が二人もついている。
きっと、姉が義兄に頼み家事を面倒臭がって義兄の実家からメイドを呼び寄せたのだ。自分とてたかがメイドあがりのくせに、義兄と結婚した途端、上流階級の奥さまを気取るなんて。
いかにもさもしい姉らしい。
黎が姉を冷たく睨むと、義兄が姉と甥になかに入るよう促し、黎に向き直る。
姉は何か言いたげに振り返ったが、甥がママ早く、と姉の手をひき、長い廊下をかけていく。
義兄に見つめられた黎は慌てて、表情を取り繕った。
「黎さんには悪いが、夕陽は二人目を妊娠していてね。黎さんの身の回りの世話は、彼女たちにしてもらうから安心してくれて構わない。栄、黎さんを部屋に案内してくれ。お前が身の回り世話をするように」
「畏まりました。黎様、どうぞこちらへ」
「え?」
栄と呼ばれた若いメイドが黎の手から荷物を受け取り、その間に義兄は姉と甥が通った廊下を進んでいってしまう。
黎がそのあとを追おうとすると、メイドの栄に黎様はこちらです、と別の場所に案内された。
メゾネットタイプのマンションの、二階に通されこちらがお部屋です、とまるでホテルの一室のような贅沢なつくりをした部屋に通された。
「改めまして、ご挨拶をさせて頂きます栄と申します、黎様。よろしくお願いいたします」
若いが、理知的な雰囲気を漂わせた栄はそれなりに整った面立ちのメイドだった。
黎の世話をするメイドというなら、遠慮する必要などない。黎は、栄の主筋にあたる人間なのだから。
「そう。ああ、荷物を片付けておいて。それと何か飲み物を運んできて、何でもいいわ」
「畏まりました」
「姉さんに話があるの。部屋に来るように伝えて」
優越感に浸りながら、栄に命令し、黎は部屋のなかを見て回る。
ベッドやトイレ、バスルームまで備わった豪華な広い部屋はどうやら来客用の客間のようだ。部屋に満足していると栄がワゴンを手に戻ってきた。
てっきり姉も同行しているものだと思っていた黎は姉さんは、と詰問する。
「あいにく、奥様はお休みになられております。久しぶりの外出でしたので、お疲れになられたのかと」
「あらそう。・・・・あなたは姉さんとお義兄さんがここに住んでからずっといるの?姉さんの世話は大変でしょう、何も出来ないんだから」
内心を圧し殺し黎は身内にかわって謝罪する体を装い、栄から何か愚痴でも出てこないかと誘導する。
栄は紅茶の注がれたティーカップを黎に差し出しながら返答する。
「いいえ、私は奥様が御懐妊されてからこちらに派遣されて参りました。それまではメイドの派遣はございません」
「妊娠してからって、それまでは誰がいたの?」
「私の知る限りでは、メイドがいたことはございません。家事の一切は奥様がこなされていたようです」
栄から愚痴どころか、望んだ答えは出てこず黎は素っ気なくもういいわ、と栄を下がらせた。
栄から姉の悪行をきこうとしていたのに、とんだ期待外れだった。
だいたい、妊娠したからといって何なのだ。義兄の実家からメイドを呼び寄せるなんて。
先程も、車の乗り降りや、マンションに着いてからも義兄は姉に付きっきりで、荷物をもつ黎を構ってもくれなかった。今も、義兄と談笑するのを楽しみにしていたのに義兄はメイドに黎を任せ、姉のもとに行ってしまった。
あの美しい、目にするだけでも幸福になれる義兄と親しくなりたかったのに姉のせいで台無しだ。
甥を出産したばかりだというのに、またすぐにみごもるなんて、義兄から捨てられるのを恐れた姉が避妊もせずにつくったに決まっている。
そもそも、甥の年齢から逆算すると姉が義兄と結婚したのは甥をみごもってからだ。今で言う授かり婚というやつだろう。恥ずかしくないのだろうか、結婚する前に妊娠するなんて。
