信頼ニ値ス
久々に吸う外の空気は清々しく、心地好く。僕は大きく手を伸ばし、思い切り深呼吸をした。家の周囲に生い茂る、草の香りが鼻を刺激する。
「付いて来いよ」
蘭子さんは言いながら、足早に家の脇へと進んでいく。僕は置いていかれないよう、小走りに後を追った。
横目でちらと家を見ると、内装から想像していたよりも遥かに古めかしかった。土壁が所々剥がれており、日陰になっている箇所では小さな草まで芽吹いていて。茅葺の屋根はもう何十年も放置されているらしく、薄くささくれ立っている。
大戦前の幼い頃に父と行った、帝国上野博物館を思い出した。企画展で飾られていた『明治時代の民家』の白黒写真に、この家は良く似ている。尤も、そうだとしたならば、この建物は第四次大戦での空襲を免れたことになってしまうが。
それにしても、生活感がない。外周を覆う叢のせいか、古めかしい外観のせいかは判らないが、生活の気配と云うものがまるで感じられない。ひっそりと佇む様は、空き家のようにしか見えなかった。
「遅えぞ」
蘭子さんに急かされ、僕は歩みを速める。腰まである草の中を進むのは慣れていないと大変で、どんなに急いでも蘭子さんには追いつけそうになく。
僕は大戦中に暮らしていた疎開先の田舎町を思い出し、滑らないよう足元に気を配った。当時の学友が言うには、しっかりと踏みしめて歩けば転ばない、らしい。慎重になりつつ早足で歩くのは大変だが、これ以上蘭子さんを待たせる方が大変な気がする。
遠めに見ても判るほど苛立っている蘭子さんを待たせたら、恐らくは。
「ちんたらしてんじゃねえよ」
怒りの鉄拳制裁が待っている。
「すみません」
折角治りかけているのに、怪我でもさせられたら適わない。大体、何故こんな風に家の裏手に回らなければならないのか。意味が判らない。僕は『仕事に付いて行く』とは言ったが、叢を歩きたいとは言っていない。
「判ってんなら急げや」
これでも僕は急いでいるんです。そう言いたいのをぐっと堪え、僕は黙って蘭子さんの元へと向かった。
「すっとろいなあ、坊主は」
蘭子さんはおかしそうに言うと、そのまま家の裏手を指差す。
「あれが、商売道具」
指し示された方角を見て、僕は思わず息を飲んだ。この古めかしい建物や草の生い茂った環境とは、余りにも似付かわしくない。
「これは……」
飛空機の格納庫。叢に隠れるよう半地下に設置され自然の迷彩に守られているそれは、ぱっと見ただけでは気付くことは出来ないだろう。光の反射を抑える為か表面をざらつかせ土色に塗られてはいるが、恐らく金属製だ。表面は土に似ていたが、草が全く生えていない。
そして何より。
「付いて来な」
手で触れたときの生暖かく滑らかな感触が、金属製だと物語っている。
僕は言われるがまま、蘭子さんの後を付いて行った。格納庫の脇の小さな階段を下ると、重厚な鉄扉が目に入る。頑丈そうな、大きな扉。格納庫の扉と云うよりは、寧ろ待避壕の扉のようだった。
「なあ、白雄」
蘭子さんは徐に振り返り、僕を見る。
「逃げるなら、今の内だぞ」
にんまりと笑う蘭子さんに対し、僕は首を大きく横に振った。
僕の反応を確認するや否や、蘭子さんは鉄扉を開け放つ。きい、と云う金属の擦れる音が響き、中からひんやりとした空気が漏れ出す。
電灯の釦が押され明かりが点けられると、飛空機の姿が目に映った。大型の、恐らくは四人乗りの、家庭用と思しき飛空機。色は白く、しかし塗装の具合から素人が塗ったのだと判る斑が何箇所にも見て取れた。下から覗いている色は、青。元々は空軍の飛空機と似たような色をしていたらしい。
否、違う。この青は。
「蘭子さん、これって」
良く見ると、尾翼の形も帝国軍の物と酷似していた。大型の戦闘機は珍しいが、軍が所有していないとも限らない。しかし。
「空軍の」
飛空機の近くに駆け寄り、塗装の剥げた部分を確かめる。鮮やかな空の色。戦闘機ではなく、物資輸送用の飛空機だとしたら。
「軍用機、ですよね?」
僕が目にしたことのある飛空機は戦闘機だけで、小型の、一人乗りの物が殆どだった。機動性に欠ける大型機は、戦闘には向いていない。けれど目の前のこの飛空機は間違いなく。
