前編
黎のように、才能もかといって容姿も冴えない姉が結婚した。
それも、国内でも屈指の名家である千寿家の、三男とはいえ直系の御曹司とだ。
不慮の事故で亡くなり、姉妹二人になった黎は直ぐに行動を起こした。
両親が存命中は、黎は私立の音楽科のある高校に在学していたが、両親の遺産がわずかばかりあるとはいえ、到底大学までの学費には足りない。
姉など頼りにならないし、早々に黎は今の全寮制の高校に転学した。
幼い頃から、音楽の才能のあった黎を両親は金や時間を割き、すべての物事において黎を優先させてくれた。
姉を愛していなかったわけではないだろうが、姉の性格もあって両親は黎にかかりきりで姉は殆ど、数年前に亡くなった、祖母が育てたようなものだった。
同じ姉妹でありながら、姉には黎のような才能がなく、あまりに普通の子供であったから両親が才能もあり、顔立ちも整った黎に期待し、かかりきりになるのは当たり前のことだった。
同居していた祖母は、何故か黎より姉を可愛がり読書家な姉にあれこれと本を買ってやり、炊事や家事を教え、今では何の役にも立たない茶道や華道、着物の着付けから琴まで習い事をさせていた。
そんな時代錯誤のままごとの延長のような習い事、いかにも年寄りの祖母らしかった。
身嗜みや言葉遣いなど、黎にあれこれ口喧しく忠告してくる祖母は鬱陶しく、黎の才能を褒めようともしない。
人より優れた部分をもつ人間は、常に謙虚で誠実でなければならないなどど、黎の態度に口まで出してくる。
優れた才能を与えられるのは、黎が優れた人間だからだ。優れた人間しか、その素晴らしい才能は宿らない。選ばれた一握りの人間なのだ。姉や祖母などとは全く別の選ばれた人間なのだから、そんな格下の人間などの相手をしていられないし、したくもなかった。
黎の才能を誰よりも評価し、認めてくれていた両親が亡くなり、黎はショックで泣き続けた。
だというのに、姉は葬儀や諸々の後処理を黙々と済ませ、涙を流してはいたがさほど悲しんでいるようには見えなかった。数年前、祖母が亡くなったときのほうが、黎や両親が呆れるほど涙を流し、暫くは食事をとれずやつれた。
祖母の残した形見の品を、今でも大事にもっているぐらいだ。
姉の薄情さに苛立ち、怒りも覚えた。今まで育ててもらった両親に対してあまりにも情のない。
こんな姉などと、ともに暮らしていられないし両親亡き今、黎より遥かに劣る姉といるだけでも、黎にとってはよくない。
その姉があの千寿家のメイドとして採用されたのは、運が良いとしか思えない。
千寿家は、使用人らのために敷地内に別棟を建て、希望するものは寮として提供しているので姉も寮に入った。
両親の遺産は黎の学費にあてることになり、当然両親もそれを望んでいる筈だ。亡き両親のためにも、黎は音楽家として成功するのだ。
だからこそ、なんとしてでも留学しなければならないのに、両親の遺産ではまかなえないという姉を思わず怒鳴り付けた。両親の遺産を成人した姉が管理しているはずなのに、姉は黎のものである遺産を勝手に使ったのだ。そんなことはしていないと、姉は言い張ったが姉の言葉など信用ならない。
元々両親の遺産は僅かな貯金と家、土地を売り払ったものだけで、借金もありその借金を返済すると殆ど残らないなどと、言い訳を並べたて黎の留学を阻止しようとする姉は、以前から黎の才能と容姿に嫉妬していたからだろう、黎の飛躍する機会を潰そうとしているようにしか思えなかった。
成人しているというだけで、遺産を管理させたのが間違いだった、黎の姉のくせに何という女だろう。
