第7話
ピエロと一緒に迷路を抜けると、そこには大きな観覧車があった。
あの遊園地にあった遊具はみんな驚く程素敵な物だったけれど、この観覧車は格別だった気がする。
それは特に美しくライトアップされていたり、ひときわ目立つような模様が施されているわけではなかった。
しかし、優しい夕日を受けて静かに回り続けるそれは、ただ有るだけ、それだけで何かしら心を惹く魅力……圧倒的な存在感を持っていた。
ピエロは優しく手を引いて、その世界一素敵な観覧車へと私を連れて行こうとした。
あんなに魅力的な乗り物なんだ、あそこからの眺めはどんなに素晴らしいものなんだろう。
……?
それから……どうしたのだろう?
観覧車には、乗ったのだったっけ。あそこからの景色は、どんな物だったのだろう?
――駄目だ、思い出せない……。
ガチャンッ
音がした方を見てみると、若い係員が足下にお気をつけ下さいと言って観覧車の扉を開けていた。
蒸し暑い風がどっと室内に流れ込んで来る。
向こうの方では友人が私の名を呼んでいる。
ああ、終わったんだ……。
「ユウ!」
観覧車から降りて少し階段を下りると、そこには先ほど私の名を呼んだ友人、レイナが待ち構えていた。
色白の頬を桃色に染めて、リョウゴと二人きりにしてくれたんだよね、ありがとう、と囁く。
可愛い、リョウゴにお似合いの女の子。
そのまま二人きりでどこかへ行ってしまえば良かったのに。そしたら、もうこんなに辛い物を見なくても済んだはずなのに。
いつもは愛しささえ覚える彼女の優しい性格も、今日の私には苦く辛い物でしかなかった。
少しだけ先に居たリョウゴに追いつくと、今度は彼が話しかけて来た。
「ユウ、悪い! 俺、ゴロウが高所恐怖症なんて知らなくてさ……。大丈夫だったか?」
「……」
大丈夫だった訳が無い。
「ユウ?」
「別に。なんて事無かったよ」
「そうか? ならよかった……」
心の底からほっとしたような声を出す。それを聞いて少し安心したけれど、悔しさが胸を貫いた。
恋煩いに犯された彼は、幼なじみの声が震えている事にさえも気が付かないらしい。
逃げられない密室に十数分間も閉じ込められて、しかもそれはずっと好きだったあなたが彼女と乗っている物の隣で。あんな所に居るのはどんなに惨めな思いだったのか、あたなには分からない。
辛い心を塞ぐのに精一杯で、今だって泣き出すのをどうにか堪えてるのに。
それでも、私は言葉を紡いだ。今日の苦労を、ここで台無しにするつもりは無かった。1日中、好きな人が他の娘を見詰めるのを必死に耐えながら見て来たのだ。本当は嫌で嫌で仕方が無かったけれど……あの人が、あんなに必死に頼んで来たのだ。邪魔を出来るはずが、なかった。
「その、俺たち……」
震えを、止めなくては。
「うん、わかってる。おめでと」
「ありがと、ユウ……!」
上手くいく事くらい分かっていたけれど、さすがに眩暈がしそうだった。でも大丈夫、平静は保てている。
二人が想い合っていた事は、もうとっくに知っていた。
それは私が彼の事を想っている時間と比べると、鼻で笑いたくなるくらい短く、ごくごく最近からのものだった。しかし……『想って』いる時間なんて物は、何の意味も成さない。
『想い合って』いることは、前者よりも憎らしい程に優勢なのだ。
「夜に乗れば良かったのに」
「え?」
「観覧車は夜が一番綺麗な景色を見れるんだって。昔誰かに教えてもらったの」
「誰かって、誰なの? ユウ」
「誰だっただろうね。ちょっとゴロウ!」
もう、話していられなかった。これ以上、早口では誤摩化せない。可愛い彼女の視線も気になったし、なによりまた感情の波が押し寄せて来そうだった。
「ユウちゃん、悪かったね!」
高所恐怖症野郎のゴロウは、へらへらと笑っていた。どうやら先程の必死に謝る気持ちはこの十数分間の内に薄れてしまっていたらしい。なんて男だ。
「ホントにね……最悪だよ……」
「いや、なかなか言い出せなくてさ〜。男の癖して高い所苦手とかかっこ悪いだろぉ? 分かってくれよ〜……ん? ユウちゃん、」
「はぁ?」
「おいおぉいぃ〜そんなに嫌〜な声出すなよ〜。ほんとに悪かったって! 後でソフトクリームおごるからさ! な?」
「はぁ……」
ソフトクリームですか。
「まぁまぁ、ユウちゃん、もうあれは過去の事なのだよ! そう、過去の事ばかりを気にするんじゃない。そんなんじゃ先には進めませんよ? そう、それよりこれ! 背中に付いてたよ」
訳の分からない事を喋り続けるゴロウが差し出したのは、1枚の付箋だった。
「あ、ちなみにこれ今俺が張ったんじゃないからね。さっきから付いてたみたいだよ。信じてよ〜?」
「はいはい、わかったから……」
少しだけ、彼が高所恐怖症であったことに感謝した。こんなテンションの彼と二人きりで観覧車に乗るのは、正直な所少し……かなり辛そうだ。
付箋を受け取って、目を落としてみると、そこにはあまり綺麗とは言えない文字が並んでいた。ずいぶん慌てて張ったらしい、少し折れ曲がっている。
「――……!」
『今日はもう夜だね。観覧車、好きな人と、乗らないの?』
あんなに魅力的な乗り物なんだ、あそこからの眺めはどんなに素晴らしいものなんだろう。 そう思った。
そう思ったが、
「お兄さん、まって!」
車体へと続く階段を上ろうとした時、不意に私は気が付いた。
ピエロとは、乗れない。だって……
「お兄さん……、あのね……」
ピエロは立ち止まって私の話を聞こうとしてくれていた。
「あのね……」
けれど、私はその続きが言えなかった。恥ずかしい。小学生がこんな事を思うなんて、おかしいと思われてしまうのではないだろうか。
「……」
ついには黙り込んでしまった。
乗りたくない訳じゃないの。でも、でも、……。お兄さんは、今日ずっと私と一緒に遊んでくれた。言わなきゃ、お兄さんに悪い。言わなきゃ、いけないよね……。
「あのね……、……」
勇気を振り絞ってなんとか吐き出した言葉は、自分でも聞き取れないくらい小さな呟きだった。
「あのね……、わたしね、観覧車には……好きな人と、乗りたいの……」