「よくある話」と言われたけれど 〜side ヘレン〜
暑い夏の日、私は死んだ。
辻馬車にひかれたのだ。
私、ヘレン・エヴァンス、六十歳は、その日、買い物をしていた。ヴァリアス・バザールは何でもそろうショッピング街で、私は行きつけの店で茶葉を買っていた。
私は上機嫌で茶葉を買い、ストリートに出た。ちょうど、五階建てのおもちゃ屋の入口から、溌剌とした笑顔の少女がひとりで出てきた。
白地にラベンダーがプリントされたワンピースを着た女の子で、肩まである波打つブロンドのヘアに同じ柄のリボンを結んでいた。
買ったばかりなのか、ビスクドールを空に向かって掲げ、満面の笑みで、くるくる回ってダンスしている。
夏風をまとう少女は、きらきらと輝いていて、孫娘、セリアの少女時代に似ていた。
セリアもよくお人形遊びをしていた。
懐かしさで胸を膨らませていると、少女は道路を挟んだ向こう側を見た。
ぱっと目を輝かせて、手を振る。
「パパ!」
向こう側には紳士服をまとった男性が手をあげていた。
少女は父親しか目に入っていないのか、笑顔で通りを横切ろうとした。
そこへ、暴れ馬のようにいななく辻馬車が走ってきた。
私は咄嗟に持っていた日傘を投げ捨てた。
少女に駆け寄り、手首を無我夢中で掴んで、歩道に戻らせる。
少女の小さな体は歩道に倒れ、その後ろでは母親らしき人が少女の名前を呼んでいた。
次に来たのは、体と魂が分かれるほどの衝動。
まぶたの裏で白い花火が上がり、どこかへ飛ばされる感覚がした。
馬の声と、つんざくような悲鳴。
うつろう視界の中で見えたのは、女の子を抱きしめる母親の姿だった。
――ああ、よかった。……守れた。
それっきり、私の意識は最果てへと飛んでいった。
気がつくと、私は家に居た。
夫が買って、今も住んでいる黄色い煉瓦造りの家だ。
アーチ型になっている窓枠には、スモーキーな幾何学模様のタイルが貼られている。私の好きなデザインで、彩ったものだ。
でもおかしい。人の気配がしない。
明かりの消えた家は奇妙なほど静かで、絵画のように美しいまま、時を止めていた。
それに庭の花も違う。
煉瓦の積み上がった石垣には、青と紫のアジサイが豊かな花坊を広げていた。
夫を亡くしてから、彼の好きなアジサイは、私の部屋から見える場所に植え替えた。
ここには、向日葵やラベンダー。
セリアと私が好きな花を植えたはずだ。
まるで、新婚時代の庭に戻ったかのよう。
ふと、私の後ろで靴音がした。
赤煉瓦が埋まった玄関アプローチを誰かが踏んでいるのだろうか。
はっとして振り返ると、シルクハットを被った男性が私を見てほほ笑んでいた。梳毛のモーニングコートを着た彼は、シルクハットを脱いで、私に挨拶した。
穏やかにたれ下がった瞳を見て、私はその名をつぶやいた。
「ルーカス……」
二十一年前に亡くなった夫が立っていた。
亡くなった当時、五十歳の姿のままだった。
***
夫は私より十二歳年上。実家の近く、幽霊屋敷に、ひとりで引っ越してきた変わった人だった。
出会ったのは、夫が二十七歳、私が十五歳の頃だ。
夫の出自はなんと貴族で、北部の伯爵家の嫡男だった。
そんな彼が、雨漏りがひどい何年も放置された家を借りて住みだしたのは、『何もしたいことがなかったから、暇つぶし』だそう。
彼は苦労の多い人生で、気難しい祖母と気性の荒い母親と、愛人を作る父親に育てられた。
首都の大学で医者を志していたが、父親が愛人を伴って、家を捨ててしまったのだ。
彼は大学を出る前に家に連れ戻され、そこから、寝たきりの祖母の面倒、そして領地のことをひとりで背負っていた。
杖でこずく祖母を看取り、彼の母親は酒におぼれ、アルコール中毒で亡くなった。
――あなたなんか産まなければよかった……。
彼に呪いの言葉を残して。
彼の思いは、家族に何一つ伝わらず、努力は何一つ報われることはなかった。
彼は領地を王家に返上し、使用人たちに給金と暇を出した。
身一つになった彼に残されたのは、莫大な遺産だけだった。
――よくある話です。ありふれた悲劇を、僕は体験しました。
そう儚げにほほ笑みながら、彼は幽霊屋敷をひとりで修繕していた。
その話を知ったのは、私が好奇心で彼に話しかけていたからだ。
だって、不思議でしょう?
