変わり者
その日、俺たち5人は古びた旅館にチェックインした。俺、俺の親友である三浦、そして加藤、久田、井上。総勢5人の男旅だった。築100年を超えるというその旅館は、趣があると言えば聞こえはいいが、実際は薄暗く、どこか湿った空気を纏っていた。特に俺たちの通された部屋は、廊下の突き当りにあり、昼間だというのに陽の光も届かず、妙にひんやりとしていた。
三浦は、基本的に幽霊の存在を信じていない男だ。いや、正確には「信じていない」というよりは「肯定も否定もできない」という科学的なスタンスを崩さない。だから、幽霊の可能性そのものは否定しない。そんな三浦の論理的な思考は、この薄気味悪い部屋においても揺らぐことはなかった。彼はむしろ、好奇心に目を輝かせているようにも見えた。
「これは、なかなかのものだね」
三浦は部屋を見回し、満足げに呟いた。その言葉に、俺は一抹の不安を覚えた。
そしてその夜、事件は起こった。
日付が変わる頃、俺は微睡みの中にいた。ふと、右腕に冷たい感触と、わずかな引っ張るような力が伝わってきた。意識が覚醒していく。目を開けると、部屋は真っ暗で、外からの僅かな月明かりだけが、ぼんやりと周囲の輪郭を浮かび上がらせていた。
引っ張られている腕に目をやると、隣の布団から白い腕が伸び、俺の右腕を掴んでいた。隣には三浦が寝ているはずだ。しかし、その腕は異様に長く、指先が不自然に曲がっているように見えた。
三浦の方に目を向ける。彼は目を見開いて、一点を凝視していた。その瞳には、恐怖よりも純粋な驚きが宿っているように見えた。
「おい、どうした?」
声をかけようとして、俺はためらった。真夜中だ。他の友人たちを起こしてしまえば、ただでさえ不気味な空気の部屋が、さらに不穏なものになるかもしれない。俺は三浦の視線を辿った。彼が見つめている先、部屋の隅の天井に、それはいた。
最初は、それが何かはっきりとは分からなかった。ただ、何かがぶら下がっている。暗闇に目が慣れてくると、それは人間の形をしていることに気づいた。そして、次の瞬間、俺は息を呑んだ。
天井から、女が逆さまにぶら下がっていたのだ。
腰のあたりから天井に縫い付けられているかのように、女は吊り下がっていた。長く黒い髪はだらりと垂れ下がりユラユラと揺れている。手も同じように下に垂れ下がり、小刻みに震えていた。顔は蝋人形のように真っ白で、目は固く閉じられている。まるで、血の気を失った死体のように。
俺は再び三浦に目をやった。三浦も俺の方を見ていた。その口が、ゆっくりと動く。声は出ていない。だが、その口の動きから、三浦が何を言っているのかが、ありありと理解できた。
「すごい」
彼は、そう言っていた。恐怖に囚われる俺とは対照的に、三浦の表情は興奮に歪んでいた。
その異様な光景が、どれほどの時間続いたのか、俺には分からない。ただ、外が徐々に明るくなり始めるにつれて、天井の女は薄くなり、やがて朝焼けの中に溶けるように消えていった。
翌朝、加藤が興奮した声で叫んだ。「この部屋、やばいぞ! 幽霊が出た!」どうやら、幽霊を見たのは俺と三浦だけではなかったらしい。俺が「実は俺も見た。三浦も見てた」と告げると、久田と井上は「ほんとかよ、マジかよ」と大騒ぎだ。
「旅館の人に言って部屋を替えてもらおう」
そう言い出す友人たちに、三浦はまさかの言葉を放った。
「いや、このままでいいよ。できたら、もう一度じっくり観察したい」
友人たちは、何を言っているんだという顔で三浦を見た。俺も驚きを隠せない。だが、三浦はお構いなしに続けた。
「せっかく幽霊を見る機会に恵まれたんだ。こんなチャンス、逃したくないだろう?」
当然、友人たちは猛反対する。しかし、三浦は聞く耳を持たない。
「別に天井からぶら下がっているだけじゃないか。何の問題があるというんだ」
俺も正直なところ、部屋を替えたかった。しかし、三浦の嬉しそうな顔を見ていると、反対しづらい気持ちになった。それでも加藤、久田、井上は断固としてこの部屋は嫌だと主張し、一歩も引かない。流石の三浦も、友人たちの反対には諦めざるを得ず、部屋を替えてもらうことに同意した。
俺たちは旅館の人を呼び、昨夜の出来事を話した。旅館の人は申し訳なさそうに謝罪した。
「実は以前にも、この部屋で幽霊を見たというお話は度々ありまして……お祓いもしてもらったのですが」
お祓い以来、従業員用の仮眠室として使用していたが、幽霊を見たという話はなかったらしい。そのため、一月ほど前から客間として使い始めたばかりだったという。旅館の人は、他に空き部屋があるので、そちらに移ってくださいと丁寧に言ってくれた。
3人はすぐさま荷物をまとめ、移動の準備をする。すると、三浦が旅館の人に衝撃的な言葉を口にした。
「僕だけこの部屋に残ってもいいですか」
旅館の人は「えっ」と声を漏らし、しばらく固まっていたが、やがて問い返した。
「この部屋に、お一人で泊まりたいと」
「ええ、他の友人はこの部屋は嫌だというので替えていただきたいのですが、できれば僕だけ残りたいのです。ただ、お金に余裕があるわけではないので、宿泊料金は元のままでお願いしたいのですが、大丈夫ですか」
旅館の人は困惑しきっていたが、責任者に確認してきますと言って部屋を出ていった。友人3人は、呆れ顔で三浦を見ている。三浦は「これなら君たちには迷惑はかからないだろう」と笑いながら言った。俺もさすがに呆れていたが、三浦らしい行動でもあると妙に納得している自分もいた。
旅館の人が戻ってきた。責任者と話した結果、どうしてもというのなら構わないとのこと。三浦は嬉しそうに「ありがとうございます」と深々と頭を下げている。
加藤、久田、井上は急いで荷物をまとめ、部屋を出ていく。三浦は俺に「君は行かないのかい」と訊いてきた。
「三浦は本気でこの部屋に泊まるつもりなのか」
俺は三浦にそう尋ねた。
「もちろん本気さ。昨夜はさすがに驚いて見ることしかできなかったからね。もう一度出てきてくれたら、今度は何とかコミュニケーションを取りたいと思っているんだ」
三浦の言葉に、俺は背筋が凍る思いがした。コミュニケーション? 天井から逆さまにぶら下がる幽霊と?
