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暁の空、紅の月。  作者: 戸雨 のる
第壱章
2/7

目覚メノ刻

 目を開くと、僕は知らない場所に横たわっていた。

 さほど使われていないと思しき、四畳半程の小さな部屋。元々は白塗りだろう壁は薄黄色く変色し、うっすらと埃にまみれている。煤けた襖障子ふすましょうじに、ささくれ立ち擦り減った畳。僕の下に敷かれた布団は、有り得ないほどに薄く硬く。板張りの天井の隅に目を遣ると、大きな蜘蛛の巣が家主をなくし放置されていた。

 此処は、何処だろう。

 僕は必死になって記憶の糸を手繰り寄せてはみたが、この部屋に見覚えはなかった。治療院にしては不衛生で、寄宿舎にしては造りが悪く。そして個人の邸宅にしては、余りにも旧式だった。

 大戦前の家屋だろうか。でも、誰の?

 考えた処で答えが出るはずもなく。僕は気怠い痛みに包まれた身体をどうにか動かし、上半身を起こした。

 取り敢えず判るのは、僕が助かったと云うこと。けれど此処が何処だか判らない以上、身の安全が保障されたわけではない。士官学校の訓練中に抜け出したようなものなのだ。僕の身元が明かになれば、この家の住民にも迷惑を掛けることになる。それでなくとも。

「……はは」

 何だか無性におかしくなり、声を上げて笑ってしまった。

 それでなくとも、僕は疎ましがられていた。父が偉大過ぎたから。士官学校の講師より、父の方が階級が上だったから。

 父が、行方不明の犯罪者だから。

 かたん、と云う小さな音が聞こえた気がして、僕は笑うのを止めた。今は過去を振り返り笑っている場合ではない。この家の住人の迷惑になる前に、姿を消すべき時なのだ。

 僕は間違いなく、軍法会議に掛けられ犯罪者の烙印を押される。士官学校生は軍人と対等だ。訓練中に、已む無き事情があったとはいえ黙って姿を消した僕が、無罪放免になるはずがない。そうなれば、僕を匿ったこの家の住人にも、危害が及ぶ可能性が。

 僕はどうにか力を入れて立ち上がり、襖障子の方を見遣った。薄汚れ破れた跡の目立つ襖に手を伸ばす。きい、と云う小さな音を発したものの、簡単に開いた。押さえられてはいなかったらしい。

 そう云えば、今の僕は眼鏡を掛けていない。いつから視力が良くなったのだろうか。裸眼ではっきりと物が見えていることに、僕はようやく気が付いた。

 ――飛空機乗りに、視力は大事だぞ。

 父の言葉を思い出す。僕は今更、士官候補生になんて戻れやしない。それなのに父の言葉を思い出してしまうのは、僕が。

「本当に目が覚めてるの?」

 板張りの廊下が軋む音と共に、女性の声が聞こえた。僕はこのまま廊下を抜けて外に出ようかと思っていたが、鉢合わせてしまう可能性が高いだろう。少なくとも、気付かれずに立ち去るのは至難の業だ。仕方なく、襖を開けたまま、部屋の中で様子を窺うことにした。

 事情を説明し、僕のことは知らぬ存ぜぬで通して貰うよう頼もう。何の罪もない人間が犯罪者に仕立て上げられてしまうような可能性は、成る可く排除しておきたいが。

「あんた、紅子ベニコが嘘吐いてるとでも言いたいワケ?」

「違うわよ。ただ、随分回復力あるなって思ったから」

「そりゃそうだってえの。何たって、ねえ? 紅子が付いてたんだからさ」

 女性は、ふたり。少々荒い言葉使いの人と、柔和な口調の人。声の質からして、二人ともそれなりに若いだろう。しかしどのような人であろうとも、僕を助けてくれたことに変わりはなく。

