優斗の事情2
教室であくびを噛み殺しながら、優斗は机の上でうつぶせていた。
頭が重く、まるで靄がかかったように思考がままならない。
その原因が寝不足にあるのは分かっていた。思えばここ最近、家ではろくに寝ていない気がする。
そんな状態でいると、急に声をかけられた。
「有馬君、部活行かないの?」
顔を上げると、そこには同じ軽音部に所属している大沢泉がいた。その言葉を聞いて、ようやく今が放課後だと言うのを思い出す。
そんなこともわからなくなっているとは、これはいよいよマズいかもしれない。今夜こそはちゃんと寝ようと思ったが、そんな優斗の様子は、大沢にもしっかり見抜かれていたようだ。
「ねえ、もしかして何かあった? なんだか最近顔色悪いし、疲れてるみたいだけど?」
大沢が心配そうに言う。もしかすると、部活の話はついでで、最初からこっちが目的で声をかけてきたのかもしれない。
疲れているというのは全くその通りで、今だって、倒れ込みそうなくらいの眠気が襲ってきている。
「毎晩練習し過ぎて、寝不足なんだ」
一応、嘘は言っていない。毎晩夜遅くまで練習しているのは本当だ。
だが、両親に関することは一切口にしなかった。
こうなったそもそもの原因が両親の喧嘩にあるというのは、当然優斗もわかっている。最近では、両親が家にいない時でさえも怒鳴り声が聞こえてくるような気がして、それを紛らわすために毎晩ベースの練習にかまけた結果、すっかり寝不足になってしまっていた。
だが、それは決して話さない。話したくない。
しかし大沢は、そんな優斗の言葉に、どこか不穏なものを感じていた。
「本当にそれだけ?」
それが単なる好奇心ではなく、本気で心配しているのだとわかる。だが、優斗の答えはこうだ。
「それだけだよ。文化祭も近いし、つい熱が入るんだ」
泉はその答えに納得しきってはいないようだったが、優斗としては、ここからさらに追及されるのは避けたかった。
「部活には、帰り支度終わったらすぐ向かうから、先に行っててくれ」
「本当に、大丈夫なの?」
「平気だって。眠いってだけで大袈裟だよ」
「そう? それじゃ、待ってるから」
泉は渋々と言った様子で、それでも何とか引き下がってくれた。優斗がこれ以上この話を続けたくないのだと察したのかもしれない。
泉を見送った後、教科書を鞄に詰め終えようやく席を立つ。その時目の前が暗くなり足がもつれた。立ちくらみだ。
だが、それに驚くようなことは無かった。連日の寝不足のせいで最近ではこんなことは何度も起きていて、もうすっかり慣れている。しばらく何もせずに立ったままでいると、思った通りほどなくしてそれは収まった。
泉が行った後で良かったと安堵する。もしまだ彼女ここにいたら、また何があったのかと問い詰められるかもしれない。
泉は、優斗の家が今どんな状況なのか知らないし、教える気もない。
話せばきっと、彼女は気を使ってくれるだろう。心配してくれるだろう。だがそんなものは、優斗は望んでいなかった。
藍の父から家のことを聞かれた時、大丈夫と言ったのと同じだ。軽音部も藤崎家も、自分にとって大切な居場所だった。ただ睡眠と惰性だけで帰るような自宅とはちがう。
そんな大事な場所で、あんな醜い争いの一端だって持ち込みたくない。自分のせいで心配なんてさせたくない。楽しいと思える場所を壊したくない。大事な人達の顔を、ほんの少しだって曇らせたくない。
だから、何があったかなんて言わない。辛いや苦しいなんて、そんなことは絶対に言わない。いや、言えない。
(ダメだな……)
何だか思考がすっかり暗くなっていると自覚し、ふっと溜息をつく。
今自分はどんな表情をしているのだろう。せっかく話さないと決めているのに、暗い顔なんてしていたら、やっぱり何かあったのかと感づかれるかもしれない。もう一人の部員はともかく、泉はそういう所によく気が付く。
あんな両親のことばかり考えているのがいけないんだ。そう思い、もっと楽しい事を考えようとする。
そんなことを思いながら、優斗は本校舎を出て部室棟へと入っていく。
今一番楽しみにしているものといえば、何と言っても間近に迫った文化祭だ。去年は不本意な演奏しかできなかったが、あれから一年たって、少しはマシになったと自負している。今年はもっと、満足できるような演奏にしたい。
文化祭には藍も来ると言っていた。だけど人が多いから、迷子になったりしないかが心配だ。当日は軽音部だけでなくクラスでやる喫茶店だってあるが、上手く時間ができれば案内してやれるかもしれない。それなら、事前に藍が喜びそうな出し物を調べておいた方が良さそうだ。
そうして優斗は、二階へと続く階段へと足をかけた。ここを上がると、すぐに部室につく。
その時、再び目の前が暗くなった。また、いつもの立ちくらみだ。
また、動かず治まるまでやり過ごそうとする。だが今回は、普段のものより少々酷かった。
頭が大きく揺れ、足がもつれる。それでも、立っていられないというほどではない。少々辛くはあったが、何とかこらえきれる。しかしそれは全て、ここが普通の床だったらの話だ。
もつれた足は、運悪く階段を踏み外し彼の体を大きく揺らした。そしてさらに運の悪い事に、それは最上段で起きた出来事だった。
「うわっ!」
短く上げた声は誰にも聞こえることなく、優斗の体は階段を転げ落ちる。あまりに突然のことだったので、痛いと思う余裕は無かった。ただその後、頭に強い衝撃が走った。そしてそれが、優斗が覚えている、生きていた頃の最後の記憶となった。
倒れている彼を最初に見つけたのは、偶然通りかかった生徒だった。その後すぐさま病院に運ばれ治療を受けたが、その後意識が戻ることは無かった。
これが有馬優斗の、あまりに唐突で,あまりに呆気ない最後だった。




