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暁の空、紅の月。  作者: 戸雨 のる
第壱章
4/7

庵ノ中ノ人々

 僕を助けてくれた女性たちは、外に働きに出ている様子がない。寂れた旧式の住宅で、慎ましやかに生活を営んでいる。何によって生計を立てているのか、僕には見当が付かなかった。

「ほれ。白雄は男なんだからもっと食えよ」

 白米を茶碗によそい、蘭子さんが口にする。山盛りに装われた白米は僕には多過ぎるが、しかしそれを言っても聞きやしないのは目に見えていた。

 僕はもう十六で、元服した立派な成人男子なのだと幾ら言っても、全く聞く耳を持たないのだから。

「こんなに食べられませんよ?」

 一応、するともなしに否定はしてみるが。

「いいから食っとけって。体調を整えるにはまず飯だ。な?」

 矢張り、耳を貸してはくれなかった。まさしく豪放磊落と云った笑顔を見せ、僕に茶碗を押し付ける。

 これ以上の拒否は時間の浪費でしかないので、僕は仕方なく受け取った。せめて居候が申し訳なく感じていることくらいは、汲み取って欲しいと思いつつ。

 少しばかり恨めしさを込めた目で、蘭子さんをまじまじと見る。口調とは裏腹な、作法の行き届いた箸使い。音を立てることもなく、静かに綺麗に食事をしていた。

「大体さ、そんくらい食えねえでどうするよ」

 ただし、口は悪いが。いや、口だけでなく。

 姿勢良く正座する蘭子さんの長い髪は無造作に結われ、せっかくの艶やかな黒髪が台無しだった。着ている服もどうかしていて、朽葉色ラセットブラウン両前ダブル背広スーツ。しかも合わせからして、恐らくは男物の。

 その上大きさが合っていないらしく、洋袴ズボンの裾は五糎センチメートルほど折り返されていた。しかも胸の辺りは、収まりきれず釦が弾け飛びそうになっていて。動く度に軽く揺れる辺り、つい目で追いたくなる程度には気にならないこともなかったが。

 とは云えどうしても、その豪快さも相俟あいまってか、蘭子さんからは男性のような印象を受けてしまう。せっかく凛とした美しい顔立ちをしているにも拘らず、だ。本当に勿体ないと思う。僕には関係のない話だけれど。

「……食べれますけど」

 無理矢理手渡された茶碗を持ち直し、白米を口に運んだ。ふっくらとして、ほんのり甘い。何処からこんなに旨い米を調達しているのだろうか。正直な処、寄宿舎で出されていたものよりも、この家の米の方が旨かった。

「でも良かったわ。白雄くんが元気になって」

 にこにこと機嫌良さそうに、葉月さんが微笑んだ。緩やかに波打つ栗色の髪に、高襟党ハイカラアな洋服。鳥の子色の絹製らしき襞襯衣ブラウスと、石竹せきちく色の腰巻袴スカアトと云った出で立ちで。

 葉月さんは、まさに手弱女たおやめと云った雰囲気の女性だった。いつもきちんと化粧を施し、素っぴんを見せることもなく。だからこそ、この細い腕の何処にあの怪力が眠っていたのか、僕には見当も付かないのだけれど。

 日焼けしてほんのり黄味がかった畳に手を付き、組んでいた足を解く。礼儀としては些か悪いが、余りに多くを食べさせようとしているのだから仕方がなかろう。僕のことを、寄宿舎でまともな食にありつけなかった痩せっぽちの可哀想な男だとでも、思っているのだろうか。

