甘い低音
これはまずい、美伊奈すらも強張った。ホームの向こうは意外に近い。しかも、二人の今までの会話のトーンからして西は確実にこちらに気づいているはずだ。
(こっち見んなこっち見んな…)
半ば祈るようにして、私は電車が滑り込んで来てくれることを祈った。いつものようにサファリパークの宣伝に彩られた電車が。鳩が何羽か頭上の電線から優雅に、見下ろしていた。
隣の美伊奈が、ピンチかチャンスか見定めるようにキラキラ笑っている。
(あんたは…楽しんでるね)
遠くから断続的な金属音が響いてきた。私は期待して顔を上げる。顔を、上げてしまったのだ。
視界が変わり、端にいた西が中央に来る。西の顔はこちらを向き、眼は私を真っ直ぐ見つめていた。右頬には痛々しく青い痣。私の殴った跡だ。そして、電車が二人の間に割り込む瞬間、彼は唇を軽く上げた。
(るっ…瑠衣スマイルだ)
無言だったが、美伊奈も頷いていた。日本を代表するスターの笑みを持つ青年は、確かに私にだけそのスマイルをくれた。
美伊奈は電車に乗った途端堰を切ったように話を爆発させた。
「ヤバいね! 西ってあんなに格好良かったっけ? 背が高いのがあんな目立ってたっけ」
「美伊奈…落ち着いて。私のがパニクってるんだから」
所詮田舎の真ん中、車両内には私たち以外誰もいなかった。だからこそ二人は声を荒げていた。
「見た?」
「見た」
「あのスマイル…マジで瑠衣様でしょ」
美伊奈は壊れたオモチャみたいにカクカクと首を縦に振った。黄色い瞳の残像も揺らせて。
「ね…西君てなんなの?」
興奮が落ち着いた頃私は静かに尋ねた。
(変な奴。瑠衣様の弟。子供。甥)
「ドッペルゲンガー」
「どれも違った!」
「ん? どした椎名」
「なんでもない」
西雅樹。謎。
何故さっき一言も発さなかったのだろうか。彼の学ランが風に靡く映像が蘇る。
美伊奈は恋する乙女を絵に描いたような、輝く顔で窓の外の風景を楽しんでいた。
(風景…私にとって西は朝までは風景だったのにな。それがいきなり視界を支配する君臨王みたいな…なんか他に表現ないかな)
『悶え死にそう?』
弱冠十七とは思えない甘い声が耳を優しく引っ掻く。無意識に背中が反応してしまったようだ。美伊奈がニヤツいて「エロいよ。何考えてんの」と突っ込んだ。
夕日が二人の背後に差す。心地よい暖かさが電車を包み込んだ。
(帰ったら…寝よう)
風呂の湯船に身を横たえて、やっと私は息を大きく吐き出した。溜まっていたものが全部流れ落ちていくようだ。
冬を越えて日焼けを知らない肌は、自分でも眉をひそめたくなるくらい白かった。小麦色の肌に憧れる私は、苛々してボディソープを塗りたくった。シャワーで流すときには小麦色になってますように、とやけくそな願いを込めて。
お風呂から上がり、タオルで水しぶきを散らしつつ髪を拭う。ペタペタ裸足で歩きながら、家族のいない部屋の圧迫感を感じた。
(もう、三年。慣れたことだ)
内なる自分に励まされ、夕飯の支度を始めた時だった。テレビから悲鳴が聞こえたのは。
『瑠衣さぁああああん』
先日の司会者とは違う別の女性が叫んでいた。若者に人気のバラエティー番組だが、珍しく瑠衣が登場すると聞いてチャンネルを固定していたのだ。
瑠衣は、今宵は白シャツにジーンズという、ラフでいてどこか魅力的なスタイルだった。彼は今、巨大迷路に挑戦していた。だが、ハプニング発生のようで、スペシャルゲストの瑠衣だけが一時間経っても出て来ないようなのだ。
『瑠衣さんはまだこの迷路内にいらっしゃるのでしょうか?』
『私は瑠衣様のパートナーだったのですが、何の連絡もまらってない』
(瑠衣様なら真ん中の宝箱を開けたくらいで楽しめる方じゃない。あーあー、可愛そうに。随分と待たされて)
翻弄されて。泳がされて。
瑠衣とはそんな人。周りを引き回さずにはいられない、カリスマ性を持った人。
画面が切り替わり、瑠衣専属カメラマンが彼を映し出した。真っ白な壁に囲まれつつも、PV撮影と見紛うほど鮮やかに存在を主張する彼。
『恵ちゃん? 僕をおいていくなんて新しいプレイ? そんなにお仕置きされたいのかな』
孔雀メイクの片目を無邪気に瞑って見せて、パートナーの女優を窮地に追い込む。
『え? だって瑠衣さんがこっちのルートを先に行けと』
『言い訳は聞かない』
視聴者全員が息を呑んだことだろう。瑠衣の周りの壁がスッと消え、彼は女性の後ろに立っていたのだ。スタッフも予想外の彼の動きに驚嘆する。
そんな周りを見向きもせず、瑠衣は目の前の女優の顎に指をかけた。
『今日のロケは僕のことご主人様って呼んで』
(うわぁ…sだ)
誰もが顔を赤らめそうな台詞もさらりと述べるのが一流。確かにそうだ。
桜をバックに、二人はドラマの中にいるようだった。身長差三十センチはあろうか、瑠衣が頭を撫でる仕草は、まるで父が子をあやしているみたいだ。
『は…い』
(言った! 可愛そうに…本気だ)
その女優は瑠衣から目を離すことが出来なくなってしまった。今日1日、ご主人様と何回オンエアされるだろうか。世間の話題はそこに集中するかもしれない。
私はCMに入ったところでテレビを消した。眠気が限界だった。温めたグラタンカレーをそのままに、ベッドに横たわる。羽毛布団が優しく肌に吸い付いた。
『ご主人様って呼んで?』
ゾクゾクとした快感。
『天草さんってMだよね』
(ええ、そうですとも。よくぞ見破りました。瑠衣の出演するドラマでは、冷たい台詞を何度も聞きたくなるほどに)
(いいの? 認めちゃって)
内なる自分が意地悪く問いかける。
(西はまだ初対面みたいなもんなのに、簡単に心の底の性格をさらけ出す気?)