 服装を見れば、直ぐに士官候補生だと云うことは判るはずなのだ。それなのに、僕を救ってくれた人。命の恩人を、巻き込むわけにはいかない。

「あの……」

 人影が現れるより前に、僕は声を発していた。畳の上で正座し、敷居に手を付き。

「有難う御座いました。助けて戴いて」

 感謝の意を込め、深々と頭を下げる。足音が近寄ってきたのを確認し、再度、礼の言葉を述べつつ。

「本当に有り難う御座いました。大変感謝して居ります。それで、その、御迷惑をお掛けするわけにもいきませんので、僕はこれにて、失礼させて戴きます」

 言い終わるや否や、歩き出すつもりだった。しかし襟元を掴まれ無理矢理立ち上がらされ、出端ではなを挫かれる。

「で? 坊やは何処に行くおつもりだい?」

 余りに急な出来事に呆気にとられていると、僕の身体が宙に浮いた。背後から赤子の如く持ち上げられている。いつの間にか、脇の下に手が添えられていたらしい。僕が逃げ出さないよう、しっかりと支えられていて。

 抵抗する気力も失せ、僕は流れに従った。視界が上昇し、襟元を掴む女性の顔が迫る。

 少し癖のある漆黒の髪を持つ、力強い眼差しの女性。僕より背が高いのだろう。後ろから持ち上げられ足が浮いているにもかかわらず、顔の高さはさほど変わらない。

 片手で襟元を掴んだまま僕の顔を覗き込み、女性がおもむろに口を開いた。

「行く宛なんてねえだろうがよ」

 乱暴な口調とは裏腹に、彼女の笑顔はとても柔らかく美しく、そしてとても優しかった。

 それにしても。僕の身体を持上げるとは、背後の女性は物凄い怪力の持ち主らしい。僕はまだ元服したての身とはいえ、立派な大人の男。それをひょいと持上げるなど、並大抵の女性には出来ない芸当だ。恐らくは柔和な声色に似合わぬ、筋肉質な逞しい女性なのだろう。

「ねえ蘭子ランコ、もう下ろしてあげてもいい?」

 怪力の女性が黒髪の女性に尋ねている。目の前の女性の名前は蘭子なのだなと、頭の片隅で思った。

 蘭子さんが頷くと、僕の足が床板の感触を取り戻した。今なら逃げられる。そう考えたが、襟元は掴まれたままだったので、残念ながら動けそうになく。

 僕は観念し、目の前の蘭子さんと話をすることにした。

「なんで、僕を助けたんですか?」

 今の御時世、軍人は嫌われている。先の大戦以来、軍部の強化は凄まじく、帝国軍警察隊が一般市民に濡れ衣を着せて投獄することも数多かった。もっとも、濡れ衣を着せられた者は、押し並べて反社会的な思想の持ち主なのだと云う話ではあったが。

 しかし目の前の蘭子さんは微笑み、僕の目をじっと見て、言った。

「困ってたから、助けた。それじゃあいけないのかい?」

 悪いことではない。けれど、軍人に関わると碌な目に遭わないことは、この僕ですら知っている。軍内部の人間ですら判るような簡単な理由をすっ飛ばして『困っていたから助けた』では、答えになっていないような気がする。

「でも」

 僕は軍人ですよ。そう言おうとしたとき、背後の女性が言葉を挟んだ。

「人助けに理屈はないわ。でしょ、蘭子?」

「ああ、まあ。そうだわな。葉月ハヅキの言う通りだな」

 何か含みを感じる言い回しだったが、それ以上話を聞くことは出来そうになかった。どのように尋ねても、彼女たちは何も教えてくれないだろう。時勢に合わぬ能天気な言い回しは気になるが、これ以上の質問は恩を仇で返す行為になりかねない。

 仕方なく、僕は改めて、気になっていたことを尋ねた。

「此処は、何処なんですか?」

 僕が事故に遭ったのは、相模湾の上空だった。福生基地から横須賀港に向けての試験飛行中に墜落したのだ。墜落。いや、違う。初めから仕組まれていたのだろう、あの事故は。

 士官学校に入ったことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。父の後を追い駆けるにはそれしかないと、あの日までの僕は信じていた。先の大戦で活躍した英雄の息子と云うだけですんなりと入学が出来たし、寄宿舎生活もそれなりに楽しく送ることが出来ていた。