姉は、あまりにも義兄には不釣り合いだ。家柄も美貌も、黎のように他人よりも秀で優れた才能があるならば兎も角、何一つ突出したものをもたないのに、何故義兄と結婚出来たのか疑問だったが、甥ができたのを盾に姉が結婚を迫ったのなら察しはつく。
でなければ、姉など義兄の妻になれるはずがない。
豪華な室内を見回しながら黎はきりきりと唇を噛んだ。
黎ならば、音楽の才能のある黎ならば義兄と結婚出来たはずだ。メイドあがりの姉などではなく。
何もかも劣っているくせに、分不相応だ、生意気だ。
栄により、快適に日々を過ごしている黎は、使用人のいる生活に優越感に浸りながらも不満に思うことが一つあった。
黎と姉一家の居住空間は一階と二階で仕切られてしまっており、姉と二人で話す機会は勿論、義兄とも会話することが少ない。
悪阻が酷いという姉は、体調の優れないときには休んでいることが多く、黎がわざわざ下に降りていっても、姉のそばには母親の膝にまとわりつく甥ともう一人のメイドが常に控えていて、また黎が下に降りる際には栄も同行してくる。
甥にも、上の黎のもとにも遊びに来るよう伝えたが、姉が不調のときには大人しく姉の枕元で絵本を読み、好調のときには元気に下で遊んでいるようだった。
一流企業に勤める義兄の帰宅は不規則だが、なるべく早めに帰るよう心がけているそうで、義兄が帰宅すると二人のメイドは千寿本家へ戻ってしまい、義兄はその分姉にかかりきりなのだ。
甥のために、食事も早めに済ませてしまうので必然的に黎が義兄と顔を合わせる回数は少なくなる。
義兄は名家の御曹司らしく落ち着きと品の良さを備えた紳士で、黎に対しても優しい。
義兄の母親が外国人らしく、日本で生まれ育ったために日本語が堪能で母親の母国語は勿論、公用語の英語も話せるらしい。
義兄の容姿から察するに、義兄の両親も美男美女だろう。年齢のはなれた兄も二人いるようで、元々このマンションは次兄の持ち物で誰も住んでいないからと義兄に譲られたそうだ。
既婚者で子供もいるという兄二人の容姿も、優れているに違いない。
早くあってみたいものだと思っていた黎は二人の兄のうち、長兄の妻が姉を訪ねてくると聞き、喜んだ。
義兄にも、義兄の両親や親類に挨拶したいのだと申し出でてはいたが、姉の不調と多忙によりやんわりと断り続けられていたのだ。
また長兄の妻だけでなく、その一人息子も母とともに訪ねてくるらしく、甥もにいにに会えると喜んでいた。
どんな美女だろうかと、義姉の訪れを心待にしていたのに、中学生だという息子とともに来た義姉を見るなり黎は拍子抜けした。
予想していた美女ではなく、どこか姉にに通った雰囲気をもつ、ありふれた女性だった。
だが、千寿に劣らぬ名家出身というだけあって上品な品の良さのある女性だった。
引っ込み思案で、親しい友人の少なかった姉は義姉を歓待して迎えた。
美乎、という名前の義姉のほうも、夕陽さんと姉の手をとりにこにこと笑顔で義理の姉妹とは思えぬほど、親しげだった。
一応、黎は美乎さんにも挨拶をしたが内心では落胆していた。こんな女性だとは想像もしていなかった。
母とともに挨拶をしてきた息子、英秀のほうは母親に似たところなど何一つない、どこか義兄の面影のある整った面立ちをした少年で、父親似なのだろう、中学生にしては如才なく挨拶をし、物腰も上品だった。
母親の身長を既に追い越した、秀麗な面立ちの英祥は母親を気遣い、にいに遊んで、とまとわりつく甥を抱き上げると甥の部屋に行ってしまった。
中学生の息子がいるとは思えぬ美乎は、姉のすすめたソファに座ると千寿家より同行してきたメイドに携えさせていた荷物を受け取り、姉に差し出した。
「夕陽さんの悪阻が酷いと、英祥さんからきいてまた作ってきたのよ。お義母さんもとても心配なさっていて、私と一緒に来たがっていたのだけれど、あまり大勢で押し掛けてはご迷惑だからと、お義父さんに止められてしまってとても残念がっていたわ。樹梨衣さんも、私と一緒に来る予定だったのだけれど、やっぱり禎祥さんに止められてしまって」