(うるさいなぁ…私の勝手でしょ)
(私も椎名なんだけど。骨抜きにされんのは瑠衣だけでいいと思うよ)
枕を手探りで引き寄せ、ボフンと顔を埋める。
(悶え死んじゃえばいいの…)
(西の甘い声で?)
反論するまえに睡魔が襲いかかって、意識を無理やり手放された。
夢を見た。
二年前のハロウィンライブにて、瑠衣が血まみれの伯爵として出て来た。金に染められた髪が、秋空の下光っていた。
『お菓子をくれても悪戯するけど?』
会場が湧き上がる。瑠衣は恍惚とした笑みを浮かべ、デビュー曲からパーティーを始めた。私は夢心地で跳びまくった。
不意に、ポンと肩を叩かれたので相手を見ると西だった。雑誌でみた瑠衣の私服を着ていた。似合いすぎてて癪に触る。
「天草…俺、さ」
(私が欲しいんでしょう?)
『次の曲はCRAZEだ! 悶え死ねよお前たち!』
心臓の高鳴り。バイオリンが響く野外の歓喜の中、私は西の言葉に釘付けだった。西は瑠衣スマイルをして言った。
「瑠衣になりたいんだ」
CRAZEはフィナーレを迎え、周りの人々が次々に消えていく。
(あぁ…もうハロウィンは終わり)
西は私の手をとってステージに向かい歩き出した。
「天草は俺のだよ」
「…ご主人様」
「うっわああああああ!」
私は超絶マッハの勢いで飛び起きた。まだ唇にはさっきの言葉の余韻が残っている。頬がカァッと熱くなる。
(ごしゅ…ご主人って)
瑠衣にならともかく、相手はクラスメートの西だ。自己嫌悪と、ゾクゾクとした快感に挟まれて、暫く思考停止状態に陥る。
「ピンポーン」
今日は土曜日だ。土曜日のはずだ。
急いで寝巻きを着替え、髪を肩のあたりでカールさせると、玄関にダッシュした。 「はい、おはようございまー…」
「やぁ、天草。私服可愛いね」
「マジか」
そこにいたのは西雅樹だった。
(なんで! なんで? なんで…)
内側で悲鳴上げまくる私だが、表面は冷静そのものだった。
「何の用?」
西はチェックの上着と白のTシャツとデニムという格好だった。オーダーメイドかと疑うくらい、彼の体の線が浮き上がっていた。鎖骨が瑠衣にそっくりだ。慌てて目を逸らす。
「デートしようぜ」
桜吹雪が空を舞う。燕は隣のアパートに巣作り真っ最中だ。
(なんつっ…た)
俺様男子。決して流行らないこの言葉は需要の低さを示している。滅多にいないのだから。草食系が占める現代で。
「デート」
(そんな綺麗な顔で…顔…瑠衣に似ている…ああああ)
「…急に言わ…れても」
「電車で軽井沢行こう」
まるでプランは出来ていて、お前の返事一つで決まるのだというこの態度。余裕綽々だ。やはりこのルックスで女性経験は豊富なんだろうか。
恋の駆け引きなど想像もつかない私は、西の一言に右往左往してしまう。
(ムカつく…)
「もしかして…朝食まだ?」
「…ご名答」
私はそろそろとドアを閉めようとしたが、西が二の腕を見せながら手で制止する。頭の上のドアを掴まれたので、抵抗は難しい。西に覆い被さられているようで、心臓が正常に機能するのも難しい。
「わかった」
西がニヤリと笑う。
「俺、作ろうか?」
(あぁ…俺様男子とはあなたのこと)
結論から言うと、西の料理はプロ顔負けだった。親がいないため自炊には長けていると自惚れていた自分が恥ずかしいほどに。西はまず新鮮さを失った葉野菜をまとてめ茹で上げ、その間にグラタンのルーとベーコンを混ぜて熱した。
それから戸棚の奥からパスタを取り出し、野菜を取り除いた鍋で煮た。クリームの方にはオリーブオイルを振りかけ、トロトロに煮込んだ。
全てが鮮やかで、私は化粧なども繕わずに彼を眺めていた。少ない調味料は全て役目を与えられ、隠し味にはナツメグが使われた。
真っ白な皿に盛り付ければ、イタリアレストランの看板メニューという肩書きも重くない仕上がりだった。感嘆の声を上げると同時に私の腹が鳴った。