姉を責め立て、期日までに必ず必要な金額を用意するよう言い捨て黎は電話を切った。
どこでどう工面したものか、姉は期日通りに留学費を振り込んできた。こんなに簡単に振り込んできたのだ、やはり両親の遺産を使い込むふりをして、自分のものにしていたのだろう。
黎が成人したならば、姉とは絶縁するつもりだった。あんな女とは早々に縁を切らないと黎の輝かしい未来にかげをおとすことになる。
留学する直前に、姉が結婚したと連絡してきたが忙しいからとろくに話もきかずに電話をきった。
留学先で、必要な生活費は振り込むよう言い捨てて。
留学先から、一時的に帰国することになり黎は仕方なく姉に連絡した。
実家を既に売り払ったために、黎が身を寄せる場所がなかったせいだ。
姉は夫となった男とマンションで生活しているという。
その部屋に間借りしなければならず、黎は飛行機のなかでも憂鬱な気分になった。
狭いマンションに姉だけでなく、他人の義兄もともにいるのだ。どんな男かわからないが、あの姉の夫になる男だ。たかがしれている。そんな男と短い間でも、共に暮らすなど憂鬱で仕方がない。
いざとなれば、その間だけでもホテル住まいすればいいと黎は空港で出迎えを来ているはずの姉を探した。
空港におり、姉がいるという場所を探していると人が、特に女性がわざわざ振り返りある場所を注視していた。それも一人ではない幾人も。
皆若い女性だったが、興奮し瞳を輝かせ、頬を赤らめている。
ざわめきと女性の熱気があたりを漂っている。
誰か芸能人でもいるのだろうかと、黎も女性らが注視する場所に目を向けると周りの人間から頭一つ飛び出た濃い金の、癖の強い髪が飛び込んできた。
後ろ姿からして、すらりとした長身の青年の周りを多くの女性が遠巻きに見つめている。
どうやら青年は、誰か連れがいるらしく周りの女性のことなどきにもとめていない。何か荷物も抱えているようで、時折その荷物を抱え直している。
あたりを見回したが、姉の姿はなく黎は舌打ちをして携帯を取りだし姉の番号にかけた。
直後に、携帯の着信音が響いた。黎が携帯に耳をあてながら無意識にそちらを見ると、金髪の青年のかげから女性が携帯を取り出していた。
女性が顔をあげた瞬間、黎は思わず携帯を手から滑りおとしてした。
以前の、記憶のなかよりも、髪が伸び上品な化粧をした姉は、身に付けている服も貴金属も、上流階級に属する若妻のそれだった。祖母に育てられたせいで、立ち居振舞いが古くさかったがそのせいで、分不相応の身分の雰囲気にもしっくりきている。
黎ちゃん、と昔と変わらぬ呼び方で黎を呼んだ姉の隣には、件の青年が幼子を抱えて佇んでいた。
驚いたのは、姉の変化だけではない。青年の、美しく整った面立ちにだった。東洋系の平坦で凹凸の少ない面とは異なる、西洋系の堀の深い美貌。ややつり上がりぎみの眦と、肉の薄い唇がどこか酷薄な印象があるが、極上のエメラルドのごとき鮮やかな瞳が何より美しい。
姿勢が良く、また身体のバランスも良い。
雰囲気も粗野さなど欠片もない、優雅で高貴な出自の良さを伺わせた。
青年の腕に抱えられているのは二歳ほどの幼子、男の子のようだが、父親と同じ髪と瞳をもち、まるで天使のように愛らしい。
その幼子が青年の腕のなかからママ、と姉を呼びママのところに行きたいから降ろしてパパ、と青年にねだった。
ママ、パパ。
黎はひくり、と唇を震わせる。
では、ではやはりこの青年が、姉の夫なのだ。
冴えない姉などには到底釣り合わない、この美しい青年が。
