帰省
夏でもお湯の出ない家だった。風呂は沸くが、シャワーや洗面所のお湯が出ない。二年ぶりに帰った実家では、まだそんな不便なものを使っている。貧しくはない。私のような人間に大学教育まで受けさせ、働き始めてなお、未だに仕送りをしてくれている。大学生になった弟のために、私に送金する分を減らしてもよい、と私から言ったにも関わらず一万円しか減らさなかった。頑固者な夫婦である。特に父は私に貢いでいるといってもいいだろう。私なんぞのために、父は会社での昼食を社内食堂ではなく、コンビニで済ませることも多い、と母は言っていた。そんな涙ぐましい献身に見合うような親孝行な息子にはなれず、ようやく取れた休みで一年半ぶりに一日だけ帰省することぐらいしかできていない。明日には戻って、少しでも仕事を片付けておきたい。そんなことを言えば当然母は無理して帰ってこなくていいというに決まっているので、たまたま時間があったと言って今回は帰ってきた。
母親の中では、いつまでも息子は小学生のままである。帰って来て早々に、手を洗えと言われ、そのまま洗面台に向かって手を洗っているときに、お湯が出ないことをふと思い出したのだ。指先を折り曲げなければ手を洗えない洗面所の冷たい水で手を洗った。そして、私が小さなころから同じところにかけてあるタオルで手を拭いた。それから私の定位置に座ってテレビを見ることにした。ここにはそれしかないが、それだけで非常に充足している。母親が仕事や同僚や休日のことなどをすべて聞いてくるので、少しうんざりする。しかし、答えるのが子供の義務、せめてもの親孝行だから、ちゃんと一つ一つ答える。父はそれを少し離れたところで聞いている。もしかすると聞いていないかもしれない。父はあまり日常の些事に興味を示さない人だ。朴訥な人だが、隠しているだけでとても愛情深い人だ。昔、毎朝早くに出勤する父の後に、たまたま目が覚めて台所に行くと、母が一番初めに見つけるであろう場所に、「結婚〇周年ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。」と書いてある付箋を見つけたことがある。
母は私のことを聞き終わってからは、私の同級生や親戚の現在について教えてくれる。母は結婚などのめでたい話が好きなので、私も友人のそういう話を伝えてあげたいが、いかんせん私の友人なので、やはりまだ結婚しておらず、する気配もないに等しい。申し訳程度に彼らの近況報告や私が同僚と飲みに行った写真などを見せてあげるぐらいしかできない。母は老眼鏡をかけて一つ一つに感想を述べる。母は全く私の同僚の顔を覚えず、毎度毎度同じ人を指さして名前を尋ねる。対照的に父は私の送信した写真のことを事細かに覚えている。母が何度も同じ質問をしているのを見て、それはこの前も聞いていたじゃないかという意の皮肉を言った。多くの自らを皮肉屋と認識する多くの評論家気取りと同じく、大抵は単なる嫌味に終わってしまう。母は非常にそれを嫌っている。私はその会話を聞きながら、窓の外に目をやる。一週間前に私がかけたテレビ通話の時に、二十年は見てきたその窓枠で区切られた庭の風景が母の瞳に映りこんでいるのを思い出した。
USBメモリが必要になったが、わざわざ買うのはもったいないと思い、昔自分が使っていたものが部屋にあったと思ったので、探すことにした。机の左側の小物入れに入れていたはずだ。私の記憶通りの場所にあったので、さっさと下に降りて晩御飯を食べようと思った。しかし、そこで机に飾ってあった思い出深い写真が目に留まった。中学時代に部活対抗リレーに参加した時の写真だ。私は剣道部に所属していた。袴を着ていては当然一位になれるはずもなく、顧問の先生に目立ってくればそれでいいと言われ、四人でゴールすることにした。ただ四人でゴールしても刺激が足りなかった当時の私たちは第一走者がゴールまで走り続け第二第三第四走者と合流してゴールすることにした。第二走者がバトンを受け取ることなく、走り出したときに会場がどっと沸いた。第三第四走者も当然受け取らず、丁度四人でゴールした時の写真だ。上手に切り取られた青春の一場面である。とても懐かしい気持ちになった。こんな温かい思い出たちがもっと私の中に住んでいるはずであるのに、不思議なもので分かりやすい道しるべのようなものがなければ思い出というものは心を訪れてくれないものらしい。