「ええ、まあ」

 この家の人たちは、僕の本当の素性を知らない。

「旨い飯を食ってるからだろうよ」

 ただの士官学校生だと、思っているに違いない。

「そう云うものかしらね」

 父が指名手配犯だと云うことも、父が先の大戦の英雄だったと云うことも、彼女たちは知らないだろう。

「そう云うもんだっての」

 しかし、言わない方がいい。いつか出て行く時に余計な迷惑を掛けないためにも、知らせない方が良い筈だ。

 卓袱台ちゃぶだいの上に置かれた味噌汁を啜り、一息吐く。昼餉にしては豪華な食卓。切り干し大根の煮物に、若布と豆腐の味噌汁。主菜は目張の照り焼きで、隠元の胡麻和えが添えてある。副菜は菜の花のお浸し。春の旬に彩られた、質素ながらも贅沢な。

 寄宿舎より余程品数豊富で、余程旨く。これで大量に食べることを強要されたりしなければ、本当に素晴らしいと思う。

 艶やかに光る目張を箸で取り、口に運ぶ。甘さと塩辛さが、香ばしさと共に口内に広がった。

「鷹木白雄、体調はどうだ?」

 僕が照り焼きを堪能していると、紅子が珍しく口を開いた。彼女は殆ど自発的に喋ろうとしない。喋る必要がないからか、全く言葉を発しない日さえある。

「まあ、一応」

 急いで飲み込み、答える。僕は少し、彼女が苦手だった。

 明かに僕より年下でまだ女性にすら成り切れていない筈の紅子は、しかし醸し出す雰囲気に含まれた落ち着きが、老成した女性のそれに良く似ていた。

 何でも知っていて、何にも興味がない。まるで全てを悟り切っているかのようで、全てが見透かされそうで。けれど。

「紅子が気にするなんて珍しいねえ。槍でも降るかね、こりゃ」

 蘭子さんは、紅子に対する苦手意識を持っていないようだった。勿論、葉月さんも。

 僕だけがそう感じているのは、付き合いが浅い故なのだろうか。或いは。

「槍なんて降ったら困るわよ。そろそろ仕事しないといけないのに」

 何気なく葉月さんが口にした『仕事』と云う言葉に、僕の耳が反応した。疑問が咄嗟に口を突く。

「仕事って、何をやっているんですか?」

 別段問題のある発言ではないだろう。しかし、ふたりは神妙な面持ちで僕から視線を逸らした。何か人に言えない仕事でもしているのだろうか。例えば、僕を誘拐したことにして身代金を奪おうなどの企てが。

 否、それはないか。僕がいなくなったことは、新聞では報道されていない。行方不明者の捜索欄にも、犯罪者の手配欄にも。別枠のお悔やみ欄、つまり軍内部の人間しか知らないだろう脱走兵の指名手配欄にでさえも。要するに、僕は最初からいなかった人間と云う扱いになっているのだ。

 疎ましい士官候補生が一人いなくなった処で、何も変わりはしない。寧ろ、僕が死んだと思しきことは、士官学校にとっても喜ばしいことなのだろう。

 そうでなければ、最初から燃料のほぼ入っていない飛空機を、最初から落下傘の備え付けられていない飛空機を、僕が手配された理由が判らない。死ぬように仕向けられていたとしか、思えない。

 ふと気付き、戦慄した。僕は殺されかけていたのだと、今更ながら自覚したのだ。

 小刻みに震える手を動かし、切り干し大根の煮物を口にした。出汁の利いた、円やかな味わい。優しい甘味に心が静まるのが判る。何処となく、母の料理に似ている気がした。

「とにかく、ほら。もっと食えって」

 蘭子さんは大袈裟にそう言い、これ以上尋ねることを拒む。仕事。気にならないと言えば嘘になるが、詮索する気には成れなかった。

 僕にも隠し事がある。世話になっている身とはいえ、それに関してははお互い様だ。腹の探り合いになったときに、一番困るのは僕だと云う自覚もある。

 有名人の、犯罪者の息子。匿っていたと云う事実さえ取り除けば、これほど役に立つ手駒はないだろう。身代金ではないけれど、上手く使えば軍からの資金援助を受けることさえ出来るかもしれない。