「ああ、多分な」
格納庫の入り口付近で何やら作業を行っているらしい蘭子さんは、あっけらかんと答えた。
「何で軍用機がこんなところに」
僕は飛空機から目を離し、蘭子さんの方を振り返る。しかしそれ以上、言葉を続けることが出来なくなってしまった。
蘭子さんが、服を脱いでいたのだ。正確には着替えをしているだけなのだろうが、そんなことは関係ない。下着姿で堂々とされてしまっては、僕にはどうすることも出来ない。
慌てて目を逸らし、落ち着きを取り戻すべく、僕は兎に角饒舌に喋った。
「あ、これ。座席の下に一升瓶を置いといたら危ないですよ」
しかし、喋れば喋るほど後ろが気になり。
「この尾翼。やっぱり空軍のですよね」
取り留めもなく発せられる言葉は、虚しいほどに無力で。
「知ってます? 訓練用の機体って主翼に白い線が入ってるんですよ」
僕は後ろが気になって仕方がなかった。
考えるに、蘭子さんは僕を子供扱いし過ぎているのだ。今も僕のことなど気にもせず着替えているが、僕は立派な大人だ。昨年元服したばかりとはいえ、成人男子だ。それを気にもせずに着替えるなど、どうかしている。
恥じらいが足りない。女性としての自覚がなさ過ぎる。
「ああ、面倒臭え」
衣擦れの音と共に、蘭子さんの呟きが聞こえてきた。気にしないようにと思えば思うほど気にかかるのは、僕が成人男子だからであり。
「この原動機、最新型のですね」
要するに、おかしいのは僕ではなく、蘭子さんの方なのだ。
「堅っ苦しいわ。女物の服なんて着るもんじゃないね全く」
着替えが終了したらしい。けれど僕は、振り返る気にはなれないでいた。当たり前だ。腹立たしい。代わりに、若干前屈みになりつつ飛空機の操縦席に座ってみる。しかし。
全く以て落ち着けそうにない。いっそのこと、気付かなければ良かったと思う。
握り心地の良さそうな珪素樹脂製の操縦桿に手を伸ばしていると、蘭子さんが声を掛けてきた。
「坊主は、その型の飛空機ってのは操縦出来るのかい?」
かなり近くから声がする。僕は惑わされないよう操縦桿を見詰めつつ。
「基本は同じ筈ですから」
しかし意識しつつ、答えた。
「なら良かった。出来ないって言われたらまた着替え直さないといけねえからな」
蘭子さんは僕の様子を気にすることなく、後部座席に乗り込んだようだった。随分と布の量が多い服らしく、生地の擦れる音がうるさく聞こえてくる。
「燃料は入ってるかい?」
座席下に転がっていた一升瓶を手に取り、僕の視界に入るよう翳す。ちらりと見えた袖は鮮やかな翠玉色で、細かな白の襞で装飾されていた。おそらく夜会服のような、華族の人間が着るような服だろう。
「一応、半分は入っているみたいです」
燃料計を見ながら僕は答えた。蘭子さんのことは気にしない方が良い。どのような格好をしていようが、僕には関係がない。
「良し。じゃあ、出発準備してくれや」
出発と急に言われても、どうすれば良いのかが判らない。そう云えば、他には誰も乗せないのだろうか。仕事がどう云った内容でどのように行っているのかすらも判らない僕だけを連れて行くなんて、それこそおかしな状況だが。
一応、原動機を起動させ、僕は蘭子さんの指示を待つ。原動機からは、ほのかに甘い香りが漂ってきた。
「とりあえず帝都を目指してくれ。あいつらもじきに追いつくだろ」
僕の肩に手を置き、蘭子さんが言う。ひらひらとした袖飾りが僕の頬に触れ、こそばゆい。原動機の発する甘い香りと相まって、何と云うか。
「何処から上がればいいんですか?」
操縦桿を握る手に、必要以上に力が籠もってしまう。
「ああ、そっか。これって確か御法度だったっけな」
蘭子さんはおかしそうに笑うと、操縦桿の左にある黒い釦に手を伸ばす。真後ろの席からだったので、上半身が僕の後頭部に触れた。暖かく、柔らかい。そんなつもりは微塵もないが、意識が其方に集中しそうになった。
いくら気にするなと言い聞かせても、僕は。
「蘭子さん、ちょっと」
子供扱いされているとは判っていても、僕は。挑発されているようにしか思えない。
「ああ、悪い悪い」
悪びれる様子もなく、そのまま蘭子さんは釦を押した。