年若い父親の腕から降りた、黎にとっての甥は母親に抱きつきかけ、何かを思い出したかのように母親の手を握った。
呆然とする黎を、姉は義兄に紹介した。
妻と息子に目線を向けていた義兄は、黎にそのエメラルドの瞳を向ける。
見つめられただけで、動悸がした。眼窩の大きなくっきりとした堀の深い二重に、長い睫毛が肌に影を落とす。
す、と一瞬義兄は瞳を眇めた気がしたが、肉の薄い唇が弧を描いた。
「初めまして、千寿珪祥です。黎さん、でいいのかな?」
薄い唇からこぼれた声は、低めの深みのある美声でその外見とは反し、日本語の発音も張りも完璧だった。
「ふ、深海黎です」
美しい笑みにみとれ、声がかすれる。頬が赤くなっているかもしれない。
髪型も化粧も服装も、何もかも直したくなった。姉と義兄に会うだけだからと普段と変わらぬ格好をしてしまった。
義兄に続き、甥も挨拶してくれ、黎は義兄によくにた甥を愛らしく思った。
空港まで車で迎えに来たという姉一家は、近くまで車を動かしてくるという義兄が先に車を取りに行き、甥は姉と手を握ったままはなれようとしない。拙い言葉で、ママ、ママ、と懸命に母親と会話している。
黎は姉さん、と固く強張った声で姉を呼ぶとどういうこと、と姉を詰問した。
「結婚したってきいたけど、お義兄さんみたいなひとだとも、妊娠してるともきいてなかったわ。どうして教えてくれなかったの?」
「黎ちゃんには、きちんと電話で説明したはずだけど」
姉は困惑したように眉を寄せていたが、きいてない、と黎ははっきり断言した。
「私は姉さんの妹なんだもの、あちらのお家にだってご挨拶するべきだったでしょう?礼儀を知らない妹だと思われたわ、姉さんのせいよ」
義兄の美貌にみとれるばかりで失念していたが、千寿というのは姉がメイドとして勤務していた、国内でも屈指の名家である千寿家だろう。
そんな名家と縁戚関係になれたというのに、また姉のせいでチャンスを逃すところだった。
「黎ちゃんは留学する直前のことだから、挨拶は必要ないとあちらのご両親が仰ってくださったのよ。そんなこと思われるご両親じゃないわ
」
「そういうことじゃないのよ、だから姉さんは」
更に姉を詰問しかけた黎は、ママ、と表情をかたくした甥の声に、言葉をのみこんだ。
「ママ、大丈夫?」
母親の顔を見上げた甥は、黎を先程とは明らかに異なる様子で見つめ、母親の手を握り直した。
「ママ、パパまだかな?」
「パパならもうすぐ来てくれるわ。どうしたの?」
姉が優しく甥に尋ねると、甥は再びちらりと黎を見つめる。
「ママ、パパのところに行こう。早く」
甥はぐいぐいと姉の手を引き、早くパパに会いたい、と駄々をこねた。
甥の態度に引きずられる形で、黎も空港の出入り口に向かうと、近くの駐車場に車をとめてきたという義兄の姿を見つけるなり、甥は姉の手をひいたまま、パパと駆け出した。
義兄の手をとり、何故か甥は片方の手で繋いでいた姉の手を義兄に握らせると、空いた手で再び姉の手を握る。
息子の行動に、いぶかしみながらも、義兄は姉の手を握り直す。
「パパ、ママの手、ぎゅっとしててね。僕はいいから、ママの手をぎゅっとして」
懸命に言い募る息子の金髪を撫でた義兄は姉の手ではなく、腰を抱き寄せた。
珪祥さん、と羞恥する姉がなんとも態とらしい。
「お義兄さん、車はどこですか?」
愛想良く微笑んで、黎は義兄に尋ねる。
飛行機のなかでの、憂鬱な気分が嘘のようだ。美しい義兄と、甥とともに暮らせるなんて。
義兄に腰を抱かれた姉は、何故だか悲しげにつと目を伏せたことなど、きにもとまらなかった。