 勿論、使い方を誤れば犯罪者の烙印を押されることになるのだが。僕の存在は、諸刃の剣だ。そして今はまだ、鞘から抜かれていない。

「鷹木白雄、気になるか?」

 今日はやけに饒舌な紅子が、僕に囁いた。

「別に」

 本当は気にならないわけではないが、しかし今は、これ以上探るつもりもない。

 菜の花のお浸しに箸を伸ばし、考えた。いつまでこうしていられるのだろう。穏やかな生活に慣れ切ってしまったら、後が辛い。判っている。けれど。

 隠元の胡麻和えを口に入れる。白米を一口、味噌汁を一啜り。目張に箸を伸ばし、再度白米を口にする。思考する。けれど、今はまだ。

 今はまだ。

 否、忘れるな。

 目的を見失ってはいけないのだ。僕のすべきことはただひとつ。母の仇を討つことのみで。その為には、のんびり過ごす時間などなくて。

「……御馳走様です」

 おもむろに僕は立ち上がり、台所を後にした。昼餉は途中だが、充分食した。咎められるのは判っている。残すのは勿体ないが、時間こそ勿体ない。それに何より。

「おい! まだ食い終わってないだろ?」

 慣れては、いけないのだ。

 追い駆けるように聞こえてくる蘭子さんの言葉を無視し、僕は自室として利用している部屋へと向かった。最初に寝かされていた部屋。破れ、黄ばんだ襖障子を開き、部屋の中へと足を踏み入れる。

 初めて目を覚ました日より幾分か生活感の出てきた部屋は、それでも、僕の生活の拠点にはなり得ない。薄汚れ、古びた和室。僕の自宅の部屋とは、似ても似つかない居室。

 軽い溜息を吐き、敷いたままの布団に腰を下ろす。カビと埃の臭いが漂う。矢張り、落ち着かない。

 布団の脇に置かれた、硝子の割れた眼鏡を手に取った。そのままゆっくりと掛けてみる。しかし、意味はない。あの事故以来、何故か僕の視力は回復し、異様なほど良く見えるようになっていた。天井の隅で揺れている、家主を失った蜘蛛の巣。その横糸の一本までもが、くっきりと目に映るほどに。

 落下の衝撃で視力が回復したのだろうか。もう叶わぬ夢だと判っていても、空軍士官になった際にこの視力が役に立つだろうと、考えてしまう自分もいて。

「馬鹿馬鹿しい」

 たとえ母の仇を討ったとしても、失ったものを取り戻すことなど出来やしない。どう足掻いても、士官候補生には戻れない。勿論、母が還ってくる筈もない。判っている。けれど、だから。

 どうにもならない焦燥感が、僕を急かす。ゆっくり過ごす時間はないと、心に刻み込むように。

 眼鏡の弦に指を添えた。折れず、辛うじて形を保っているそれは、父からの進学祝いだった。僕に似合うだろうからと、選んでくれたものだった。ところが今は、透鏡レンズに大小様々な亀裂の入った、傷だらけの壊れた眼鏡でしかないのだ。

 けれど掛けるだけなら充分で。蜘蛛の巣のようにひび割れた視界は、何処か僕の現状に似ていて。

 捕らえられている。自ら、雁字搦めに。

 仇討ちなど意味はない。そんなことは判っている。しかし、これはけじめでもあるのだ。父の背中を追い掛けていた、あの日までの僕との決別。あるか判らない未来へと、歩み始めるための儀式。