(消えてしまいたい)
西は一瞬目を見開いたが、フッと笑って配膳をした。
「多分、クリームはキツくないと思うけど」
「…滅茶苦茶美味しいです」
「そう。良かった」
考えてみれば由々しき事態だ。まだ性格も把握してない思春期男子を二人きりの家に招き入れてしまったのだ。
(いや、招いてはいない決して)
西は両手を顔の前で組んで、ドラマに出て来る課長みたいに指の隙間からこちらを見ていた。カーテン越しに降り注ぐ陽光に彼が輝く。緑のチェックはグラデーションをつくり、魅了させるものがあった。
(ヤバい…ね。パスタの味がしなくなってきた)
「ほっぺ」
突然言われたので異国の言葉かと思った。戸惑う私の頬を節々しい西の手が触れる。ぬぐい取られたクリームが西の手の甲で艶めく。
(それをどうするの? ティッシュは目の前にあるのよ)
内心期待しつつ、西の反応を見張る。瑠衣なら、瑠衣ならセクシーに舐めとるだろう。西はどうする。
私はいつの間にか瑠衣と西を比較していた。今までしてきた拒絶のラインを計るためではない。そうでなければ西に飲まれてしまいそうだったから。
「…見過ぎ」
西が低く響きの良い声で言った。
「あ、ごめん」
急いでフォークをくるくる回す。水音がしたのは一瞬後だった。何かを舐めるみたいな水音。
顔を上げては負けてしまう気がした。きっと西の伏せ目がちな仕草に心を奪われてしまう。それが怖かった。
だから、パスタとクリームが絡まるのを見て心を落ち着かせようとした。
「はははは」
だが笑い声に咄嗟に視線を向けてしまった。手の甲を外し、唇の端を舐める彼の姿に。悪戯な笑みで西は尋ねる。
「どうか、した?」
(うん。どうかしちゃったみたい)
ブンブン首を振って、残ったパスタをガッツく私はどう見えただろう。西は始終クスクス笑っていた。
食事を終え、紅茶を用意したものの、沈黙が空間を支配していた。
「…」
西は膝の上に頬杖をして、ぼんやり外を見ていた。焦っているのは私一人だ。西は思い出したように立ち上がった。
「電車の時間があとニ十分しかない」
「あ、うん。行こっか」
(…あれ? 行く気なの私)
西は格別な瑠衣スマイルで私を助け起こし、玄関にエスコートする。身長差のせいで西の胸元が近かった。
西は後ろで私の靴選びを眺めていた。春先だからブーツで迷ったのだ。結局今のショートパンツに合わせて、焦げ茶色のロングブーツをセレクトした。
西が出た後に鍵を閉める。もう、後戻りは出来ない気がした。
「あのさ…」
「急ぐよ」
有無を言わさぬ口調と共に手を掴まれ走り出す。コンクリート舗装の道とはいえ、ブーツで走るのは酷だ。しかし、私は不平を言えなかった。空気を壊したくなかった。
西が前を走っている。横顔は瑠衣の若い頃そのものだ。こんな錯覚はしてはいけないかもしれない。西は西なのだ。西雅樹という人間なのだ。瑠衣じゃない。
(ごめん西…でも今私滅茶苦茶嬉しい) 駅に着き、西が手早く切符を買って電車に滑り込んだ。二人とも暫く呼吸を整え、それから空席を探した。まだ西が手を握っていたが、嫌な感じは無かった。
休日の混雑を予想したが、車内は比較的空いていたので、進行方向に平行な座席を選び座る。当たり前だが隣同士だった。
「大丈夫?」
ふと西が心配そうに声をかける。
「余裕」
私は何故か負けん気になって答えた。
(まだまだ弱みを見せる気ないんだから、瑠衣ジュニア君)
しかし、西とは何者なんだろうか。いちいち瑠衣を連想する仕草。俺様な態度。
M宣言の衝撃など薄れるほどに私は彼に夢中になり始めていた。恐ろしいくらい容易く。瑠衣に恋に墜ちたときのように。
実話に基づくというのは、私が好きで堪らない芸能人が正にこんな方だからです




