そのままの君でいて
※傷害に対する差別的ととれかねない言動がありますが、肯定していません。
貴族子女が通う広大な学園。
学舎に併設された神殿には、真摯に祈りを捧げる一人の女生徒の姿があった。
その姿は学園の昼休憩の常となっており、事情を知る学生たちの一部は痛ましげに目をそらし、一部は好奇の目を、また一部は侮蔑の目を向けるのだった。
彼女の事情を知るがゆえに、昼休みの真摯な祈りを邪魔する者はいなかった。
静寂の教会に扉の開く音が鳴り、続いて軽い足音が響いた。
「今日もお祈りですの?」
鈴を転がすような少女の声が響くも、祭壇に祈りを捧げる女生徒が動くことはなかった。
「お祈りより先にすべきことがあるのではなくて?
神への祈りで殿下の心は変わりませんわよ」
苛つきを隠し切れない少女の声が神殿に響き反響する。女生徒は動かない。
「お気の毒に」
嘲るように少女が声を出す。それでも女生徒は動かない。
「こんなところで祈っても、殿下の心は戻りませんわ!」
必死さを隠そうともせず言い募る少女の声にも、返る言葉はなかった。
「なぜですの、お姉さま! どうして……」
少女が背後で泣き崩れても、女生徒が振り返ることはない。
すすり泣く声に、予鈴の音が混ざった。
少女は涙を拭いて立ち上がった。
「ごめんなさい、お姉さま。お姉さまのお気持ちを考えていませんでした。私も殿下のお心が戻る様に祈りますわ」
少女が女生徒の隣に跪き、祈りを捧げるために組んだ手に誰かの手が重ねられた。
祈りのために閉じたばかりの目を開けると、彫像のように動かなかった姉の手が優しく自分の手を覆っている。
そして悲しそうに微笑んだ。
「初等部まで送るわ。行きましょう」
翌日の昼。
神殿には女生徒の姿があった。妹はいない。
女生徒は一人、祈り続ける。
脳裏に浮かぶのは、一人の男爵令嬢に侍る貴族令息たちの姿。
その中には女生徒の婚約者である王子もいる。
彼らはいつも、一人の女生徒を囲み、その寵を競い合っていた。
王族である王子を筆頭に、錚々たる貴族家の子息である彼らに向けられる目は厳しい。
婚約者もいる身で、堂々と一人の令嬢を追い回す姿に、見苦しいと目を逸らす者も多かった。
彼らの婚約者には同情も向けられたが、学園の風紀を乱す婚約者を諫められない非力、浮気される魅力のなさをあげつらう言葉もあった。
初等部の妹にまでその噂が届いて、涙を浮かべさせたことを思い出すと、胸が張り裂けそうだ。
あのように多くの殿方が、婚約者がいてもなお、一人の女生徒を囲っている。
常に男爵令嬢に侍る王子たちの周囲には、入れ代わり立ち代わり集団に出入りする男子生徒たちもいる。
子を複数産んだ既婚女性や未亡人が、愛人を侍らせるのとは違う。
貴族社会ではありえない事態だった。
乱交趣味。
王家による婚約者への講義で耳にした、まさに実践例だった。
王子は王家で特別な性教育を受ける。
婚約者である女生徒も受けたのだ、受けていないはずがない。
今の自分達が周囲の学生、教師からどう見られているのか、わからないはずもない。
それでも、将来の貴族家当主や幹部となる学生たちにこの醜態を見せびらかしているのだ。
露出狂。
ふたつの異なる性疾患が彼らを繋いでいるのだろう。
表に出ているふたつだけでもあるまい。知りたくもないが。
その疾患のどれひとつとっても、醜聞となる。
性疾患は貴族には多いと教わったが、それでもその方々は家族に隠して愉しんでいるという。
どれも同好の士だけで隠れて楽しんでくださればよかったのに。
はからずもこの学園で大量の同好の士と出会ってしまったことが、王族、貴族として一生涯隠さなければならないと抑圧されていた欲望に、火を付けてしまったのだろうか。
短期間に出入りをする生徒も含めれば、男爵令嬢に侍る男性は2桁に上る。
ましてや、そのように性欲の強い殿方たち、お相手が男爵令嬢だけともかぎりませんわ。
どこでどなたがどのような何かを拾っていらっしゃることか。
今の状態が好ましい。
殿下に近寄らずにすんで。
エスコートなどされれば触れないわけにはいかないのだから。
粘膜接触でなければほとんどの病は移らないと聞いたが、体が弱っている時ならその限りでもないと釘をさされもした。
接触は少ないに限る。
私が罹患しないとしても、私を介してまだ幼い妹にうつりでもしたら!
私自身もまっぴらだが、妹が不妊になどなったら賠償ごときでは済ませられない。
王家は婚約者に純潔を求める前に、王子に貞節を求めるべきだわ。
むしろ王子の性疾患が結婚前に公になって感謝すべきなのでしょうね。
結婚後に発覚などすれば目も当てられません。
私が病気になることもですが、命がけで産む跡継ぎが不具となることも、それにより継承権を得られないことも、不具の子ができて私のせいにされかねないことも、契約不履行にもほどがある。
後継を産んでこそ政略結婚なのです。健康な子を授けられないなら意味がない。
これは公爵家にとっても同じこと。
王家の外戚になっても健康な男児を産めず、さらに王子の咎の責任まで取らされるのでは、今までの私への投資が無駄になるどころかマイナスです。
まして、私が病を得て子を望めなくなって離縁などとなれば再婚の駒にもできず、負債だけが積み重なる。
ですが相手は王家、こちらから婚約解消はできません。
私から王子を避けることも許されない。
ですが、どなたか一人でも発病すれば、雪崩れるように婚約破棄となるでしょう。
公爵である父も万端準備を整えております。
だからこそ、今の状況が公爵家と私にはありがたいのです。
王子に近寄らず、触れずに済むのですもの。
挨拶もせずとは参りませんが、なるべく接近を減らすに越したことはありません。
目からも口からも飛沫は侵入するのです。最低限の挨拶さえすれば、あとはどれほど嘲られようと俯いて口と目を閉じるだけです。
もちろんお姿が見えなくなれば、早急に消毒しておりますわ。
万が一にもアルコール臭で不興をかってはいけませんので、ノンアルコールの消毒を用意しました。
今はただ、一刻も早くどなたかが発病して、この婚約が流れてほしいと祈るのみです。
王家にも公爵家にも、病持ちの種などいらないのですから。
可愛い妹に説明してあげられないのはつらいわ。
私を心配して泣く妹に事実を教えてあげられないなんて。
それでも閨教育もまだの妹にこんなことを教えるわけにはいかない。私にはそんな特殊な性疾患などないのよ。
公爵家と妹は私が守ってみせるわ。
ああ神様、どうか早く発病しますように。