 僕の、みそぎ

 立ち止まらず、先に進み。追い駆けるのは、父の首。母の仇を討つまで、僕は。

「鷹木白雄、入るぞ」

 思考を中断させるよう、紅子の声が飛び込んで来た。か細く、しかしはっきりとした声が。

 僕は肯定も否定もしなかったけれど、否定したところで僕の意志が汲まれる筈もなく。半ば諦めにも似た気持ちで襖を開け、紅子を部屋に招き入れた。

「何?」

 紅子の人形のような顔立ちを直視することなく、僕は尋ねる。今日の紅子は様子がおかしい。いつもより饒舌で、いつもより少しだけ機嫌が良い。

「客人が来る。鷹木白雄も挨拶をした方が良い」

 紅子はそう語り、掛けたままだった僕の眼鏡に手を伸ばした。反射的に身体を引いてしまったが、紅子は気にする様子もなく、そのまま壊れた眼鏡を手に取った。

「鷹木白雄、これは必要か?」

 視力も良くなり、今の僕には必要ない。しかしそれでも、手元に置いておきたいのだ。実用品としてではなく、僕の人生が順風満帆だったことの証として。

「必要だ」

 我ながら女々しいとは思う。僕が今持っている、父に貰った唯一の物。手掛かりになる可能性があると、理由付け出来なくもないが。

「成る程」

 紅子は首肯し、翳すよう眼鏡を持ち上げた。暫し目を細め、見上げる。角度を変え全体を見つつ、時折頷き。何かを確認しているのかもしれない。まじまじと、割れた硝子部分を眺めていた。

「気になるか、鷹木白雄」

 ちらと僕を見、紅子が問う。

「何を?」

 見透かされているようで、僕は少し腹立たしい。

「仕事。気になるのなら客人に訊くが良い。その為には身嗜みを整えねばな」

 ふと思い、紅子の手から眼鏡を取り返そうとした。しかし紅子は流れるような立ち居振る舞いで僕の手をかわし、そのまま僕の眼鏡を両手で包み込む。優しく、壊れ物を扱うかのように。

 しかし紅子の小さな手には、眼鏡は収まっていなかった。

「直すので、暫し待て。鷹木白雄」

 ぶつぶつと小声で何かを呟きながら、眼鏡を包む手を揉んでいる。先ほどから紅子は、一体何をしているのだろう。やれ客人に会えだの、やれ身嗜みを整えろだのと。

 僕には紅子の言動の意味が判らない。判らないけれど、黙って見ている方が良いような気がする。

「完了だ」

 紅子はそう言うと、眼鏡を僕に手渡した。何か、違う。そう感じた僕は、すぐさま眼鏡を確認する。割れていた筈の透鏡が癒合し、新品のようになった眼鏡。それが、僕の手に握られていた。

 いつの間に、どのように。奇術師に似た紅子の行動に、僕は思わず言葉を失う。指先で硝子を叩いてみたが、きちんと嵌っていた。まるで最初から、この状態だったかのように。

「……では、また後程」

 僕の様子をおかしむよう、紅子は妖艶に微笑み、そのまま部屋から出て行った。残された僕は改めて、自分の眼鏡を見定める。

 どうなっているのだろう。

 紅子はまるで妖術使いのように、僕の眼鏡を直して去った。割れた硝子の欠片すら落とさずに。指紋の跡を付けることなく。

 思い立ち眼鏡を掛けてみる。透鏡には度が入っていないらしく、今の僕には丁度良かった。

 大きさを合わせた硝子板を用意して、僕の目を逸らしつつ嵌め込んだとでも云うのだろうか。そのような、見世物小屋の奇術使いのような行動をとる意味は判らなかったが、しかし紅子ならそう云うことをし兼ねないような気はする。

 僕には、彼女の考えていることがさっぱり判らないのだ。

 新品然とした眼鏡を掛けたまま、万年床に寝転がった。客人が来ると言っていたが、僕には関係ないだろう。紅子は会えと言っていたが、その必要もない筈だ。勿論、気になることがないわけではない。しかし深入りもしたくない。

 この家で目が覚めてから一週間。僕の体調は既に万全で、いつ出て行ってもおかしくない程に回復している。

 残って迷惑を掛けるより、黙って出て行った方が良い。もしも僕が最悪の形で警察隊に見付かりでもしたら、それこそ迷惑になってしまう。僕は命の恩人を犯罪者にはしたくない。それに何より、この環境に慣れ過ぎてはいけないのだ。