母が晩御飯を作ってくれたのでそれを食べてから帰ることにした。最後に炊き立ての白米を食べたのはいつ頃だろうか。というようなセリフをどこかの映画かドラマか小説かで見たか聞いたかしたことがある。こんな気持ちだろうかと思いながら食べた。だが、よくよく考えてみると、冷凍する用にたくさん炊いた日には食べているなと思い、興が覚めてしまった。何もせず温かいご飯を作って家で待ってくれている人がいるという事実に感動しようと思い直した。
母が不燃ごみの回収が一か月一回になってしまったので不便だと話し始めた。それでは私が持って帰ろう、と提案した。私のマンションは分別さえすればいつ捨てても構わないのだ。それは申し訳ない。一か月待てばいいだけだ、と母は言うが、父は待っても仕方ないので、持って帰ってもらえばいいだろうと早々に結論付けた。
晩御飯も食べ終わり、そろそろ家に帰ろうかという頃に、私がごみ袋を車に積もうとすると母が車の中でもし袋が破けて車を汚してはいけないと袋を二重にした。厳重に包まれたごみ袋を車に乗せ、エンジンをかけた。父も母も二人そろって玄関まで出てきて、手を振ってくれた。私も手を振り返して、出発した。バックミラーに両手を頭の上まで上げて万歳するかのように、大きな円を描くかのように手を振っているのを見てとてもさみしい気持ちになった。いつもはそんなことをする人ではないのだが、こういう時はいつも感情を体全身で表現してくれる優しい父なのだ。
胸にさみしさを抱えたまま、育ってきた街並みを通り過ぎてゆき、だんだんとほとんど知らない、縁もゆかりもなく仕事のために住んでいるだけの街だけへと変わっていくその光景を見ながら、また剣道部の頃のことを思い出した。剣道の稽古では、最後の方に地稽古というものがある。簡単に言ってしまえば試合だ。少し試合と違うのは自分から試合をしたい人の方へ行って、頭を下げてからその人と試合をする。好きな相手と試合ができるのだ。けれども少し特殊な暗黙の了解があって、それはその練習の場で一番強い人、もしくは試合をしたことがない中で一番立場が上の人に頭を下げに言って試合をお願いすることが最良とされている。自分の学校の練習では顧問の先生か一番学年が上の先輩。他校との練習試合では他校の先生。たくさん集まる合同練習では各校の代表が前の方に座らされるので、その人達。面をさっさとつけて走ってその場の一番偉い人に頭を下げに行くのが礼儀であり、代表者は少しゆっくりつけて挑戦者を待つ。私も始めたての一年生の時は我先にと、一番強い人に頭を下げに行ったが、面が緩くすぐとれてしまったので、結局他の人に交代されたこともある。一見意味がないように見えるが、これは美徳とされており、顧問の先生によく挑みに行ったと褒めてもらった覚えがある。しかし、三年生にもなるとそんな健気さはどこかに落としてきて、面をきつく縛るふりなどして他校の一番強い先生と練習すると疲れるので、同学年の友人と相手を組んで軽く流そうと考えていたことがあった。そんなときに他校の一年生が、私のような人間でも前の方に座られているので、一年生の頃の私のようなゆるゆるの面で、お願いしますと、私に頭を下げてきた。私ももうそんな立場になったのかとびっくりして、焦ってお願いしますと言ってしまった。しかし、先輩の余裕を一丁前に持ち合わせていたので、その一年生の面を縛ってあげてから地稽古をした。剣道は中学でやめてしまったが、すぐには思い出せないほどのたくさんの小さな物語があった。
名前を呼んでも出て来ないけれど、他にもたくさんの幸福な思い出が私の中にいて、それらが今も私を支えている。ゴミ袋と私だけの車内でそんなことを考えていたが、この車は月曜日の明日に向かっていて、楽しかった昨日には戻っていかない。それは悲しいことだと思うときもある。しかし、私は挑まれるよりも立ち向かっていく自分が好きだった。勝てるはずのない相手に頭を下げて、ぼろぼろに負けている自分が好きだった。また挑む側になった自分を、また明日も頑張っていこうと鼓舞して、気持ちを引き締めた。