幽霊屋敷に住む青年なんて。
とても刺激的じゃない?
彼は私が来ても邪険にせずに、会話をしてくれた。
洗練された町並みの中で、彼の屋敷だけ異空間だった。
草木が生い茂り、時の流れが違っていた。
それが不思議と、私には心地よかった。
だけど、引っ越して三年経っても、幽霊屋敷は雨漏りをしていた。
彼はいたずらに時を過ごし、無意味なことを繰り返しているようだった。
あの時の彼は、生きていながら死んでいるように思えた。
そんな彼を見て、私はほっとけなかったのだろう。
放置したら、彼は死ぬ――そんな愛情とは別の危機感みたいなものを抱いて、私は彼に求婚した。
――私、あなたと、この家を気に入ったわ。一緒に住まない?
十八歳の夏の日だった。
強い日差しの中で、私は自分がとびきり美しく見える笑みを口元に浮かべながら、彼を誘った。
――結婚しましょう。私があなたを愛してあげる。
その時の彼、鳩が豆鉄砲を食らった顔をしていた。おかしいわよね。
求婚の話をしてから、結婚まではとんとん拍子に進んだ。私が強引に彼の手をとり、両親に紹介した。
彼が元貴族だと話すと、遺産に目が眩んだ母は手放しに賛成したし、放蕩な弟たちとは仲が悪かったから、何を言われても無視した。
父だけはそうね。
「おまえらしい相手だ」と、言ってくれたわ。
結婚式は簡素で、親しい友人を招いたものだった。
どの友人も「夫よ」と、彼を紹介すると、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。いい思い出ね。
私たちは幽霊屋敷に住みだした。私は雨漏りのする家はごめんこうむりたかったから、大工や業者に依頼して、壁から屋根まですっかりきれいにしてもらった。
そのうちに黄土色の壁はうつくしいグラデーションを描き、焦茶色の切妻屋根は燦々と降り注ぐ太陽の下で輝いていた。どこか懐かしく、落ち着く家になった。
それから私は父のホテルで働き、夫は家でのんびりすることが多かった。
一年後に産まれた息子を夫は溺愛して、息子が私よりも夫になついたのは、ご愛嬌だ。
息子が寄宿学校に通う年齢になると、夫は医療大学へ行き直し、訪問診療や、無料診断をはじめた。
その道に行くことを、私は反対しなかった。
ただ「ありがとう」と患者から言われて、少年のように無邪気にほほ笑む夫が可愛かったからだ。
そんな夫の影響を受けて、息子も医療の道に進んだのは、仕方のないことだろう。
夫は五十歳の時、病気で眠るように逝ってしまった。
結局、夫から愛している――とは言われなかったわね。
私も口にすることは、少なかったけれども。
そんな夫と、自分の人生が頭の中で駆け巡り、私はツンと眉を上げて、夫に近づいた。
「……あなたがいるってことは、私は死んだの?」
夫は困ったように眉を下げ、ゆっくりとうなずいた。
「ここは……天国かしら?」
夫は答えない。困った顔のまま、愛おしそうに私を見つめるだけ。
物静かな夫は、ときおり、こうして私をじっと見る癖があった。
それが「愛している」の言葉の代わりだったと気づいたのは、いつの頃からか。
忘れていた過去がよみがえり、哀愁がこみ上げそうになったけれど、私は大きく息を吐きだした。
今は夫との再会を素直に喜べない。
孫をひとりにしてしまったのだから。
「私はセリアを残して死んだのね……」
私は白塗りのアイアンチェアに腰をかけた。
肺が空っぽになるまで息を吐き、ひたいに左手を置く。
「……セリア、泣いているでしょうね……」
ぽつりと呟き、家を見た。
空っぽの家を見て、もう会えない孫を思う。
孫を置いていってしまった無念さで、溺れそうだった。
「ああっ! なんで、私は死んだのっ!」
耐えきれずに叫び、私は頭を抱えた。
両親を亡くしたあの子が不憫で、誰よりも愛しかった。
あの子は可愛い容姿をしているし、息子に似て正義感も強い。
夫に似て人当たりは良いけれど、男を見る目が非常に悪い。
今のセリアの恋人は、全体的にダメだ。
だけど、私が死んだらセリアが頼るのはあのダメな恋人だろう。
「……あの男と一緒になったら……セリアが不幸になるわ……ああ、こんなことなら、別れさせておくんだった!」
探偵に依頼してダメな男の弱みを握っておくんだった!