 ぼんやりと天井を見上げながらそんなことを考えていると、木製の扉を引くがらがらと云う音が聞こえた。玄関扉が開かれたようだ。建付けの悪いこの家では、呼び鈴がなくても客人の到来が判る。尤も、扉を自ら開ける客人は、珍しいとは思うが。

「蘭ちゃん、葉月ちゃん。草ちゃんが来たよ!」

 妙に明るい男性の声が響いてくる。紅子の言っていた客人だろう。ひどく馴れ馴れしい口調からは、身嗜みをどうこうするべき相手のようには思えないけれど。

 廊下を駆ける音がぱたぱたと響き、誰かが客人を迎えに行ったのが判った。先程の男の声より小さくこの部屋までは聞こえて来ないが、何やら話をしているらしい。口調からして警察隊ではないだろう。しかし僕の存在を、明かにしてはいけない気がする。挨拶をした方が良いと言われても、僕にはそんな権利はないし、勿論そんな義務もない。

 このまま黙って部屋に籠っていた方が良いに決まっている。客人がどのような人間かは知らないが、それほど長居するはずもなく。帰った後にこっそり出て行き眠っていたとでも言い訳をすれば、紅子に対して角も立つまい。

 部屋の天井に付いた染みを眺めながら、僕は大人しく待つことにした。なんとなく、眼鏡は掛けたままで。

 廊下を歩く足音が近付いてくる。ぱたぱたと云う音は、三人分。おそらく蘭子さんと葉月さん、そして客人のものだろう。聞くともなしに、耳を澄ます。

「急に御免ね、やっと休みが取れたからさ。しっかし相変わらず美人だよね、葉月ちゃんは」

「もう。草太郎ソウタロウはいっつも口ばっかりなんだから」

「いやいや本気だって。やっぱり俺の嫁さんにしたいわ」

 どうやら話し込んでいるのは葉月さんと客人で、しかも客人が葉月さんを口説いている最中らしい。

「だから無理だって言ってるじゃないの」

 無理と云うことは、葉月さんには既に思い人がいると云うことだろうか。或いは既婚者の可能性が、無きにしも非ずと云った処か。まあ、僕には関係のない話だけれど。

「無理じゃないって。俺の力でどうにかするからさ」

「どうにかなるわけないじゃないの」

「いやいや、俺は本気だよ?」

 話し込んでいる二人の会話を切り裂くように、紅子の声が響いた。

「……長津田ナガツダ草太郎、例の少年は此処だ」

 無感情な言葉が途切れると、僕の部屋の襖が開けられる。寝転がって天井を見ていた僕は、急いで起き上がり体勢を整えた。まさか部屋に来るとは思っていなかったので、ひどくみっともなく慌てていたと思う。

 僕と草太郎さんの初対面は、随分と気まずいものになってしまった。

「あ、どうも」

 肩を窄めて正座をし、見上げるように客人の顔を窺う。

「どうも。長津田草太郎です」

 客人は被っていた利休色の鳥打帽ハンチングを右手で外し、そのまま高く掲げる。膝を曲げ腰を落とし、道化師に似たおどけた姿勢をとり。しかし随分と背が高いようで、帽子の先が天井に触れていた。

 尤も、この部屋の天井は低く、そこそこ背の高い人がぐいと腕を伸ばせば、届かないこともないのだろうけれど。

「宜しく。鷹木白雄君」

 満面の笑みを浮かべた優男は、左手を僕に差し出す。僕は、何で左手なのだろうと感じたが、右手には鳥打帽を持っているので他意はない筈だと思い直し、左手での握手に応じた。しかし。

