『無礼には、笑顔と手数で報いよ』~十八回も約束を破った婚約者を、家族総出で丁重におもてなしした結果~
澄み渡る秋晴れの午後。
王都の目抜き通りに面した高級ティールームのテラス席で、私――クララ・ベルンハルト男爵令嬢は、銀のスプーンで紅茶をかき混ぜながら、壁に掛けられた時計を見つめていた。
約束の時刻から、きっかり四十五分。
「……また、ですのね」
小さく呟き、スプーンをソーサーに戻す。
本日は婚約者であるユリウス・ハルトマン子爵令息と、王立劇場で新作の歌劇を鑑賞する予定だった。
開演前にこちらのティールームで落ち合い、軽くお茶を楽しんでから劇場へ向かう。
少なくとも、私はそのつもりでいた。
けれど、向かいの椅子は空っぽのまま。
運ばれてきたダージリンはすっかり冷め、表面にはうっすらと膜が張り始めている。
「お嬢様、お茶をお淹れ直しいたしましょうか?」
気遣わしげに声をかけてくれた給仕に、私は微笑んで首を横に振った。
「いいえ、結構ですわ。お会計をお願いいたします」
給仕が一礼して去っていく。
私はバッグから革表紙の小さな手帳を取り出した。
そこには、几帳面に並んだ十七本の横線。
一本一本が、ユリウス様に約束を破られた記録である。
本日で、十八本目。
「……よいしょ、と」
万年筆で丁寧に線を引く。
これで記録完了。
思えば、最初の頃は私も随分と寛容だった。
「急な公務が入った」と言われれば労いの手紙を送り、「友人が困っている」と言われれば事情を尋ねず送り出した。
「体調が優れない」と聞けば、胃に優しい薬草茶まで届けたものだ。
ところが。
急な公務の日には、ユリウス様が友人たちと競馬場で大騒ぎしていた。
困っているはずの友人は、本人と一緒に酒場で朝まで飲み明かしていた。
そして体調不良の日には、別のご令嬢と観劇を楽しんでいた。
……まあ、なんてお忙しい方なのでしょう。
一度など、私が問いただした際、彼は悪びれもせずにこう言った。
『クララは物分かりがいいから、怒らないだろう?』
ええ。
私は怒らなかった。
声を荒らげることも、涙を流して縋りつくことも、一度としてなかった。
なぜなら、我がベルンハルト家には、代々受け継がれてきた家訓があるからだ。
――『無礼には、笑顔と手数で報いよ』。
無礼に対して感情的になるのは、三流。
冷静に事実を積み重ね、礼節をもって相応の結果をお届けするのが、ベルンハルト家の流儀である。
私は手帳を閉じた。
十八回。
十分でしょう。
「お父様、お兄様方、それから可愛い妹たち」
私は冷めた紅茶を静かに飲み干し、立ち上がった。
「……出番ですわよ」
秋風が頬を撫でる。
私の口元には、自然と微笑みが浮かんでいた。
* * *
翌朝。
ハルトマン子爵邸の前の広場に、一人の青年の悲鳴が響き渡った。
「おおっ! ユリウス殿ではありませんか!」
「ひっ!?」
登城しようとしていたユリウス様の前に、巨大な影が立ちはだかったのである。
影の正体は、私の長兄ギルバート。
王宮近衛騎士団の副団長を務める、身長二メートル近い偉丈夫だ。
素手で熊を絞め落としたという逸話があるが、本人曰く「あれは熊の方が勝手に気絶しただけ」らしい。
ちなみに、その熊は今でも兄の姿を見ると逃げるそうだ。
「ギ、ギルバート卿……! お、おはようございます……」
「いやあ、実に清々しい朝ですな!」
ギルバートは朝日より眩しい笑顔を浮かべ、ユリウス様の肩を叩いた。
バシィン!