がうん。何かの開閉器が作動したらしい。続いて電動機の駆動音が響き始め、天井部に隙間が出来る。徐々に広がりゆく青空。同時に、滑走用に床が斜めに倒れていく。
これはひょっとすると、遠隔操作機構ではないだろうか。旧文明の遺物であり、今の時代は御法度となっている技術。電波信号を使い離れた場所から機器を操作出来ると云うのは便利だが、第四次大戦の教訓からか、使用は禁止されていた筈だ。
それが何故、此処にあるのだろうか。
「……見付かったら重罪ですよ」
先程までの落ち着かない気持ちに加え、遠隔操作機構を所持し利用していると云う恐怖感が僕を襲う。旧文明時代には電波機器が多数存在していたらしいが、全て危険だと云うことで現在は使用されていない。遠隔操作機構は戦争の道具としての性能があまりにも高く、人間の身体に作用させることまで可能だったと云う。
もしかしたら、この釦が押されたことによって、僕の身体にも何かしらの影響が出ているのではないか。初めて目の当たりにした機構に、僕はそんなことを考えていた。
「大丈夫だって、誰も知らねえし。……あ、あれか? 白雄は旧文明時代の歴史の授業を真に受けてんのか?」
真に受けるも何も。僕はそう反論しようとしたが、蘭子さんの一言で何も言えなくなってしまった。
「あれは言い訳に過ぎんよ。私らに使わせないための」
斜めに倒れた床のおかげで、目の前には青空が広がっている。
「……それより、ほれ。ちゃっちゃと出発せんかい!」
意味深げに呟かれた言い訳と云う言葉について考えながら、僕は回転羽根を動かした。原動機から発せられる甘い香りが、回転羽根により周囲に広がっていく。心地良い振動に包まれ、飛空機は準備を整えた。
操縦桿を握り直し、離陸姿勢に入る。座席帯を締め、前方を確認し。
「異常なし」
訓練で染み付いてしまった指差喚呼を繰り出し、操縦桿を引く。離陸時特有の轟音が響き、飛空機は空へと舞い上がった。
圧縮空気の爆発音は凄まじく、何度聞いても慣れることはないだろう。安定した高度を保てるようになるまでは気が抜けない。僕は前方に広がる空を眺め、その他の雑念を追い払おうとした。しかし。
「ああ。やっぱ、後部座席は楽で良いやね」
背後から聞こえてくる蘭子さんの呟きに、邪魔をされてしまう。
「そいやさ。坊主、知ってっか? 昔は水で空を飛べてたんだってよ」
燃料の燃える甘い香りを感じつつ、蘭子さんのぼやきを聞かされる。
「羨ましいね全く。清酒は金が掛かっていかんよ」
安全で入手し易い酒類を燃料にするのは、当然のことだと思う。独特の香りは少し苦手だが、燃料としての性能を考えれば仕方がない。石油燃料とやらが使われていた時代には、もう少し良い香りでもしていたのだろうか。
「度数の高い洋酒でも使えば良いのかねえ」
晴れ渡る青空を見ながら、僕はもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせた。安定高度に入ったら文句を言おう。操縦に集中出来ないし、何より気になって仕方がない。
とにかく。蘭子さんは無神経過ぎるのだ。
「酒は飲んでこそだと思わないかい?」
「……知りませんよ」
聞かれないよう小さく呟き、そのまま高度計を確認した。気圧から高度を割り出すもので、誤差は殆どない筈だ。四千米に到達すれば、問題なく滑空出来る。今は三千米なので、あと少し。
「私はどうも葡萄酒が苦手でね。特に赤いの。色は綺麗なんだけどな」
だから。僕にそう云うことを言われても困る。
「やっぱ一番旨いのは焼酎だね」
元服後すぐに士官学校に入学した僕は、酒を飲んだことがない。燃料としてしか見ていないので、どうにも口にしようと云う気になれないのだ。旨いのかもしれないが、あの香りを嗅ぐとどうしても、原動機の匂いにしか思えない。
今の高度は三千五百米。流石に、少し余裕も出て来ている。
「……お。あいつらも追いついたか」
何気なく放たれた蘭子さんの一言が気になり、僕は後方鏡で飛空機の周囲を確認した。鏡には鳶色の小型の飛空機が映っている。運転席を確認したかったが、遠過ぎて出来そうにない。