 父があのような事件を起こすまで、僕の人生は順風満帆に進んでいたのだ。間違いなく。

「湘南、で、判るかしら?」

 僕の肩に手を乗せて、葉月さんが答える。柔らかな髪が頬に触れる。僕は極めて冷静に、髪が掛からぬよう顔を背けた。

「……湘南の、どの辺りですか?」

 声が裏返ったのは気のせいだ。とにかくここは、湘南らしい。相模湾で事故に会い、墜落し、そのまま流されて辿り着いたのだろうか。

「江ノ島の、近く」

 蘭子さんが、ぶっきらぼうに呟く。

「それ以上は教えらんねえよ。私はまだあんたをそこまで信用しちゃあいねえんだからね」

 突き放すように手を離され、襟元が自由になった。逃げようと思えば逃げられる状況。だが、そういう気にはならず。

 唐突に不機嫌になった蘭子さんを見上げ、思った。彼女たちは彼女たちなりに、何かしらの理由があるに違いない。僕を助けた理由も、余り多くを語れない理由も。

 ならば、僕がそれに身を委ねても。

「……大丈夫。信頼しても」

 何処からか、鈴のような声が聞こえてきた。高く澄んで美しい声色。何処か無機質なそれが、狭い廊下に鳴り響く。

「まあ、紅子が言うんなら信用してやらねえこともねえんだけどさ」

 言いながら、蘭子さんは視線を僕の後ろに向けた。つられて僕も視線を移す。

 そこにいたのは、少女を模した人形だった。

 腰まである緑なす黒髪が、緋色の小紋に良く映える。陶器に似た色白の肌、朱華はねず色に染められた頬。彼岸花に似た紅の唇に、大きな黒瑪瑙オニキスの瞳が印象的な。

 恐らく齢十二・三だろうか。しかし目の覚めるような美しい立ち姿は芍薬しゃくやくの花のようで、少女と云うより妖艶な女性のそれに似ていて。

「そうでしょう、鷹木タカギ白雄シロオ

 優美であでやかな少女。僕は思わず見惚れてしまい、何故僕の名前を知っているのか、疑問を抱くことも忘れてしまった。

「まあ、紅子がああ言ってるし、取り敢えずは此処にいなよ。追い出したりはしねえからさ」

 蘭子さんはにやりと笑ってそう言うと、僕の頭を二度ほど叩いた。ぽんぽんと、まるで子供をあやすように。

 確かに僕は小柄ではある。しかし、齢十六の立派な成人男子なのだ。それを子供扱いとは。大体、不機嫌だったのは僕ではなく蘭子さんの方ではないか。

 いくら命の恩人とはいえ、許されないこともあろう。僕は文句の一つでも言ってやろうと思ったが、気付くと蘭子さんは僕の横を抜け、廊下の奥へと進んでいた。

 仕方なく、胸三寸に納める。

「ちょっと待ってよ、蘭子ってば。もう!」

 言いながら、葉月さんが僕を見た。鎖骨辺りで切り揃えられた栗色の髪は電髪パアマネントを当てているらしく、ふわりと柔らかそうに揺れた。

「白雄くん。この辺りは憲兵が沢山いるから、家の中で大人しくしてた方が良いわよ」

 控えめで整った容姿を引き立たせる、品の良い淡い化粧。質素な象牙色アイボリイ襞襯衣ブラウスの袖から伸びる手首は細く、筋肉質でもなければ、逞しさも感じない。

 葉月さんは、どちらかと云えば華奢だった。とても怪力の持ち主とは思えない。何処にあのような力が隠れているのだろうか。

「見付かったら面倒でしょ?」

 悪戯っぽく微笑むと、葉月さんは小走りに、蘭子さんの後を追い掛けて行った。

 江ノ島に憲兵がいると云うのは初耳だったが、態態わざわざ嘘を吐く必要はないだろう。信用に値するかどうかは判らないけれど、少なくとも、僕の命の恩人であることに変わりはなく。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、か細く澄んだ音が鳴った。廊下に佇む、美しい人形の声だった。

「鷹木白雄、宜しく」

 少女人形が能面のまま手を差し出してきたので、反射的に手を引っ込めていた。

「よ、宜しく」

 言葉が上擦り、緊張が露になる。心を静めるため、僕は小さく深呼吸をした。ゆっくりと、視線を紅子と呼ばれる少女に移していく。

 少女人形の瞳は吸い込まれるように深く、闇のように黒かった。

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