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『無礼には、笑顔と手数で報いよ』~十八回も約束を破った婚約者を、家族総出で丁重におもてなしした結果~

掲載日:2026/10/28

澄み渡る秋晴れの午後。


王都の目抜き通りに面した高級ティールームのテラス席で、私――クララ・ベルンハルト男爵令嬢は、銀のスプーンで紅茶をかき混ぜながら、壁に掛けられた時計を見つめていた。


約束の時刻から、きっかり四十五分。


「……また、ですのね」


小さく呟き、スプーンをソーサーに戻す。


本日は婚約者であるユリウス・ハルトマン子爵令息と、王立劇場で新作の歌劇を鑑賞する予定だった。


開演前にこちらのティールームで落ち合い、軽くお茶を楽しんでから劇場へ向かう。


少なくとも、私はそのつもりでいた。


けれど、向かいの椅子は空っぽのまま。


運ばれてきたダージリンはすっかり冷め、表面にはうっすらと膜が張り始めている。


「お嬢様、お茶をお淹れ直しいたしましょうか?」


気遣わしげに声をかけてくれた給仕に、私は微笑んで首を横に振った。


「いいえ、結構ですわ。お会計をお願いいたします」


給仕が一礼して去っていく。


私はバッグから革表紙の小さな手帳を取り出した。


そこには、几帳面に並んだ十七本の横線。


一本一本が、ユリウス様に約束を破られた記録である。


本日で、十八本目。


「……よいしょ、と」


万年筆で丁寧に線を引く。


これで記録完了。


思えば、最初の頃は私も随分と寛容だった。


「急な公務が入った」と言われれば労いの手紙を送り、「友人が困っている」と言われれば事情を尋ねず送り出した。


「体調が優れない」と聞けば、胃に優しい薬草茶まで届けたものだ。


ところが。


急な公務の日には、ユリウス様が友人たちと競馬場で大騒ぎしていた。


困っているはずの友人は、本人と一緒に酒場で朝まで飲み明かしていた。


そして体調不良の日には、別のご令嬢と観劇を楽しんでいた。


……まあ、なんてお忙しい方なのでしょう。


一度など、私が問いただした際、彼は悪びれもせずにこう言った。


『クララは物分かりがいいから、怒らないだろう?』


ええ。


私は怒らなかった。


声を荒らげることも、涙を流して縋りつくことも、一度としてなかった。


なぜなら、我がベルンハルト家には、代々受け継がれてきた家訓があるからだ。


――『無礼には、笑顔と手数で報いよ』。


無礼に対して感情的になるのは、三流。


冷静に事実を積み重ね、礼節をもって相応の結果をお届けするのが、ベルンハルト家の流儀である。


私は手帳を閉じた。


十八回。


十分でしょう。


「お父様、お兄様方、それから可愛い妹たち」


私は冷めた紅茶を静かに飲み干し、立ち上がった。


「……出番ですわよ」


秋風が頬を撫でる。


私の口元には、自然と微笑みが浮かんでいた。


* * *


翌朝。


ハルトマン子爵邸の前の広場に、一人の青年の悲鳴が響き渡った。


「おおっ! ユリウス殿ではありませんか!」


「ひっ!?」


登城しようとしていたユリウス様の前に、巨大な影が立ちはだかったのである。


影の正体は、私の長兄ギルバート。


王宮近衛騎士団の副団長を務める、身長二メートル近い偉丈夫だ。


素手で熊を絞め落としたという逸話があるが、本人曰く「あれは熊の方が勝手に気絶しただけ」らしい。


ちなみに、その熊は今でも兄の姿を見ると逃げるそうだ。


「ギ、ギルバート卿……! お、おはようございます……」


「いやあ、実に清々しい朝ですな!」


ギルバートは朝日より眩しい笑顔を浮かべ、ユリウス様の肩を叩いた。


バシィン!