操縦桿を握る手を緩めながら、僕は蘭子さんに問いかけた。大方予想は付いているが、確認の意味がある。
「あの飛空機は何ですか?」
「ああ。草太郎の愛機。葉月も乗ってるはずだよ」
あいつらもじきに追い付くだろう、と蘭子さんが言っていたのを思い出した。しかし。
「目的地は同じですか?」
追い付く処か追い抜かす勢いで、鳶色の飛空機は速度を上げている。
「当り前だっての。帝都が見えたら言いな、目的地教えっから」
僕の操縦する飛空機の下方を擦り抜け、鳶色の塊が前方へ躍り出る。高度計を確認すると、既に四千米を超えていた。
見渡す限りの青空。鳶色の機体以外、飛んでいる飛空機は見当たらない。まるで空を独占しているような、晴れやかな気持ちになる。
後部座席に座る、口数のやたらと多い女性さえいなければ、なのだが。
「やっぱ最新型の原動機でも搭載しようかねえ」
自分の乗っている飛空機が追い抜かれたのが、余程悔しかったのだろう。蘭子さんが不機嫌な口調で呟く。
「この機体は大型だから、速度は出ないんじゃないですかね。それと……」
僕は言いながら、後部座席を振り返る。今までの文句を言う為であり、静かにするよう告げる為でもあった。
しかしそこにいたのは蘭子さんではなく――否、正確には蘭子さんなのだが――僕の知っている蘭子さんとは、明らかに別人だった。翠玉色の上下繋袴を身に纏い、艶やかな宝石類で飾り立てている貴婦人。化粧はしていないし髪も結っていないにも拘わらず、何処となく気品に満ちた美女。後部座席に腰掛けているのは、そんな女性だった。
馬子にも衣装。否、蘭子さんは元々顔立ちは凛として美しいので。
「……あ、あまり」
お世辞抜きで、華やかな上下繋袴がとても良く似合っている。
「あまり?」
手櫛で髪を梳かしながら荒い口調で問い返す様は、見た目には似合っておらず。
「は、話し掛けないで下さい」
しかし美しさを損なうまでには至らない。座席に無造作に放られていた簪を拾い、手入れの行き届いていない黒髪を両手で纏め。
「いいじゃねえかよ。暇なんだからさ」
そのまま髪を束ねると、細く女性的な項が露になった。
「……僕は、暇じゃありませんから」
蘭子さんを見ないように前方に視線を移し、会話を終了させようと試みたが。
「喋りながら操縦くらい出来なくてどうすんだっての」
僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、蘭子さんがにんまりと笑う。まるで僕には選択権は無いと言わんばかりの行動だ。
「目的地、聞かなくていいのかよ?」
遥か前方を滑空する鳶色の機体を見ながら、僕は首を横に振る。行き先が判らなければどうしようもない。このまま旋回して家の方に戻っても良いが、後が怖い。屹度また、暫く家から出られない生活を余儀なくされてしまう。否、下手をしたら追い出され、投獄される羽目に陥るかもしれない。僕は居候の身で、蘭子さんはこんな人でも、命の恩人であることに代わりはないのだから。
父を探し出すには、家に籠もっている訳にはいかない。紅蜘蛛を利用し、情報を集めなければならない。捕まることは出来ない。
持ちつ持たれつ。どのような関係かは判らないが、彼女たちの目的と僕の目的は、一致している部分があるらしい。ならば大人しく受け流した方が、屹度。
「……そうですよね。僕は目的地、知りませんから」
仲間になると、協力すると言ったのだ。従った方が良いだろう。
「そうそう。白雄は素直で良い子だねえ」
いくら無神経であろうと子供扱いされようと、僕には他に行くべき場所はない。
ふと視線を下界に移すと、帝都の象徴が見えてきた。東京電波塔。郊外に鎮座する空樹と双璧をなす高層建造物であり、旧文明時代に建造された遺物でもある。幾多の大戦を経て今もなお荘厳な姿を保ち続けている、帝国の宝。幼い頃に家族で見学に行ったことを思い出す。
展望室から見た景色はとても綺麗で、今でもはっきりと覚えている。空を覆うよう飛んでいた飛空機群が陽光に照らされ、遠くに見える帝国議事堂がまるで小さな玩具のようで。
いつか僕も空を飛びたいと思ったのは、あの時が最初だった。父の背中を追い駆けたいと思ったのは、あの時が。