そのための人脈とお金が私にはあった。
セリアにダメさをこんこんと説明すれば、彼女も折れてくれたはずだ。
それなのに、私が死んでしまったら、何もできない。
すべてがもう、遅い――。
「……なぜ私は、死んだのかしら……」
嘆きは深く、底なしだった。
いつ、何があってもいいように――。
そう心に決めて、信頼のおける弁護士に色々と頼んである。
彼は若いから、孫の相手に……とも思っていたけれど、その願いも叶わない。
いくら準備をしていても、ああすればよかった、こうすればよかった、と次々に浮かんでくる。
そして、何もできない無力さに打ちのめされた。
セリア、ごめんなさいね……。
うつむく私の前で、夫が跪く。
まるで騎士のように芝生の上に膝をつき、私を見上げる。
その表情は『大丈夫だよ』と言っているようだった。
私はイラっとして立ち上がる。
「あなたは死んでしまったから知らないかもしれませんけどねっ。セリアは本当に可愛らしい子なのよ。孫が不幸になるのを阻止できるなら、化けて出てやりたいぐらいだわ!」
はんっ、と鼻を鳴らすと、夫は両肩をすくめて立ち上がった。
薄い唇が開いて、言葉を発する。
「え……? 私の孫だから大丈夫ですって?」
夫は大きくうなずいた。
――よくある話を見に行こう。
そう言って、夫は私の手を握った。
***
夫に手を引かれ、場面が切り替わる。次に来たのは教会だった。
尖頭アーチの重厚な柱に、ハート型のようなシャンデリアが吊るされている。
正面にあるステンドグラスからは、七色の光が降り注ぎ、訪れる者に祝福の光を浴びせていた。
今は結婚式の最中なのか、神父が祭壇に立ち、オーク素材の長椅子には礼服を着た参列者が立っている。
最前列に従者のジョージと、メイドのマーサがいた。
ジョージは瞳を赤くしながら夫の肖像画を持ち、マーサは涙で顔を濡らしながら、私の肖像画を持っていた。
息子と義娘の肖像画は、彼らの友人たちが持っていた。
驚きながら彼らを見ていると、開かれた教会の扉から新郎、新婦が腕を組みながら入場してきた。
「……セリア……?」
頭からヴェールを被り、白いウエディングドレスを着た孫だった。
隣にいる男性は、弁護士のフィンだった。黒い髪をなでつけ、モーニングコートを着た彼は、うつむく花嫁を気づかいながら深紅の絨毯を歩いていた。
ああ⋯⋯なんてこと⋯⋯。
ふたりの姿は、私が望み、見たかった光景そのものだった。
ふたりが神父の前に立ち、祝福を受け、指輪の交換をする。
向かい合ったふたりは、幸せそうに、はにかんでいた。
パイプオルガンが流れる中、ふたりは手に手をとり、参列者に向かって深く礼をした。
マーサが声を殺して泣き出してしまった。
それに気づいたセリアまで、くしゃりと顔を歪める。
私の肖像画を見て、目を赤くし、泣きそうな顔をした。
それを見て、私はドレスのポケットからハンカチを出していた。
――もう、セリア。こんないい日に泣かないの。
そう言って、目元にハンカチをあててやりたかった。
でも、私が何かする前に、フィンが胸のポケットからチーフを出して、セリアの目元にあてた。
セリアは「ありがとうございます……」とつぶやきながらチーフを受け取り、涙をぬぐう。
そして愛しそうに、幸せそうに私にほほ笑んだ。
セリアの顔は、もう子どもではなかった。
前を向いて生きていこうとする女性の顏だった。
私が見たかったもの。一番、望んでいた光景だ。
それなのに、私は胸の痛みを覚えた。
「……私の手は、もう必要ないのね……」
私はハンカチを握ったまま、静かに手を下ろした。
「あんなに小さかったのに……もう大人なのね……」
今でも感触を思い出す。小さくて柔らかい手のひら。
「淋しいわね……とても、淋しいわ……っ」
この上ないほど幸福なはずなのに、まだ足りない。