「ぐえっ!」


「おや、失礼! 少々力が入りすぎましたかな!」


「い、いえ……肩が……肩が少し……」


「ところで!」


ギルバートは朗らかに続けた。


「昨日はクララとの観劇のお約束、急な腹痛でお流れになったとか!」


「えっ」


「妹はそれはもう心配しておりましてな! 『ユリウス様の胃腸が破裂してしまったのではないかしら』と!」


「い、胃腸は破裂しておりません!」


「なんと! それは重畳!」


ギルバートは心底安心したように頷いた。


「しかし、病み上がりに無理は禁物ですぞ。昨日の夕刻、酒場で元気に踊っておられたという話も耳にしましたが、あれは腹痛を紛らわせるための健康法でしたかな?」


「なっ……!」


ユリウス様の顔から血の気が引いた。


「そ、それは、その……」


「はっはっは! よいのです! 健康法は人それぞれですからな!」


ギルバートは豪快に笑った。


ただし、目は笑っていない。


「さて、ユリウス殿。次の日曜日は、我が家のサロンでお茶会を予定しております」


「えっ? いや、日曜日は少々予定が……」


「ほう?」


ギルバートの分厚い掌が、再びユリウス様の肩に置かれた。


みしり。


「……っ!」


「クララが、ぜひお会いしたいと申しておりましてな」


「そ、そうですか……」


「父も私も弟も、妹たちも、皆それはもう楽しみにしております」


みしみし。


「い、痛……」


「特に私は、ユリウス殿と男同士、胸襟を開いてお話ししたいと思っておりまして!」


「きょ、胸襟を……」


「ええ! 心ゆくまで!」


ギルバートは爽やかに笑った。


「では、日曜日。お待ちしておりますぞ!」


肩から手が離れる。


ユリウス様は、その場に膝をつきかけた。


「……は、はい……」


「おお、よいお返事だ!」


長兄は満足げに頷き、颯爽と去っていった。


残されたユリウス様は、震える手で自分の肩をさすったという。


* * *


その日の昼下がり。


王宮の回廊を歩いていたユリウス様は、今度は細身の青年に呼び止められた。


「やあ、ハルトマン子爵令息。ご機嫌麗しゅう」


「……ルディ殿」


私の次兄、ルディ・ベルンハルト。


王国財務省に勤務する、数字と書類をこよなく愛する男である。


彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、柔らかく微笑んだ。


「昨日は妹がお世話になりました」


「い、いえ……その……」


「いえいえ。おかげさまで、妹は予定していた観劇を一人で楽しみ、帰宅後には読書までできたそうですよ。大変有意義な一日だったようです」


「そ、それはよかった……」


「ええ。もっとも、予約していた二名分の特等席のうち、一席は無駄になりましたが」


「……」


「ちなみに、これまで十八回の約束不履行によって発生した費用を、私なりに集計してみましてね」


ルディは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


そこには、恐ろしく細かい数字がびっしりと書き込まれている。


「カフェ代、馬車代、観劇の予約費用、手配した贈答品、使用されなかった招待状……」


「ま、待ってください」


「それに加えて、クララが予定を空けるために辞退した社交行事や、先方へのお詫びに要した費用もあります」


「ちょ、ちょっと……」


「もちろん、すべてを法的な損害として請求できるわけではありません。そこはきちんと区別しておりますので、ご安心を」


「そ、そうですか……」


「ですが、婚約解消の条件を検討する上では、大変参考になる資料です」


「こ、婚約解消!?」


ユリウス様の声が裏返った。


ルディはにっこりと笑う。


「おや、まだ何も決まっておりませんよ。妹の意思が第一ですからね」


「そ、そうですよね……!」


「ただし」


眼鏡が、きらりと光った。


「必要になったときに書類がない、という事態は財務官として看過できません」


「……」


「日曜日のお茶会には、私も同席いたします。どうぞよろしく」


