軍ト云ウモノ
先の大戦で帝国が勝利したのは、軍事力の賜物と云うだけではなかった。
第五次世界大戦。超大国が次々と崩壊していく中、日本帝国だけは何か大きな力で護られているかのように、徐々に力を増していった。父さんの、鷹木虎雄の活躍がなかったとしても、帝国の勝利は間違いがなかっただろう。
大戦が終了したのは、僕がまだ元服する前。十四の夏のことだった。
無線電信放送で流れてくる、帝国の勝利を伝える声。世界統一を成し遂げたと、喜びに沸く新聞報道。そのどれもが、僕たちの未来を明るく照らし出していた。
これで戦争が終結する。これで父が家に帰ってくる。母とふたりきりでの疎開生活を余儀なくされていた僕は、そのことに狂喜した。父が家に居る。父と生活が出来る。僕は父の背を追い駆けるため士官学校へ入学することが決定していたが、寄宿舎生活が始まるまでの数ヶ月間は親子三人で過ごせるのだ、と。
父は僕の自慢であり、帝国の宝でもあり。平民の出でありながら若くして士官まで上り詰めた、生ける伝説でもあった。
「鷹木、おめでとう」
疎開先の中等学校でも、僕の父は自慢の種だった。級友だけでなく、廊下で擦れ違う人たちも皆、父のことを褒め称え、僕のことを賞賛した。鷹木少佐の息子。それは僕にとって何よりも大切な、掛け替えのない称号だった。
あの日までは。
寄宿舎生活が始まり、僕は家を出た。父の背中を追い駆け、追い着きたい。そう願う僕にとって、空軍士官学校に入学するのは当り前のことでしかなく。迷いも悩みもなかった。父を追い掛け、いつか追い着く。父のような英雄にはなれなくても、父のように誰からも尊敬される軍人になりたい。僕はそう、思っていた。
大戦が終了して以降の軍部の強化は著しく、一般市民の恐怖の対象になるのも早かった。帝国軍警察隊による言論統制は厳しく、自由からは程遠い生活。毎日何人もの一般市民が無実の罪で投獄され、人々はいつ自分に危害が及ぶのか、戦々恐々としながら過ごしていた。
戦争が終われば平和がやってくるだろう。それが偽りだったと知った今、人々は帝国軍を疎ましい存在だと感じていた。自由に発言することも儘ならない日々は、軍部への憎しみを増大させるのに一役買っていて。
僕の憧れていた帝国軍は既に存在していない。それでも僕は、いつかは軍人になりたいと願っていた。否、僕が願っていたのは軍人になることではなく、父になることだった。
誰からも尊敬される自慢の存在になりたい。ただ、それだけだったのだ。たとえそれすら、偽りだったとしても。
「ただいま」
士官学校が休みに入り、僕はあの日、久々に自宅へと戻った。もう既に、歯車が狂い始めていたとも知らずに。
玄関扉には鍵が掛かっておらず、僕は忍び込むようにして自宅に足を踏み入れた。異様に静かな、生活感のない住居。綺麗好きの母にしては、散らかし過ぎている室内。僕が生活していた時とは、明かに何かが違う様子で。
「母さん?」
いつもなら台所にいる筈の母さんに声を掛けたが、返事がない。
「父さん?」
いつもなら書斎にいる筈の父さんに声を掛けたが、返事がない。
僕が今日帰宅することは、既に両親に伝えていた。父が休みだと云うことは確認を取っていたし、母がいないのならば玄関が開いている筈もない。
奇妙な苛立ちと不安を抱え、僕は自室へと向かったのだった。
「母さん?」
廊下を進むと、生臭い、鼻を突く嫌な臭いが漂ってきた。嗅いだことのあるような、ないような。ひどく気分の悪い臭い。何かに似ていると思いつつ、僕は部屋を開けてしまった。
扉の向こうに広がる景色を、僕は一生忘れないだろう。