「ぐえっ!」
「おや、失礼! 少々力が入りすぎましたかな!」
「い、いえ……肩が……肩が少し……」
「ところで!」
ギルバートは朗らかに続けた。
「昨日はクララとの観劇のお約束、急な腹痛でお流れになったとか!」
「えっ」
「妹はそれはもう心配しておりましてな! 『ユリウス様の胃腸が破裂してしまったのではないかしら』と!」
「い、胃腸は破裂しておりません!」
「なんと! それは重畳!」
ギルバートは心底安心したように頷いた。
「しかし、病み上がりに無理は禁物ですぞ。昨日の夕刻、酒場で元気に踊っておられたという話も耳にしましたが、あれは腹痛を紛らわせるための健康法でしたかな?」
「なっ……!」
ユリウス様の顔から血の気が引いた。
「そ、それは、その……」
「はっはっは! よいのです! 健康法は人それぞれですからな!」
ギルバートは豪快に笑った。
ただし、目は笑っていない。
「さて、ユリウス殿。次の日曜日は、我が家のサロンでお茶会を予定しております」
「えっ? いや、日曜日は少々予定が……」
「ほう?」
ギルバートの分厚い掌が、再びユリウス様の肩に置かれた。
みしり。
「……っ!」
「クララが、ぜひお会いしたいと申しておりましてな」
「そ、そうですか……」
「父も私も弟も、妹たちも、皆それはもう楽しみにしております」
みしみし。
「い、痛……」
「特に私は、ユリウス殿と男同士、胸襟を開いてお話ししたいと思っておりまして!」
「きょ、胸襟を……」
「ええ! 心ゆくまで!」
ギルバートは爽やかに笑った。
「では、日曜日。お待ちしておりますぞ!」
肩から手が離れる。
ユリウス様は、その場に膝をつきかけた。
「……は、はい……」
「おお、よいお返事だ!」
長兄は満足げに頷き、颯爽と去っていった。
残されたユリウス様は、震える手で自分の肩をさすったという。
* * *
その日の昼下がり。
王宮の回廊を歩いていたユリウス様は、今度は細身の青年に呼び止められた。
「やあ、ハルトマン子爵令息。ご機嫌麗しゅう」
「……ルディ殿」
私の次兄、ルディ・ベルンハルト。
王国財務省に勤務する、数字と書類をこよなく愛する男である。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、柔らかく微笑んだ。
「昨日は妹がお世話になりました」
「い、いえ……その……」
「いえいえ。おかげさまで、妹は予定していた観劇を一人で楽しみ、帰宅後には読書までできたそうですよ。大変有意義な一日だったようです」
「そ、それはよかった……」
「ええ。もっとも、予約していた二名分の特等席のうち、一席は無駄になりましたが」
「……」
「ちなみに、これまで十八回の約束不履行によって発生した費用を、私なりに集計してみましてね」
ルディは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、恐ろしく細かい数字がびっしりと書き込まれている。
「カフェ代、馬車代、観劇の予約費用、手配した贈答品、使用されなかった招待状……」
「ま、待ってください」
「それに加えて、クララが予定を空けるために辞退した社交行事や、先方へのお詫びに要した費用もあります」
「ちょ、ちょっと……」
「もちろん、すべてを法的な損害として請求できるわけではありません。そこはきちんと区別しておりますので、ご安心を」
「そ、そうですか……」
「ですが、婚約解消の条件を検討する上では、大変参考になる資料です」
「こ、婚約解消!?」
ユリウス様の声が裏返った。
ルディはにっこりと笑う。
「おや、まだ何も決まっておりませんよ。妹の意思が第一ですからね」
「そ、そうですよね……!」
「ただし」
眼鏡が、きらりと光った。
「必要になったときに書類がない、という事態は財務官として看過できません」
「……」
「日曜日のお茶会には、私も同席いたします。どうぞよろしく」
「な、何をお話しするのでしょうか……?」
「そうですねえ」
ルディは少し考える仕草をした。
「クララが焼くスコーンの原価計算から、婚約解消に伴う費用負担の考え方まで、幅広く」
「スコーンから婚約解消まで!?」
「数字とは、すべてつながっているものですよ」
次兄は涼しい顔で一礼し、書類の束を抱えて去っていった。
ユリウス様はしばらく、その場から動けなかったそうだ。
* * *
さらに夕刻。
一日中落ち着かない気分で過ごしたユリウス様は、気晴らしに馴染みの高級菓子店へ立ち寄ろうとしていた。