「な、何をお話しするのでしょうか……?」


「そうですねえ」


ルディは少し考える仕草をした。


「クララが焼くスコーンの原価計算から、婚約解消に伴う費用負担の考え方まで、幅広く」


「スコーンから婚約解消まで!?」


「数字とは、すべてつながっているものですよ」


次兄は涼しい顔で一礼し、書類の束を抱えて去っていった。


ユリウス様はしばらく、その場から動けなかったそうだ。


* * *


さらに夕刻。


一日中落ち着かない気分で過ごしたユリウス様は、気晴らしに馴染みの高級菓子店へ立ち寄ろうとしていた。


甘いものでも食べれば、少しは気が紛れるだろう。


そう思った、その瞬間。


「まあっ! ユリウス様!」


「きゃあ! 未来のお義兄様ですわー!」


左右から、鈴を転がすような声が響いた。


「ひいっ!?」


私の双子の妹、エリーゼとエミリアである。


十四歳の二人は、ふわふわの金髪に大きな青い瞳を持つ、天使のように愛らしい少女たちだ。


ただし、趣味は狩猟。


二人とも小型の弓を自在に扱い、握力はそこらの成人男性を軽く上回る。


その天使たちが、ユリウス様の両腕にがっしりと抱きついた。


「エ、エリーゼ嬢! エミリア嬢!」


「お姉様から伺いましたわ!」


「昨日も大切なお約束に来られなかったんですって?」


「そ、それは……」


「まあ、お可哀想!」


「きっと、とっても大変なご事情があったんですわね!」


二人は心底気の毒そうな顔をした。


「で、でも、お姉様は怒っていらっしゃらないでしょう……?」


「もちろんですわ!」


「お姉様はとってもお優しいんですもの!」


ユリウス様がほっと息をつく。


その瞬間。


「ただ、日曜日のお茶会は絶対にいらしてくださいませね!」


「お姉様が特別なお茶をご用意しているんですの!」


「と、特別なお茶……?」


エミリアが目を輝かせた。


「『誠実さを取り戻す薬草茶』ですって!」


「とーっても苦いらしいですわ!」


「飲むと舌が一日中痺れるくらい苦いんですって!」


「そんなもの飲めるか!」


思わず叫んだユリウス様に、双子は同時に首を傾げた。


「まあ?」


「お姉様の心尽くしを、お断りになるんですの?」


ぎゅう。


「い、いや……」


ぎゅぎゅう。


「う、腕が……!」


「楽しみにしていますわね!」


「私たちも、ユリウス様がどんなお顔をなさるか、とっても楽しみですわー!」


双子は満面の笑みを浮かべ、ようやく腕を解放した。


「それでは、ごきげんよう!」


「日曜日にお会いしましょうねー!」


ひらひらと手を振り、二人は馬車へ乗り込んでいった。


残されたユリウス様は、その場にへたり込んだ。


逃げ場がない。


朝は長兄。


昼は次兄。


夕方には双子。


誰も怒鳴らない。


誰も直接責め立てない。


ただ全員が、恐ろしく輝いた笑顔で同じ言葉を告げる。


――楽しみにしています。


「……ベルンハルト家は……一体どうなっているんだ……」


ユリウス様は、宵闇迫る街角で小さく震えたという。


* * *


そして迎えた日曜日。


ベルンハルト男爵邸の応接間には、秋の日差しが柔らかく差し込んでいた。


テーブルには、焼きたてのスコーン。


季節の果物を使ったジャム。


銀のポットには、香り高いダージリン。


そして、それらを囲むベルンハルト家の面々。


上座には、威厳たっぷりに腕を組む父。


その右隣には、騎士団の礼装をまとった長兄ギルバート。


左隣には、分厚い書類の束を前に置いた次兄ルディ。


私の背後には、にこにこと笑う双子の妹たち。


……ええ。


実に、和やかな家族のお茶会ですわね。


「お姉様、ユリウス様は本当にいらっしゃるかしら?」


「途中で逃げたりなさらない?」


エリーゼとエミリアが、楽しそうに囁き合う。


「大丈夫ですわ」


私は微笑んだ。


「今回は、きっと約束を守ってくださいます」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに、執事が入室した。