包丁を胸に挿し、赤黒い海で横たわる母さん。内側から破られた硝子窓。飛び回る小さな蝿。この刺激臭が肉屋の裏の腐った塵のそれに似ているのだと気付いた時には、湧き上がる吐き気を抑えることが出来なくなっていた。廊下に飛び出し、便所へ向かい。
僕は只管吐いた。胃液を吐き、涙を吐き、怒りを吐き。
吐き出すものがなくなりそれでも尚何かを吐こうとしていると、警察隊が家に上がり込んで来た。土足のまま、僕のことを見向きもせず。まるで母さんの死体を嘲笑うかのように事務的に、状況を調べていた。
「あの」
僕はまだ酸味の残る口を開き、警察隊の隊員に尋ねる。
「母さんは……」
しかしそれ以上は言葉に出来なかった。口にすることで、目にした光景を肯定することになるのが耐えられなかった。
「鷹木少佐の息子か?」
何処か小馬鹿にしたような目付きで、警察隊の男に訊かれた。僕は頷き、父の行方を問う。けれど、男の口から出た言葉が、僕の全てを打ち消した。
「鷹木少佐は指名手配されている。鷹木瑠璃子の殺人容疑でな」
耳を疑った。一瞬。意味が判らなかった。
父さんが、母さんを殺した。自慢の、僕の誇りの父さんが。
――母さんを、殺した。
「か、母さん」
僕は状況を理解出来ていなかったのかもしれない。気付けば僕は警察隊の制止を振り切り、母さんの遺体の元へ駆け寄っていた。
何故父さんがそんなことをしたのかが判らない。何故母さんが死ななければならなかったのかが判らない。
「母さん! 母さん!」
母の首にぶら下がっていた黒い石を握り締め、僕は錯乱していた。
父さんが、自慢の父親が。跡形もなく壊れていく。大戦の英雄から、ただの殺人犯に成り下がる。
父さんが、自慢の父親が。自慢だったからこそ、父さんが。許せない。
「止めろ!」
警察隊の静止は聞こえない。僕は母さんの首飾りを引き千切り、気付けばわ拳で包んでいた。乾いた発砲音が聞こえても、僕の精神は落ち着きを取り戻すことはなく。
目の前に横たわる、母の身体を揺すり続けていた。
「母さん、目を開けてくれよ!」
後ろから羽交い絞めにされても止まらない。威嚇射撃を受けても止まらない。
母の穏やかな表情と傷口の生々しさの印象があまりにも違い過ぎて、母はまだ動くのではないかと云う、まやかしにも似た感情が僕の中を渦巻いていて。
それから先は、覚えていない。
気が付くと僕は警察隊に連行され、寄宿舎に戻されていた。英雄の息子から一転、犯罪者の息子になった僕は、それでなくても疎ましがられている軍人と云う職業の、内部でも疎ましがられる存在になった。
元より父のことを快く思っていなかった教官はこれ見よがしにきつく当たり、士官学校を辞めてしまえと口にした。僕は元服し成人している身だったのでお咎めは直接はなかったが、このまま士官学校を卒業しても、軍幹部になると云う選択肢が残っていないのは明白だった。だからといって、士官学校を辞めることは出来ないのだが。
一度士官候補生になった者は、途中で抜け出すことは許されない。それを判っていて、否、それを判っていたからこそ、教官は事あるごとに口にしたのだろう。辞めてしまえ、と。
母の遺体は火葬され、何処かの墓地に埋葬されたらしい。僕は寄宿舎の中で比較的まともな対応を続けてくれていた教官から、そう、聞かされた。
僕は父が憎い。憧れていたからこそ、裏切られたことが憎い。
仕組まれた事故により僕の命が危険に晒されたことも、それによって士官学校から抜け出せたことも。今にして思えば、天命だったのかもしれない。父を探し出し、母の仇を討つようにとの、天命だったのかもしれない。
僕の運命の歯車は、父によって捻じ曲げられたのだから。