甘いものでも食べれば、少しは気が紛れるだろう。
そう思った、その瞬間。
「まあっ! ユリウス様!」
「きゃあ! 未来のお義兄様ですわー!」
左右から、鈴を転がすような声が響いた。
「ひいっ!?」
私の双子の妹、エリーゼとエミリアである。
十四歳の二人は、ふわふわの金髪に大きな青い瞳を持つ、天使のように愛らしい少女たちだ。
ただし、趣味は狩猟。
二人とも小型の弓を自在に扱い、握力はそこらの成人男性を軽く上回る。
その天使たちが、ユリウス様の両腕にがっしりと抱きついた。
「エ、エリーゼ嬢! エミリア嬢!」
「お姉様から伺いましたわ!」
「昨日も大切なお約束に来られなかったんですって?」
「そ、それは……」
「まあ、お可哀想!」
「きっと、とっても大変なご事情があったんですわね!」
二人は心底気の毒そうな顔をした。
「で、でも、お姉様は怒っていらっしゃらないでしょう……?」
「もちろんですわ!」
「お姉様はとってもお優しいんですもの!」
ユリウス様がほっと息をつく。
その瞬間。
「ただ、日曜日のお茶会は絶対にいらしてくださいませね!」
「お姉様が特別なお茶をご用意しているんですの!」
「と、特別なお茶……?」
エミリアが目を輝かせた。
「『誠実さを取り戻す薬草茶』ですって!」
「とーっても苦いらしいですわ!」
「飲むと舌が一日中痺れるくらい苦いんですって!」
「そんなもの飲めるか!」
思わず叫んだユリウス様に、双子は同時に首を傾げた。
「まあ?」
「お姉様の心尽くしを、お断りになるんですの?」
ぎゅう。
「い、いや……」
ぎゅぎゅう。
「う、腕が……!」
「楽しみにしていますわね!」
「私たちも、ユリウス様がどんなお顔をなさるか、とっても楽しみですわー!」
双子は満面の笑みを浮かべ、ようやく腕を解放した。
「それでは、ごきげんよう!」
「日曜日にお会いしましょうねー!」
ひらひらと手を振り、二人は馬車へ乗り込んでいった。
残されたユリウス様は、その場にへたり込んだ。
逃げ場がない。
朝は長兄。
昼は次兄。
夕方には双子。
誰も怒鳴らない。
誰も直接責め立てない。
ただ全員が、恐ろしく輝いた笑顔で同じ言葉を告げる。
――楽しみにしています。
「……ベルンハルト家は……一体どうなっているんだ……」
ユリウス様は、宵闇迫る街角で小さく震えたという。
* * *
そして迎えた日曜日。
ベルンハルト男爵邸の応接間には、秋の日差しが柔らかく差し込んでいた。
テーブルには、焼きたてのスコーン。
季節の果物を使ったジャム。
銀のポットには、香り高いダージリン。
そして、それらを囲むベルンハルト家の面々。
上座には、威厳たっぷりに腕を組む父。
その右隣には、騎士団の礼装をまとった長兄ギルバート。
左隣には、分厚い書類の束を前に置いた次兄ルディ。
私の背後には、にこにこと笑う双子の妹たち。
……ええ。
実に、和やかな家族のお茶会ですわね。
「お姉様、ユリウス様は本当にいらっしゃるかしら?」
「途中で逃げたりなさらない?」
エリーゼとエミリアが、楽しそうに囁き合う。
「大丈夫ですわ」
私は微笑んだ。
「今回は、きっと約束を守ってくださいます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、執事が入室した。
「お嬢様。ハルトマン子爵令息がお見えでございます」
時計を見る。
約束の三十分前。
私は思わず目を細めた。
「まあ。素晴らしいこと」
十八回目にして、ようやく時間という概念を理解してくださったらしい。
もっとも、少々遅すぎましたけれど。
* * *
応接間の扉が開いた。
入ってきたユリウス様は、ひどく青白い顔をしていた。
いつもは自信たっぷりに整えられている金髪も、今日はどこか元気がない。
「よ、よくぞお招きいただき……」
声が震えている。
「お、お招きいただきまして……ありがとうございます……」
私は立ち上がり、優雅に淑女の礼を返した。
「ようこそ、ユリウス様。お約束より三十分も早くお越しいただけるなんて、わたくし、感激いたしましたわ」
「ク、クララ……!」
ユリウス様は私を見るなり、今にも泣き出しそうな顔になった。
「すまなかった!」
「まあ」
「今までのことは、全部私が悪かった! これからは絶対に約束を守る! 遅刻もしない! 嘘もつかない! だから……!」
彼はちらりと周囲を見回した。
父の鋭い眼光。
ギルバートの分厚い胸板。
ルディの書類の束。
双子の無邪気な笑顔。