「お嬢様。ハルトマン子爵令息がお見えでございます」


時計を見る。


約束の三十分前。


私は思わず目を細めた。


「まあ。素晴らしいこと」


十八回目にして、ようやく時間という概念を理解してくださったらしい。


もっとも、少々遅すぎましたけれど。


* * *


応接間の扉が開いた。


入ってきたユリウス様は、ひどく青白い顔をしていた。


いつもは自信たっぷりに整えられている金髪も、今日はどこか元気がない。


「よ、よくぞお招きいただき……」


声が震えている。


「お、お招きいただきまして……ありがとうございます……」


私は立ち上がり、優雅に淑女の礼を返した。


「ようこそ、ユリウス様。お約束より三十分も早くお越しいただけるなんて、わたくし、感激いたしましたわ」


「ク、クララ……!」


ユリウス様は私を見るなり、今にも泣き出しそうな顔になった。


「すまなかった!」


「まあ」


「今までのことは、全部私が悪かった! これからは絶対に約束を守る! 遅刻もしない! 嘘もつかない! だから……!」


彼はちらりと周囲を見回した。


父の鋭い眼光。


ギルバートの分厚い胸板。


ルディの書類の束。


双子の無邪気な笑顔。


「だから、その……ご家族の皆様を、どうか下がらせてくれないだろうか……!」


私は小さく首を傾げた。


「まあ、どうしてですの?」


「ど、どうしてって……!」


「皆、あなたとお会いできるのを楽しみにしていたのですわ」


「そうとも!」


父が重々しい声で頷いた。


「我が娘を十八回も待ちぼうけにした青年が、いったいどのような面構えをしておるのか、父親として実に興味があってな」


「じゅ、十八回……」


「正確には」


ルディが書類をめくった。


「カフェでの待ちぼうけが十二回。劇場前での待ちぼうけが四回。雨天の屋外での待ちぼうけが二回。合計十八回です」


「そ、そんなに……」


「ええ。記録に誤りはありません」


ルディは淡々と続ける。


「ちなみに、直前の連絡すらなかった回数は十四回。虚偽の理由が確認されたものは十一回です」


「……」


「残り七回については、現時点で真偽不明としております。推測を事実として扱うのは、数字に対する冒涜ですからね」


「そ、そうですか……」


「何か訂正したい点はございますか?」


「い、いえ……」


「結構」


ルディは満足げに頷いた。


「では、記録はこのままにいたしましょう」


「いやあ、ユリウス殿!」


ギルバートが拳をぱきりと鳴らした。


「私としては、妹を十八回も待たせられる胆力に感心しておりますぞ! ぜひ一度、その精神力の鍛え方を教えていただきたい!」


「い、いや……その……」


「なんでしたら、庭で軽く手合わせでも!」


「遠慮します!!」


ユリウス様の返事は、驚くほど素早かった。


背後では双子が楽しそうに拍手している。


「まあ、お返事が早いですわ!」


「お姉様へのお返事も、そのくらい早ければよろしかったのに!」


「……っ!」


ユリウス様の顔が、みるみる赤くなった。


私は静かにティーカップを置いた。


「皆様」


その一言で、応接間が静まり返る。


父も、兄たちも、妹たちも、私を見た。


私は微笑んだ。


「ここからは、わたくしがお話しいたしますわ」


* * *


「ユリウス様」


私は彼の正面に座り直した。


「まず、一つだけお尋ねしてもよろしいかしら?」


「な、なんだ……?」


「あなたは、わたくしとの約束を十八回も破りました。そのことを、どうお考えですの?」


「そ、それは……悪かったと思っている……」


「そうですか」


「本当だ! もう二度としない! だから……!」


「では、なぜ昨日まで、一度もきちんと謝罪してくださらなかったのです?」


ユリウス様は口を閉ざした。


「わたくしが待つことを、当然だと思っていらしたからではなくて?」


「……」


「わたくしが怒らないから。責めないから。いつでも笑って許してくれるから」


私はゆっくりと言葉を続けた。


「だから、何度約束を破っても構わないと、お考えになったのでしょう?」


「そ、それは……」


「以前、あなたは仰いましたわね」


私は彼の目をまっすぐに見つめた。


「『クララは物分かりがいいから、怒らないだろう?』と」


ユリウス様の肩が、びくりと震えた。


「ええ。わたくしは怒りませんでした」


私は手帳を取り出した。


革表紙を開き、十八本の横線を彼に見せる。


「ですが、怒らなかったことと、傷つかなかったことは違います」


「……クララ」


「わたくしは、あなたと過ごす時間を大切にしておりました。お会いする日には、何をお話ししようか考え、どんなお菓子がお好きか調べ、あなたが楽しめるよう準備をしていたのです」