美乎さんが姉に差し出したのは、手作りらしい果物のゼリーだった。
食欲のない姉は、簡単に口にできるものばかり食べているらしい。
「本当はお義母さんが直接渡したかったらしいのだけれど、代わりに私が運んできたわ。今運んでもらっているところだから」
「あ、あのお義母さんは何を」
次から次へと運び込まれてきた箱の数々に姉は美乎さんに尋ねる。
大小の様々なサイズと形状のそれらは、山のようにリビングの隅に積まれていく。
美乎さんも苦笑しながら姉の問いに答えた。
「夕陽さんのお洋服や靴、装飾品もあるみたいだし、珪明君の玩具やお洋服、だとおっしゃっていたわ。私と樹梨衣さんが選んだものもあるのよ」
「こ、これ全部ですか?つい先日もいただいたばかりなのに」
「お義母さんはあまりご自分の買い物はなさらないのに、私や樹梨衣さん、夕陽さんのものを買うのが楽しいとおっしゃっていたわ。息子ばかりで、娘が出来て嬉しいからと。お義父さんもストレス発散の買い物をしているから気にしなくていいと以前言われたのよ。だから夕陽さんも気にすることはないわ」
リビングに積みあげられた箱の数々は、二人のメイドによって片付けられていく。
あとでお礼の電話をします、と姉は困惑しながらも嬉しそうだった。
その後二人の共通の趣味だという、華道の話になり退屈した黎は早々に挨拶だけして上にあがった。
栄に何か飲み物を持ってくるよう命じながら、短く舌打ちをした。
ファッションに疎い姉が、道理で品も質もよい高価なものを身に付けているはずだ。義母が新たに姉と甥に買い与えた品も、高価なものばかり。甥は兎も角何故姉にもあれほど買い与えるのだ。
昼過ぎに訪ねてきた義姉は、中々帰ろうとせず何時もよりかなり早めに帰宅した義兄の声に黎は再び下へ降りた。
勿論義兄を出迎えるためだったが、直後に響いた甥の泣き声に黎は思わず顔をしかめる。
甥は快活ではあるが、泣くことは少ない。幼児の泣き声ほど、気に障るものはない。さっさと泣き止ませればよいのに、と階段の中程で立ち止まり、様子を伺うと宥める姉の声に混じり、英秀が従弟をなだめていた。どうやら、久しぶりに会った従兄と離れるのが嫌で泣きわめいているらしい。
「珪、夕陽叔母さんの体調がもう少しよくなる頃には夏休みになってる筈だよ。そうしたら遊びにおいで。おじい様もおばあ様もいるし、禎祥叔父さんたちもいる。珪が来たらみんな喜ぶよ。夕陽叔母さんも、赤ちゃんを産むときには千寿の本家に来るはずだから暫く一緒に住めるだろうしね。そうでしょう、母さん」
「ええ。お義母さんもそのつもりで色々と準備なさっているのよ。珪明君のときもそうだったのだもの、今回もそうするといいわ」
「ほんとう?ママ、じいじのお家に行くの?僕も、僕も行くからね。パパも行くの?」
「パパが夕陽と珪がいるところにいないわけないだろう?珪、今日は我慢出来るな、美乎伯母さんと英秀はお迎えが来てるんだ。早く帰らないと」
「お迎え、ですか?まだ迎えの車を呼んでいないのに?」
怪訝そうに、美乎さんが義兄に尋ね、姉が長いこと引き留めてしまって、と美乎さんにお詫びする。
「・・・・ああ、父さんが来てるんだよ母さん。だから珪祥叔父さんがもう帰ってきたんだ。父さんのことだから、母さんが心配で叔父さんをせっついて帰ってきたに決まってる。そうでしょう、叔父さん」
「相変わらず英秀はさといな。義姉さん、兄さんが今か今かと下で待ちわびていますよ。長居をさせると、俺が兄さんに叱れます」
「夕陽さんとお話するのが楽しくて、私がすっかり長居をしてしまったのよ。夕陽さん、また来るわね。今度は樹梨衣さんや、お義母さんも一緒に」