 気のせいでなければ、妙に力を込められている。

「で? どんな感じなの?」

 握手をしたまま、草太郎さんは紅子に尋ねた。それがどう云う意味なのか、僕にはよく判らないが。

「回復は順調。記憶の混濁は皆無」

 紅子はまるで医者のように、僕の現状を淡々と語る。

「完治まではあと二日程度だ」

 小鳥の囀りのように美しい声で述べられる僕の体調は、思っていたより回復傾向にあるらしかった。確かに身体の気怠さも取れて来ているし、全身を覆っていた痛みも殆ど引いている。

「じゃ、もう大丈夫ってことだね?」

 草太郎さんは確認し、僕の手を離した。

「まあ、でもあんまり無茶させんなよ?」

 襖の向こうから、不機嫌そうな蘭子さんの声が聞こえた。そう云えば足音は三人分だったのに、何故此処には四人いるのだろう。

「てかさ、いつも来る前に連絡寄越せっつってんだろ。こっちにも都合があるっての」

 僕の聞き間違いだっだのだろうか。

「ごめんね蘭ちゃん、本当に急でさ。ほら、思い立ったが吉日ってヤツ?」

「じゃあおまえはいっつも吉日なんだな」

 そう云えば、紅子は何故、客人が来ることを知っていたのだろうか。どうにも勝手に来た様子だが。

「そりゃそうよ。何せここには葉月ちゃんがいるし」

 気付かれないよう足を直しつつ、草太郎さんを見上げた。帽子と揃いらしき背広が、如何にも軽薄そうな雰囲気を醸し出している。よく言えば御洒落なのだろうけれど、僕には浮ついているようにしか見えない。

 帝国男児たるもの、質実剛健たれ。士官学校の教訓でもある。

「それにさ、心配しないでも大丈夫だって蘭ちゃん。俺は紳士的だからね」

「どうだか」

 鼻で笑う蘭子さんをよそに、草太郎さんは僕の目の前にしゃがみ込んだ。背広の衣嚢ポケットから薄汚れた紙片を取り出し、まじまじと僕の顔と見比べている。

 掌ほどの、葉書のような紙片。どうやら即席インスタント写真らしい。ぞんざいな扱いの所為か、或いは単に古いのか。端はよれ、裏には幾つもの染みがあり。

 あまりに顔を見られるので、気になって紙片を覗き込む。そこには、父の顔が写っていた。

「な、何で」

 反射的に後退っていた。血の気が引くのが判る。声が震える。

「……何で、父の写真を持っている?」

 身元は判明していないと思っていた。しかし突然現れたこの客人は、僕の正体を知っていた。状況を悟り、狼狽する。僕はどうすればいいのだろう。

 この家はいずれ出て行く予定だった。けれど、このように明かになっていては。

「あ、これ?」

 逃げるに逃げられない。この男は帝国軍警察隊の手の者なのだろうか。或いは、空軍士官学校の関係者かもしれない。

 客人を睨みつけるように見据え、僕は溜息を吐いた。捕まえたければ捕まえれば良い。しかし、この家の人間は無関係だ。捕らえられてしまっては父を追うことが出来ないが、命の恩人に迷惑を掛けるわけにもいかない。

 ――感謝の心を忘れちゃ駄目よ。生前、母が言っていた言葉を思い出す。

「鷹木少佐の息子だよね、君」

 優男が、笑みを崩さず訊いてくる。僕は黙って頷き、腹を決めた。

「捕まえるなら捕まえろ。但し、此処の人間は全くの無関係だ」

 けれど僕の言葉を聞いた草太郎さんは噴き出し、写真を僕に手渡そうと押し付けてきた。この反応は、どう云うことだろう。僕を捕らえに来たのでなければ、何故、父の写真を持っているのか。