「俺は、幽霊の出る部屋に泊まるのは怖くてできないから、みんなの部屋に行くよ」
三浦は笑って、「わかった、悪いなわがまま言って」と言った。その顔は、まるで子供のように純粋な探求心に満ちていた。
日中は、みんなで観光名所を回った。しかし、俺の心は常にあの部屋の三浦のことが気になっていた。夕方、旅館に戻ってきても、三浦はやはり一人であの部屋に泊まるつもりらしかった。
眠るまでは三浦も皆と同じ部屋にいたが、22時過ぎになると、彼は一人であの部屋に戻っていった。残った友人たちは、三浦の物好きに呆れかえっていた。だが、俺は呆れとは違う、漠然とした不安を感じていた。彼は一体、何をしようとしているのだろう。そして、あの女は、今夜も現れるのだろうか?
翌朝、夜明けとともに、俺は跳ね起きるように布団を出た。三浦のことが気になって仕方なかった。意を決して、彼の泊まる部屋へと向かう。入口の扉に手をかけると、鍵はかかっておらず、扉は軋む音を立てて開いた。
中に入ると、布団の中で三浦が静かに寝息を立てていた。無事だったことに安堵しつつも、俺は少し迷った。だが、昨夜のことが気になって、どうしても尋ねたかった。
俺は寝ている三浦の肩を揺すった。するとすぐに、彼は眠い目を擦りながら起き上がった。
「どうだった」
俺の問いに、三浦はふぁ、とあくびをしながら答えた。
「一晩中寝ないで待っていたんだけど、出てきてくれなかったんだ」
彼は心底残念そうな顔をしている。
「明るくなってきて、もう出てきてくれそうになかったから、寝たんだよ。眠たいから、もう少しだけ寝かせてくれ」
そう言って、三浦は布団に戻って眠ってしまった。俺は拍子抜けして、部屋を後にした。
旅行からの帰りの電車の中。三浦は、幽霊が出てこなかったことをまだ悔しがっていた。
「お前ががっつくから嫌になったのかもよ。女性の幽霊だったからな」
俺がそう冗談めかして言うと、三浦は真顔で言い返した。
「今度、お金貯めて、また泊まりに来てやるさ」
彼はまだ諦めていないようだった。
「でもさ、幽霊って本当にいるんだな」
俺が感慨深げに呟くと、三浦は頷いた。
「たしかに、これだけはっきりと、しかも3人同時に見たとなると、疑う点はないね」
そして、三浦は突然、興奮したように俺に語り始めた。
「でも、一つだけ発見があったんだ」
彼は身を乗り出した。
「天井からぶら下がった幽霊の髪が、下に向かって垂れ下がっていただろう」
「たしかに垂れ下がっていたな」
あの光景を思い出し、俺はぞっとした。
「垂れ下がっていたということは、幽霊の髪も重力に引かれていたということだ」
三浦は、まるで重大な学説でも発表するかのように、真剣な顔で言った。
「重力に引かれるということは、質量があるということ。つまり、幽霊も物質として存在しているということになるんじゃないか」
俺は言葉を失った。幽霊が物質? そんな考え、想像したこともなかった。
「もう一度出てきてくれていたら、幽霊に触ろうと思っていたのに」
三浦は心底残念そうに呟いた。
「触れていたら、はっきりしたのになあ、本当に残念だ」
「お前、幽霊に触るつもりだったのか?」
俺は驚愕して叫んだ。
「そうだよ」
三浦は当然のように答える。俺は心底呆れ果てた。こんな男と一緒に旅行に来たことを後悔した。
三浦はにこやかに俺に言った。
「また旅行に行くときは、ぜひ誘ってくれよ」
俺は、二度と三浦を旅行には誘わないと、心に強く誓った。
果たして、次に彼がその部屋を訪れた時、天井の女は現れるのだろうか? そして、彼は本当に、その"物質"に触れることができるのだろうか?