窓の外で、風が木の葉を揺らした。


「それを、あなたは十八回、無駄にしました」


私は手帳を閉じた。


「そして、十九回目を待つつもりはございません」


ユリウス様が目を見開く。


「……え?」


「わたくし、あなたとの婚約を解消したいと思っております」


応接間に沈黙が落ちた。


「ま、待ってくれ!」


ユリウス様が身を乗り出した。


「私は謝っただろう!? これからは変わると言っている! それでも駄目なのか!?」


「ええ」


私は迷わず頷いた。


「な、なぜ……!」


「今まで、変わる機会は十八回ございましたもの」


「……!」


「それに」


私は微笑んだ。


「あなたが今、必死に謝っていらっしゃるのは、わたくしを失うのが悲しいからですか? それとも、わたくしの家族が怖いからですか?」


ユリウス様の視線が、思わずギルバートへ向かった。


ギルバートがにっこり笑う。


ユリウス様は慌てて目を逸らした。


……ええ。


答えは、十分ですわね。


「ユリウス様。わたくしは、あなたを罰したいのではありません」


私は穏やかに告げた。


「ただ、あなたと人生を共にすることを、もう望んでいないのです」


* * *


そこで、ルディが静かに口を開いた。


「さて。ここからは事務的なお話をいたしましょう」


彼はテーブルの上に、一通の書類を置いた。


「婚約解消に関する合意書です」


「……もう用意していたのか?」


ユリウス様が呆然と呟く。


「ええ。準備は大切ですから」


ルディは涼しい顔で答えた。


「なお、昨日のうちにハルトマン子爵閣下にも事情をご説明し、双方の家で協議しております」


「ち、父上に!?」


「はい。子爵閣下は大変驚いておられましたが、事情を確認された後、正式な謝罪状をお寄せくださいました」


父が静かに頷いた。


「ハルトマン子爵とは長い付き合いだ。今回の件については、先方も息子の非を認めておる」


「……」


「もちろん、婚約解消そのものはクララの意思を尊重するということで、両家の認識は一致している」


ユリウス様は力なく椅子に沈み込んだ。


ルディが書類を一枚ずつ示す。


「こちらが婚約解消の合意書。こちらが実費の精算明細。そしてこちらが、両家で協議した解決金の支払い条件です」


「か、解決金……?」


「ええ。正式な婚約関係を結んでいた以上、繰り返された約束不履行や、その後の対応について、何の責任も生じないというわけにはまいりません」


ルディは眼鏡を押し上げた。


「もっとも、請求額は常識的な範囲に収めております。私は数字に厳しい男ですが、数字を使って人を脅す趣味はありませんので」


「……」


「ちなみに、最初に試算した額の三分の一です」


「さ、三分の一……?」


「ええ。残り三分の二は、私の個人的な怒りが混入している可能性がございましたので、冷静に除外しました」


……お兄様。


それは、少々正直すぎるのではなくて?