「はい。美乎さん、お気を付けて。英秀君また珪明と遊んでくださいね」
和やかに姉と美乎さんが挨拶を交わし、甥もばいばいにいに、と機嫌を直して従兄を見送る。
二人が帰った後、黎は下に降りていき義兄に挨拶をした。義兄は常のように挨拶を返してくれたが、すぐに姉と甥に興味が向いてしまい、身重の姉を気遣い黎との会話はそれきりになり義兄は姉の悪阻が酷いために検診にもつきそうとの話もしていた。
重病でもあるまいし、悪阻ぐらいで騒ぐ姉が悪いのだ。大人しく寝ていればいいのに、忙しい義兄にまで迷惑をかけるなんて。
姉は昔からそうだった。両親や黎に迷惑をかけてばかりだったのに、今も変わっていないなんて。
姉のまわりには、黎のように姉の欠点を指摘し諭す人間が今はいない。だから姉も以前の性格の悪さのままなのだ。
姉と二人で話せれば、黎が姉の欠点をすべて指摘し、説教してやるのに。甥もメイドもいるせいで、二人きりになれない。
検診に出掛けるという姉は支度を済ませ、甥も連れていくとのことで支度させていた。
黎が面倒をみる、と姉に言ったが甥がついていくと譲らず、姉もいつも大人しくしてくれているから、とやんわりと断られ、黎は不快になる。
玄関の扉が開き、パパ、と駆け出した甥は一瞬立ち止まったが直ぐに玄関のなかに入ってきた見慣れぬ青年の足に抱きついた。
「日向おじさん」
「珪明君は今日も元気そうですね。なんだかますます千寿に似てきたようですが」
甥を抱き上げた長身の青年は、線は細いが華奢ではなく女性のように麗しい面立ちをしていたが声や体つきは男性そのものだった。
「日向さん」
「今日は、夕陽さん。お元気そうで何よりです。検診だそうですね、千寿がどうしても抜けられないとのことで、学生のお前なら暇だろうと私にお役目が回ってきました。珪明君も一緒に行くんですか?なら私が見ていますから。検診は14時からだそうですね。下に車を回しておきましたからそろそろ出ましょう」
姉と甥に日向と呼ばれた青年は右手に甥を抱き上げ、左手で姉の荷物を預かると早々に姉を促した。
ちら、と黎に目線を向けたが軽く一礼しただけで姉に足元に気を付けてください、と声をかけながらはしゃぐ甥をだきなれた様子であやし、玄関から出ていった。
黎が控えていた栄に、先程の青年の素性を尋ねると、義兄の幼少期からの友人であり、旧くから千寿家に仕える一族の青年だという。もう一人、義兄と同じ企業に勤める邑雲という名前の青年も、友人であり、義兄を主筋と仰ぐ人間だそうだ。
当然のことながら、姉とも関わりが深く甥は誕生当初から二人の青年をおじさんと慕っているそうだ。
年上であろう青年が、姉に敬語を使っていた理由が漸くわかった。どこか恭しい態度で接していたのも。彼らにとって、義兄の伴侶である姉は義兄と等しく主筋である人間だと認識されているのだ。
主。あの、地味で冴えない姉がメイドらから他人からそう思われ、敬われているなんて。
それも、何もかも義兄の妻になった、ただそれだけの理由でだ。
家柄も、容姿も何一つ優れたところなどないのに。それどころか、他人にも黎にも劣るような女なのに。
卑怯な手を使って、義兄の妻となり甥を産み、義兄の家族のみならず義兄に仕える人々からも敬われ、重々しく扱われている。
姉の存在を羨んだことも嫉妬したこともなかった。
両親から愛され、音楽の才能があり、顔立ちも整った黎の前途は明るく、幸福な人生をおくるとしか思ってこなかった。
異性のかげなどなかった姉と結婚する男などただの物好きかよほどの変わり者しかいないと内心で嘲笑っていたのに、姉の夫である義兄のような、容姿も家柄も他人よりも遥かに優れた青年と黎が結婚できるかどうかなどわからない。
黎が、姉よりも劣っているというのか。長年馬鹿にし続けてきたあの姉に。
人としても、女としても。