「だから、その……ご家族の皆様を、どうか下がらせてくれないだろうか……!」
私は小さく首を傾げた。
「まあ、どうしてですの?」
「ど、どうしてって……!」
「皆、あなたとお会いできるのを楽しみにしていたのですわ」
「そうとも!」
父が重々しい声で頷いた。
「我が娘を十八回も待ちぼうけにした青年が、いったいどのような面構えをしておるのか、父親として実に興味があってな」
「じゅ、十八回……」
「正確には」
ルディが書類をめくった。
「カフェでの待ちぼうけが十二回。劇場前での待ちぼうけが四回。雨天の屋外での待ちぼうけが二回。合計十八回です」
「そ、そんなに……」
「ええ。記録に誤りはありません」
ルディは淡々と続ける。
「ちなみに、直前の連絡すらなかった回数は十四回。虚偽の理由が確認されたものは十一回です」
「……」
「残り七回については、現時点で真偽不明としております。推測を事実として扱うのは、数字に対する冒涜ですからね」
「そ、そうですか……」
「何か訂正したい点はございますか?」
「い、いえ……」
「結構」
ルディは満足げに頷いた。
「では、記録はこのままにいたしましょう」
「いやあ、ユリウス殿!」
ギルバートが拳をぱきりと鳴らした。
「私としては、妹を十八回も待たせられる胆力に感心しておりますぞ! ぜひ一度、その精神力の鍛え方を教えていただきたい!」
「い、いや……その……」
「なんでしたら、庭で軽く手合わせでも!」
「遠慮します!!」
ユリウス様の返事は、驚くほど素早かった。
背後では双子が楽しそうに拍手している。
「まあ、お返事が早いですわ!」
「お姉様へのお返事も、そのくらい早ければよろしかったのに!」
「……っ!」
ユリウス様の顔が、みるみる赤くなった。
私は静かにティーカップを置いた。
「皆様」
その一言で、応接間が静まり返る。
父も、兄たちも、妹たちも、私を見た。
私は微笑んだ。
「ここからは、わたくしがお話しいたしますわ」
* * *
「ユリウス様」
私は彼の正面に座り直した。
「まず、一つだけお尋ねしてもよろしいかしら?」
「な、なんだ……?」
「あなたは、わたくしとの約束を十八回も破りました。そのことを、どうお考えですの?」
「そ、それは……悪かったと思っている……」
「そうですか」
「本当だ! もう二度としない! だから……!」
「では、なぜ昨日まで、一度もきちんと謝罪してくださらなかったのです?」
ユリウス様は口を閉ざした。
「わたくしが待つことを、当然だと思っていらしたからではなくて?」
「……」
「わたくしが怒らないから。責めないから。いつでも笑って許してくれるから」
私はゆっくりと言葉を続けた。
「だから、何度約束を破っても構わないと、お考えになったのでしょう?」
「そ、それは……」
「以前、あなたは仰いましたわね」
私は彼の目をまっすぐに見つめた。
「『クララは物分かりがいいから、怒らないだろう?』と」
ユリウス様の肩が、びくりと震えた。
「ええ。わたくしは怒りませんでした」
私は手帳を取り出した。
革表紙を開き、十八本の横線を彼に見せる。
「ですが、怒らなかったことと、傷つかなかったことは違います」
「……クララ」
「わたくしは、あなたと過ごす時間を大切にしておりました。お会いする日には、何をお話ししようか考え、どんなお菓子がお好きか調べ、あなたが楽しめるよう準備をしていたのです」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
「それを、あなたは十八回、無駄にしました」
私は手帳を閉じた。
「そして、十九回目を待つつもりはございません」
ユリウス様が目を見開く。
「……え?」
「わたくし、あなたとの婚約を解消したいと思っております」
応接間に沈黙が落ちた。
「ま、待ってくれ!」
ユリウス様が身を乗り出した。
「私は謝っただろう!? これからは変わると言っている! それでも駄目なのか!?」
「ええ」
私は迷わず頷いた。
「な、なぜ……!」
「今まで、変わる機会は十八回ございましたもの」
「……!」
「それに」
私は微笑んだ。
「あなたが今、必死に謝っていらっしゃるのは、わたくしを失うのが悲しいからですか? それとも、わたくしの家族が怖いからですか?」
ユリウス様の視線が、思わずギルバートへ向かった。
ギルバートがにっこり笑う。
ユリウス様は慌てて目を逸らした。
……ええ。
答えは、十分ですわね。
「ユリウス様。わたくしは、あなたを罰したいのではありません」