叶うならば、もう一度だけ。
あの日々に戻りたい。
忘れがたい思い出が、鮮やかによみがえった。
若葉が背伸びする春。
私の自転車に乗りたくて、少女のセリアは駄々をこねた。昨日買ったばかりの花柄のワンピースを泥だらけにしながら、地面に寝て、足をじたばたさせていた。わんわん泣くセリアに、私は呆れて叱ったけれど、次の休日、野原で自転車の乗り方を教えた。ぐらつく自転車にハラハラしたし、転んで泣きそうな顔をされて心配した。それでも、ひとりで自転車に乗れたときの、あの溌剌とした笑み。
太陽が世界を照らす夏。
セリアと広大なラベンダー畑を見に行った。一面に広がった紫色の絨毯に、かぐわしい香り。風が吹き、揺れる紫をセリアは見続けていた。その大人びいた横顔に時の長さを思った。それは嬉しくもあり、淋しくもあった。このまま時が止まってしまえばいいと思った。
にぎやかな秋。
ジャックオーランタンをセリアと一緒に作った。両手に抱えきれないほど大きなカボチャを用意したけれど、あまりに固くて刃物がなかなか通らなかった。結局できたのは、真顔のジャックオーランタン。その愛想のなさに、私たちはおなかを抱えて笑った。
雪の中を進む冬。
セリアが蒸気機関車を怖がって、私のコートを引っ張りながら、早く帰ろうと言った。私はセリアの手を握りながら、雪道を歩く。どれほど進みずらかろうと、どれほど厳しかろうと、この手だけは離すまいと思いながら。
孫との思い出が息づきはじめた。
どれもかけがえのない記憶だ。
両親を失い、不安そうにぽつんとしていた二歳のセリア。
息子夫婦が買った人形を抱きしめ、今にも消え入りそうだった。
だから私は、この子のために生きる、と決めた。
でも違ったのね。
夫を亡くし、息子夫婦まで亡くした私にはこの子が必要だった。
孤独に震える夜も、この子がいたから乗り越えられた。
私はこの子に生かされていた。
愛する私の家族、だったのだ。
「きれいね……本当に、きれいだわ……」
はらはら涙を流しながら、私はセリアのウエディングドレスを目に焼き付けた。
「うんと幸せになりなさい……」
満たされた気持ちだった。
涙が止まらない私に夫がハンカチを差し出す。
ハンカチには、実に下手なアジサイの刺繍がしてあった。
それは私が縫い、初めて彼にあげたものだ。私、刺繍は苦手よ。
「……まだ持っていたの……?」
今となっては恥ずかしい記憶が露見され、涙が急に引っ込んでしまった。
夫はくすくす笑いながら、ハンカチで私の目元をぬぐった。
されるがままになりながら、目を据わらせる。
「どうも、ありがとう」
夫はまだ笑いながらハンカチを引く。
愛おしそうに見つめる彼を見て、嘆息した。
前を向くと参列者は教会の外に出ていた。
教会を出ると、青い空の下、ライスシャワーを浴びたセリアとフィンがいる。
「おめでとう!」
「おめでとおおおっ!」
みんないい笑顔だった。
幸せがあふれて、空の青に溶けている。
それを見て、私はもう何も思い残すことはないと思った。
「いい人生だったわ。満足よ」
私は夫の方を向く。左指をさしだして、自分が一番美しく見える顔をした。
「次の人生に連れていって頂戴」
その為に彼はここに来たのだろう。
私を迎えに待っていてくれたのだ。
夫は恭しく腰を曲げ、右手を優雅に胸の前に巻き込む。そして、右手で私の手をすくい上げた。
まるで、そう。
あなたのお気に召すままに――と、言われているようだった。
「次も、愛してくれるんでしょう?」
生まれ変わっても、また一緒になる。
よくある話をふたりで、いたしましょう。
夫は目じりを緩やかに下げ、私の手の甲に求愛のキスを落とした。
その瞬間、私たちは光に包まれる。
ハイヒールを鳴らし、軽やかにステップを踏みながら。
私たちは次の人生へと踊りだした。
――Grand Finale