「……銀座の松越百貨店ビルヂングの屋上駐機場」
呟くような蘭子さんの声が聞こえてくる。
「あの高級百貨店の屋上駐機場ですか?」
思い出に浸りかけていた僕は、蘭子さんの言葉で我に返った。松越百貨店と云えば、帝国屈指の高級百貨店だ。僕のこの、ほぼ寝起きに近い格好で店内に入れるとは思えない。蘭子さんの着飾った格好ならば入れるだろうけれど。
「着いたら、僕は留守番ですね?」
つまりは、機内で待っていろと云うことらしい。
「うんにゃ。着替え用意してあっから、着いたら着替えろ」
何処に用意してあるのだろう。そもそも、僕はあまり外を出歩けるような立場の人間ではないのだ。普通に考えて、百貨店に行くなんてことは。
「着替えるって言っても」
無茶だ。顔写真付きの手配書が出回っている可能性も、なくはない。そもそも僕が捕まったら、蘭子さんたちにも迷惑を掛けてしまう。
「せっかく草太郎の背広借りるんだから着ろよな? あいつに無闇な借りは作りたくねえんだからさ」
「否、でも僕は脱走兵ですし」
非公開捜査になっている可能性は、高いと思うが。
「んなもん、いくらでも誤魔化せるっての。手伝うんだろ? 仕事」
確かに手伝うとは言った。けれど、こんな人目につく場所に来るとは思っていなかった訳で。
「そうだな、私の弟って設定で行くから。覚えとけよな」
覚えとけと言われても、どうすれば良いのか。大体、百貨店でどうやって『仕事』をする気なのだろう。警備員だって巨万といる。客だって沢山いる。
盗賊団の仕事がどう云うものなのかは判らない。ただ漠然と、悪事に手を染めることになるんだな、とは思っていた。それでもこんな目立つ場所で、こんな目立つ格好で、どうやって。
「……一応、蘭子さんの指示に従いますけど」
どうやって、盗みを働くと云うのか。僕には想像が付かない。
「よしよし。したらば、白雄は宗像蘭子の弟な」
言いながら、蘭子さんは僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
「宜しく、我が弟よ」
どんなに美人でも、こんなに野性味溢れる姉は欲しくない。
「そろそろ着きますよ?」
下界を見下ろすと、既に銀座の街並みが広がっていた。僕は、おそらく座席帯をしていないであろう蘭子さんに、注意がてら大人しくしているように伝えた。離陸以上に着陸には神経を使う。談笑している場合ではない。僕は正面を見据え、操縦桿をしっかりと握った。
さすがに普段は操縦をしているらしく、蘭子さんは僕の頭から手を退ける。着陸作業の大変さは、操縦経験のある人間になら判る。だから僕は、少し安心してしまった。この女性の性格を、すっかり忘れた上で。
百貨店の周囲を旋回し滑空し、高度を下げていく。大戦前と比べて飛空機の利用者が少ないので、どうにか間に合いそうだ。昔のように、空を覆い尽くさんばかりに飛空機が飛んでいたのでは、このように直前になって高度を下げることは儘ならなかっただろう。
松越百貨店の屋上駐機場は、疎らにしか使われていなかった。あまり利用者は多くないらしい。駐機場の責任者と思しき警備員の誘導に従い、僕は端の方の駐機場所へと狙いを定めた。
鳶色の機体は既に到着しており、見覚えのある優男が後部座席の扉を開く様が目に入る。後部座席に乗っているのは葉月さんだろう。何だか他人の逢い引きを覗き見ているような、変な感覚に襲われる。
僕は操縦桿を倒し、着陸態勢に入ろうとした。しかし。
「白雄、女物の服の方が変装出来て良いかい?」
着陸時の一番大事な瞬間に、蘭子さんが呟く。表情は確認のしようがないが、恐らくにやにやしているだろう。僕は彼女の思惑通り、操縦に集中出来なくなってしまった。
「……今は、話し掛けないで下さい」
精一杯、虚勢を張ってはみるが。
「集中力がないねえ、士官候補生様は」
僕が操縦を誤ったら自分も怪我をすると云うことを、この人は忘れているのだろうか。
「私の洋服もあるからね。好きな方を選びなさいな、我が弟よ」
女装なんて出来る筈がない。成人男性を馬鹿にするのもいい加減にしろ。僕はそう言いたかったが、言えるような状況でもなく。