私は穏やかに告げた。
「ただ、あなたと人生を共にすることを、もう望んでいないのです」
* * *
そこで、ルディが静かに口を開いた。
「さて。ここからは事務的なお話をいたしましょう」
彼はテーブルの上に、一通の書類を置いた。
「婚約解消に関する合意書です」
「……もう用意していたのか?」
ユリウス様が呆然と呟く。
「ええ。準備は大切ですから」
ルディは涼しい顔で答えた。
「なお、昨日のうちにハルトマン子爵閣下にも事情をご説明し、双方の家で協議しております」
「ち、父上に!?」
「はい。子爵閣下は大変驚いておられましたが、事情を確認された後、正式な謝罪状をお寄せくださいました」
父が静かに頷いた。
「ハルトマン子爵とは長い付き合いだ。今回の件については、先方も息子の非を認めておる」
「……」
「もちろん、婚約解消そのものはクララの意思を尊重するということで、両家の認識は一致している」
ユリウス様は力なく椅子に沈み込んだ。
ルディが書類を一枚ずつ示す。
「こちらが婚約解消の合意書。こちらが実費の精算明細。そしてこちらが、両家で協議した解決金の支払い条件です」
「か、解決金……?」
「ええ。正式な婚約関係を結んでいた以上、繰り返された約束不履行や、その後の対応について、何の責任も生じないというわけにはまいりません」
ルディは眼鏡を押し上げた。
「もっとも、請求額は常識的な範囲に収めております。私は数字に厳しい男ですが、数字を使って人を脅す趣味はありませんので」
「……」
「ちなみに、最初に試算した額の三分の一です」
「さ、三分の一……?」
「ええ。残り三分の二は、私の個人的な怒りが混入している可能性がございましたので、冷静に除外しました」
……お兄様。
それは、少々正直すぎるのではなくて?
私は思わず口元を押さえた。
ルディは何事もなかったように続ける。
「本日は内容をご確認いただくための場です。署名は後日、子爵閣下とともに行っていただいても結構です」
「……今すぐ署名しなくても、いいのか?」
「もちろんです」
ルディはにっこりと笑った。
「ただし、クララの婚約解消の意思は変わりません。そこだけは、お間違えのないように」
ユリウス様は、しばらく書類を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……わかった」
そして、顔を上げる。
「クララ。君には、本当に申し訳ないことをした」
今度の声には、先ほどまでの怯えとは違う響きがあった。
「私は……君がいつも笑っているから、何をしても許してくれると思っていた」
「……」
「君の時間を、自分のもののように扱っていたんだな」
私は静かに頷いた。
「ええ。その通りですわ」
ユリウス様は苦く笑った。
「……私は、愚かだった」
「そうですわね」
「そこは否定してくれないのか……」
「あら。嘘はいけませんもの」
思わず、父が小さく吹き出した。
双子もくすくすと笑っている。
ユリウス様は肩を落とした。
「……婚約解消に同意する。父上にも、そう伝えるよ」
「ありがとうございます」
私は丁寧に頭を下げた。
「どうか、これからは約束を大切になさってくださいませ」
「……ああ」
「次にあなたを信じてくださる方のためにも」
その言葉に、ユリウス様はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
* * *
話し合いが終わり、ユリウス様が立ち上がる。
「それでは……失礼する」
「おお、ユリウス殿!」
ギルバートが勢いよく立ち上がった。
「玄関までお送りしましょう!」
「い、いや、自分で歩けます!」
「遠慮なさるな! 客人を見送るのは騎士の務めです!」
「いえ、本当に……!」
「はっはっは!」
ギルバートはユリウス様の背中を軽く叩いた。
軽く。
本人としては、軽く。
「ぐふっ!」
「おっと! 失礼!」
長兄は爽やかに笑った。
「どうも、つい力が入ってしまいますな!」
「そ、そうですね……!」
二人が廊下へ向かう。
その背中に、双子が元気いっぱいに手を振った。
「ユリウス様、ごきげんよう!」
「これからは遅刻なさらないでくださいませねー!」
「あと、嘘も駄目ですわよー!」
「お元気でー!」
廊下の向こうから、ギルバートの豪快な笑い声が響いた。
「いやあ、ユリウス殿! せっかくですから、今度は騎士団の朝稽古にでも!」
「えっ!? い、いや、それは遠慮させていただきます!」
「はっはっは! 残念!」