 この男が何者か判らないまま、僕は狐に摘まれたような顔をしていたに違いない。

「ああ、そうか。そう思うのも無理ないか」

 未だ笑い続けている優男は、立ち上がって僕の方に歩み寄って来た。笑いのせいで震えている手を僕の肩に乗せ、僕の顔をじっと見る。鳶色の瞳に、僕の姿が映っていた。

「はい、これ」

 草太郎さんは、名刺を差し出しながら言う。

「俺は帝国日報の記者で、怪しい者じゃないからね」

 否、充分怪しい。父の写真を持っていたり、僕の素性を知っていたり。怪しい要素が多過ぎる。信用しない方が良いのではないだろうか。

「草太郎、怪し過ぎだろうがよ」

 自称新聞記者の様子を見ていた蘭子さんが、大きく息を吐き、呟く。睨み付けるような呆れているような表情を浮かべ、再度、これ見よがしな溜息をひとつ。

「……あー、もう!」

 苛立った様子で髪を掻き毟ると、何も言えずにいる僕に近付き、宣言した。

「白雄、こいつは私らの仲間だ。新聞記者ってのも表向きだし本当のことだからさ、安心しな」

 蘭子さんがそう言うのなら、と思う反面、矢張りどうにも信用が置けない気がしてしまうのは、やけに気さくな笑顔のせいだろうか。

 どうするべきか戸惑っていると、草太郎さんは笑顔のまま、僕に名刺と写真を握らせた。名刺には確かに『帝国日報新聞』と書いてある。間違いではないのだろう。

 しかしこの時代、新聞と云うのは軍の広報機関になり下がっている感がある。この男が僕の情報を軍に売らないとも限らない。繋がりがないとも限らない。

「鷹木白雄、この男は信用に値するから安心しろ」

 僕の心を見透かしたように、紅子が静かに囁いた。

「長津田草太郎、要点を纏めて話せ」

 普段は殆ど感情を露にしない紅子が、少しだけ苛立っているように見える。勿論、僕がそう思っているからだろうけれど。

 草太郎さんは適当に言葉を返すと、亜麻色の抱え鞄から折り畳まれた書類を取り出した。鞄の中には他にも、写真機や小型の音声録音機なども入っている。

 新聞記者だと云うのは、どうやら本当のことらしい。極普通の一般人には、写真機など高価過ぎて、買えやしないのだから。

「……じゃ、白雄君」

 背広の胸の衣嚢に刺してあった万年筆を左手で持ち、草太郎さんが僕を見遣った。

「まあ、ちょっとした興味と云うか。でも、君の役に立つとは思うよ」

 真摯な、新聞記者らしい表情を見せ、言葉を続ける。

「鷹木少佐の件は、俺も調べてるから」

 どうにも怪しいことが多いからね、と付け加え、草太郎さんは先程の書類を広げた。

 そこに書かれていたのは軍内部の組織図と、父の名前だった。一番上に書かれているのは、元帥府の面々。その下には、枝分かれして各軍大将以下が並んでいる。とは云え、余り多くの名前が書いてあるわけではないので、父の名は別枠に手書きで加えられていた。

「……これは?」

 軍内部の資料は、全て機密扱いのはず。それをこの男が持っているとは、どう云うことなのだろうか。

「新聞記者の特権って奴」

 答えになっていない返事をし、草太郎さんは資料に目を落とした。

「本当はさ、空軍だけの方が判り易いんだけど」

 言いながら、父の名前を万年筆で丸く囲む。左手で文字を書いていることから、この男は左利きなのだと云うことが窺えた。先程の握手も、利き手で行っただけなのかもしれない。とは云え、礼儀としては右手で行う筈なのだけれど。

 僕は目の前の資料を眺めながら、頭の片隅でそんなことを考えていた。

「葉月ちゃん、赤の鉛筆貸してくれる?」

「良いけど。また草太郎、そのまま持って帰っちゃわない?」

 嬉しそうに文句を口にし、葉月さんは赤鉛筆を手渡した。既に用意して持っていたらしく、取りに行った様子はない。

「大丈夫だって。俺が持って帰るのは葉月ちゃんの心だけで充分ですから」

 受け取った鉛筆を指で器用に回しながら、草太郎さんは気障きざに呟いた。

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