私は思わず口元を押さえた。


ルディは何事もなかったように続ける。


「本日は内容をご確認いただくための場です。署名は後日、子爵閣下とともに行っていただいても結構です」


「……今すぐ署名しなくても、いいのか?」


「もちろんです」


ルディはにっこりと笑った。


「ただし、クララの婚約解消の意思は変わりません。そこだけは、お間違えのないように」


ユリウス様は、しばらく書類を見つめていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「……わかった」


そして、顔を上げる。


「クララ。君には、本当に申し訳ないことをした」


今度の声には、先ほどまでの怯えとは違う響きがあった。


「私は……君がいつも笑っているから、何をしても許してくれると思っていた」


「……」


「君の時間を、自分のもののように扱っていたんだな」


私は静かに頷いた。


「ええ。その通りですわ」


ユリウス様は苦く笑った。


「……私は、愚かだった」


「そうですわね」


「そこは否定してくれないのか……」


「あら。嘘はいけませんもの」


思わず、父が小さく吹き出した。


双子もくすくすと笑っている。


ユリウス様は肩を落とした。


「……婚約解消に同意する。父上にも、そう伝えるよ」


「ありがとうございます」


私は丁寧に頭を下げた。


「どうか、これからは約束を大切になさってくださいませ」


「……ああ」


「次にあなたを信じてくださる方のためにも」


その言葉に、ユリウス様はしばらく黙っていた。


そして、深く頭を下げた。


* * *


話し合いが終わり、ユリウス様が立ち上がる。


「それでは……失礼する」


「おお、ユリウス殿!」


ギルバートが勢いよく立ち上がった。


「玄関までお送りしましょう!」


「い、いや、自分で歩けます!」


「遠慮なさるな! 客人を見送るのは騎士の務めです!」


「いえ、本当に……!」


「はっはっは!」


ギルバートはユリウス様の背中を軽く叩いた。


軽く。


本人としては、軽く。


「ぐふっ!」


「おっと! 失礼!」


長兄は爽やかに笑った。


「どうも、つい力が入ってしまいますな!」


「そ、そうですね……!」


二人が廊下へ向かう。


その背中に、双子が元気いっぱいに手を振った。


「ユリウス様、ごきげんよう!」


「これからは遅刻なさらないでくださいませねー!」


「あと、嘘も駄目ですわよー!」


「お元気でー!」


廊下の向こうから、ギルバートの豪快な笑い声が響いた。


「いやあ、ユリウス殿! せっかくですから、今度は騎士団の朝稽古にでも!」


「えっ!? い、いや、それは遠慮させていただきます!」


「はっはっは! 残念!」


……最後まで、実に賑やかなお見送りでしたわ。


* * *


数日後。


両家の立ち会いのもと、婚約解消の手続きは正式に完了した。


合意した解決金も、ハルトマン子爵家から滞りなく支払われることとなった。


そして迎えた、穏やかな秋の午後。


ベルンハルト家の応接間には、再び紅茶の香りが満ちていた。


「うむ。クララ、今日の紅茶は実に美味いな」


父が満足げにスコーンを頬張る。


「ありがとうございます、お父様」


私は微笑んで答えた。


「本日は、新しく届いた茶葉を使ってみましたの」


「ほう! 道理で香りがよい!」


「お父様、ジャムも召し上がって!」


「こちらのスコーンも美味しいですわよ!」


双子が左右から父の皿に菓子を積み上げていく。


「こらこら、そんなに盛るでない!」


「まあ、お父様ったら!」


「まだ三つしか召し上がっていませんわ!」


「三つも食べれば十分だろう!」


応接間に笑い声が広がった。


私は、手元のティーカップを見つめる。


湯気の立つ、温かなダージリン。


あの日、ティールームで一人飲んだ冷めた紅茶とは、まるで違う。


不思議なものだ。


婚約が解消されたというのに、少しも悲しくない。


むしろ、肩の上に長い間乗っていた重荷が、ようやく下りたような気がする。


「クララ」


父が優しく声をかけた。


「お前は、これでよかったのだな?」


私は顔を上げた。


「ええ、お父様」


そして、心から微笑んだ。


「わたくし、今、とても晴れやかな気分ですわ」


父はしばらく私を見つめ、やがて満足げに頷いた。


「そうか。それならば、よい」


ギルバートが豪快に笑った。


「クララが幸せなら、それが一番だ!」


「まったくです」


ルディも穏やかに頷く。


「今後は、もっと時間を大切にしてくださる方とご縁があるとよいですね」


「お姉様には、素敵な殿方がお似合いですわ!」


「とっても誠実で、とっても優しくて!」


「それから、お兄様より強い方!」


「それは少々難しいのではありませんか?」


私が笑うと、ギルバートが真剣な顔で腕を組んだ。


「むう。私より強い男となると、騎士団長くらいしか……」


「お兄様、そこは基準にしなくて結構ですわ」


「そうか?」


「ええ」


すると、ルディが何やら手帳を取り出した。


「ちなみに、クララ」


「はい?」


「新しいお見合いのお話が、すでに三件ほど届いております」


「まあ!」


「もちろん、先方の人柄や評判、金銭感覚、交友関係、時間管理能力については、私が可能な範囲で確認しておきました」


「……お兄様」


「何でしょう?」


「まさか、もう面接の準備を?」


ルディはにっこりと笑った。


「当然です」


ギルバートが拳を握る。


「よし! 私も同席しよう!」


双子が歓声を上げた。


「わあ! 楽しそう!」


「私たちも質問を考えておきますわ!」


父まで重々しく頷く。


「うむ。娘を任せる相手だ。父親として、しっかり見極めねばならんな」


私は思わず天を仰いだ。


……ああ。


これは、次のお見合い相手も大変そうですわね。


けれど。


こんなにも私の幸せを願ってくれる家族がいる。


それは、なんと心強いことだろう。


私は笑いながら、ティーカップを持ち上げた。


「皆様。どうか、お手柔らかにお願いいたしますわね?」


「もちろんだとも!」


「当然です」


「お任せくださいませ!」


「楽しみにしていますわー!」


全員が、満面の笑みで答えた。


……ええ。


まったく信用できませんわ。


私は小さく吹き出した。


秋の柔らかな日差しが、ベルンハルト家の応接間を温かく照らしている。


冷めた紅茶を前に、誰かを待ち続ける日々は、もう終わった。


これからは、自分の時間を大切にしよう。


自分を大切にしてくれる人たちと、温かな紅茶を楽しもう。


そして、いつか本当に心から信頼できる人と出会えたなら。


そのときは、きっと。


約束の時間より少し早く待ち合わせ場所へ行き、二人でゆっくりとお茶を楽しみたい。


私はそんな未来を思い描きながら、香り高い紅茶を一口含んだ。


ああ。


今日のお茶は、格別に美味しい。


――ちなみに。


ベルンハルト家の家訓には、あまり知られていない続きがある。


『無礼には、笑顔と手数で報いよ。


 されど、誠実なる者には、その十倍の真心をもって応えよ』


次にこの家の門をくぐる青年が、後半の家訓を知ることになるのか。


それとも、前半を身をもって思い知ることになるのか。


それは、まだ誰にもわからない。


ただ一つ、確かなことがある。


ベルンハルト家は今日も、笑顔である。


**――完――**



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