「坊主は細いから私の服も着られるだろ。その場合は妹だな」
否応無しで耳に入り込んでくる蘭子さんの言葉を無理矢理聞き流し、操縦に集中しようとした。あと少し、もう少しで開放される。着陸さえしてしまえばこっちのものだ。多分。
着陸地点までは約十米。滑走路にさえ入れば安定する。
「夜会向けの鬘もあるからな。見付かるのが嫌だったらこっちの方が良いかもしれんな」
両手で操縦桿を持ち、滑走路を見据える。
「化粧は葉月がどうにかしてくれるだろうよ」
がたん、と云う衝撃と共に、僕の操縦する飛空機は屋上駐機場に到着した。全く以て滑らかさかには欠けていたが、どうにか無事に、着陸を成功させられた。
この無茶な状況で、僕は良くやったと思う。士官学校の訓練飛行より、ずっと難易度が高かった。一々大事な局面で話し掛けてきて、蘭子さんはどうしたかったのだろう。僕に対する嫌がらせだとしか考えられない。
「……三十点」
荒い着陸のせいで乱れた服を整えながら、蘭子さんが宣言した。三十点と云うのは、百点満点に於ける点数だろうか。
「白雄、あんたはまだまだだね。こんなことで乱されてどうする? この先実戦いけるのかい?」
乱されたのはあなたのせいだ。実戦は。
「僕はもう士官候補生でも何でもないですから」
実戦に借り出されることは、もうないのだ。僕がどんなに望んだとしても、もう。
「だから三十点なんだっての。いいか、白雄。過去に拘るな。未来に向けていけ」
ひどく不機嫌な表情を浮かべ飛空機を降りながら、蘭子さんがぽつりと言った。口調はいつもと変わらなかったが、目が真剣だった気がする。ひょっとしたら、僕を励ましてくれているのだろうか。
ありえない。とは、言い切れないかもしれない。ひどく不器用なだけで、僕のことを気に掛けてくれているのかもしれない。
「……蘭子!」
駆け寄ってくる足音と共に、葉月さんの声が聞こえた。振り返ると、葉月さんが大きな紙袋を抱えているのが見える。恐らくは、僕の着替えだろう。
「遅かったな、鷹木少佐の息子くんは」
鳥打帽をひらひらと掲げ、草太郎さんがゆっくりと歩いて来る。
「よし。全員集合だな」
腰に手をあて満足そうに微笑むと、蘭子さんは僕の方を見た。先程の不機嫌な顔とは違い、妙に楽しそうににやけている。何故か、僕は嫌な予感がした。
操縦桿から手を離し、徐に座席帯を外す。そのまま、飛空機から降りようとした。いつまでも此処に座っている訳にはいかない。着替えるにしても機内では狭過ぎるだろうし、何より硝子窓のせいで外から丸見えになってしまう。
「じゃあとりあえず、白雄はちゃっちゃと着替えちまいな」
にやけ顔のまま、蘭子さんが命令した。
「え? 此処で、ですか?」
しかし僕がそう尋ねるのは想定内だったのか、蘭子さんは当り前だとしか言わない。
「はい。着替え」
葉月さんに紙袋を手渡され、僕は仕方なく座席で着替えることにした。飛空機の外からの視線が気にならなくはないが、恥ずかしがっている場合でもない。確かに狭いが、着替えられない程でもない。
とは言え、何でこんな処で、とぶつぶつ不満を垂れるくらいは、僕にだって許されるだろう。よれた服を脱ぎながら、僕は大袈裟に溜息を吐いた。
矢張り、先程思ったことは撤回しよう。気にかけるような優しさは微塵も感じない。蘭子さんは面白がっているだけなのだ。成人男性をからかって面白がるなんて、本当に悪趣味だけれど。
操縦桿に腕をぶつけながらも、僕は蘇芳色の背広に着替えた。何処となく幼い型の背広は、しかしとても仕立てが良いようで。若干袖が足りないものの、着心地は悪くなかった。
「……俺の中等学校入学時のだけど、大丈夫だった?」
草太郎さんの一言さえなければ、不満に思わなかっただろうに。僕は少しむすっとした顔で飛空機から降り、紙袋を葉月さんに手渡した。
この人たちは皆、僕のことを子供扱いし過ぎている。
「んじゃ、ま。行きますか」
いつの間にか綺麗な化粧まで施していた蘭子さんに導かれるまま、僕たちは百貨店の店内へと歩みを進めた。
これから『仕事』を行うのだ。こんなに人目に付く状態で、どのように行われるのだろうか。
僕には全く、想像が付かない。