……最後まで、実に賑やかなお見送りでしたわ。
* * *
数日後。
両家の立ち会いのもと、婚約解消の手続きは正式に完了した。
合意した解決金も、ハルトマン子爵家から滞りなく支払われることとなった。
そして迎えた、穏やかな秋の午後。
ベルンハルト家の応接間には、再び紅茶の香りが満ちていた。
「うむ。クララ、今日の紅茶は実に美味いな」
父が満足げにスコーンを頬張る。
「ありがとうございます、お父様」
私は微笑んで答えた。
「本日は、新しく届いた茶葉を使ってみましたの」
「ほう! 道理で香りがよい!」
「お父様、ジャムも召し上がって!」
「こちらのスコーンも美味しいですわよ!」
双子が左右から父の皿に菓子を積み上げていく。
「こらこら、そんなに盛るでない!」
「まあ、お父様ったら!」
「まだ三つしか召し上がっていませんわ!」
「三つも食べれば十分だろう!」
応接間に笑い声が広がった。
私は、手元のティーカップを見つめる。
湯気の立つ、温かなダージリン。
あの日、ティールームで一人飲んだ冷めた紅茶とは、まるで違う。
不思議なものだ。
婚約が解消されたというのに、少しも悲しくない。
むしろ、肩の上に長い間乗っていた重荷が、ようやく下りたような気がする。
「クララ」
父が優しく声をかけた。
「お前は、これでよかったのだな?」
私は顔を上げた。
「ええ、お父様」
そして、心から微笑んだ。
「わたくし、今、とても晴れやかな気分ですわ」
父はしばらく私を見つめ、やがて満足げに頷いた。
「そうか。それならば、よい」
ギルバートが豪快に笑った。
「クララが幸せなら、それが一番だ!」
「まったくです」
ルディも穏やかに頷く。
「今後は、もっと時間を大切にしてくださる方とご縁があるとよいですね」
「お姉様には、素敵な殿方がお似合いですわ!」
「とっても誠実で、とっても優しくて!」
「それから、お兄様より強い方!」
「それは少々難しいのではありませんか?」
私が笑うと、ギルバートが真剣な顔で腕を組んだ。
「むう。私より強い男となると、騎士団長くらいしか……」
「お兄様、そこは基準にしなくて結構ですわ」
「そうか?」
「ええ」
すると、ルディが何やら手帳を取り出した。
「ちなみに、クララ」
「はい?」
「新しいお見合いのお話が、すでに三件ほど届いております」
「まあ!」
「もちろん、先方の人柄や評判、金銭感覚、交友関係、時間管理能力については、私が可能な範囲で確認しておきました」
「……お兄様」
「何でしょう?」
「まさか、もう面接の準備を?」
ルディはにっこりと笑った。
「当然です」
ギルバートが拳を握る。
「よし! 私も同席しよう!」
双子が歓声を上げた。
「わあ! 楽しそう!」
「私たちも質問を考えておきますわ!」
父まで重々しく頷く。
「うむ。娘を任せる相手だ。父親として、しっかり見極めねばならんな」
私は思わず天を仰いだ。
……ああ。
これは、次のお見合い相手も大変そうですわね。
けれど。
こんなにも私の幸せを願ってくれる家族がいる。
それは、なんと心強いことだろう。
私は笑いながら、ティーカップを持ち上げた。
「皆様。どうか、お手柔らかにお願いいたしますわね?」
「もちろんだとも!」
「当然です」
「お任せくださいませ!」
「楽しみにしていますわー!」
全員が、満面の笑みで答えた。
……ええ。
まったく信用できませんわ。
私は小さく吹き出した。
秋の柔らかな日差しが、ベルンハルト家の応接間を温かく照らしている。
冷めた紅茶を前に、誰かを待ち続ける日々は、もう終わった。
これからは、自分の時間を大切にしよう。
自分を大切にしてくれる人たちと、温かな紅茶を楽しもう。
そして、いつか本当に心から信頼できる人と出会えたなら。
そのときは、きっと。
約束の時間より少し早く待ち合わせ場所へ行き、二人でゆっくりとお茶を楽しみたい。
私はそんな未来を思い描きながら、香り高い紅茶を一口含んだ。
ああ。
今日のお茶は、格別に美味しい。
――ちなみに。
ベルンハルト家の家訓には、あまり知られていない続きがある。
『無礼には、笑顔と手数で報いよ。
されど、誠実なる者には、その十倍の真心をもって応えよ』
次にこの家の門をくぐる青年が、後半の家訓を知ることになるのか。
それとも、前半を身をもって思い知ることになるのか。
それは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
ベルンハルト家は今日も、笑顔である。
**――完――**




