放課後2
優斗から逃げ出し、その途中階段から落ちそうになった藍。だが結果から言うと、彼女は無事だった。気が付くと壁に手をついて、自らの体を支えていたのだ。
何とか助かったとはいえ、あのまま階段から落ちていたかと思うと、ヒヤリとする。無傷で済んだのが嘘のようだ。
壁に手をついた瞬間は覚えているが、あんなとっさに動けたことに、自分自身驚いている。体が勝手に動いた、なんて表現があるが、さっきの動きはまさにそれがピッタリだ。いや、その感覚は今だって続いていた。自分の体だと言うのに、なぜか思うように動いてくれない。
その時、優斗の声がした。
「藍、大丈夫? 怪我は無い?」
(う……うん)
その心配そうな声を聞いて、さっきまで逃げていたのも忘れて返事をする。だが、すぐにおかしなことに気付いた。
声を出そうとしていたはずなのに、口はちっとも動いてくれない。だけど言おうとしていた言葉は、耳ではなく直接頭の中に響いた。優斗の声も同じで、まるでテレパシーのように、頭の中に流れ込んでいる。
自由のきかない体に、頭の中に響く声。それに、おかしな点はまだあった。
優斗の姿が、どこにも見えないのだ。
辺りを見回して探したいところだが、依然として体の自由がきかないままだ。仕方なく、もう一度呼びかけてみる。
(ユウくん、どこにいるの?)
相変わらず口は動かせず、代わりに頭の中にだけ声が響く。それでも、その声は優斗に届いているようで、どこからか返事が返ってくる。
「えっと……俺もよく分からないけど、たぶん藍の中?」
(へっ?)
その言葉の意味が分からず、間の抜けた声を上げる。だがその時、藍の体をすり抜け、弾かれるように優斗が飛び出してきた。
「きゃっ!」
すると今度はちゃんと口が動き、ちゃんとした声を発することが出来た。同時に、これまで失われていた体の自由が戻ってくる。
「な、何が起きたの?」
ペタリとその場に座り込み、再び姿を現した優斗を見る。
どこにいるかと言う問いに、藍の中という答えが返ってきたが、どうやらそれは、そのままの意味だったようだ。
物をすり抜けられるという幽霊の特性からいえば、決して不可能な事ではないが、あまりにも予想外。さらに、同時に起きた、他の様々な不思議な現象。
いったいどういうことなのか、理解が全く追い付かない。
だがそんな疑問を考えるより先に、優斗が顔色を変えて詰め寄ってきた。
「本当に、どこも怪我してないか? どこかにぶつけたりとかもない?」
優斗にとっては、さっきの不思議な出来事よりも、藍の安否の方がずっと気になっているようだ。酷く心配した様子で、何度も何度も聞いてくる。
「大袈裟だよ。階段から落ちそうになっただけじゃない」
ついそう言って、だけどすぐにハッとする。
階段から落ちた。それが原因で、優斗は亡くなったんだ。しかもその現場は、まさにこの場所。
当時の事を思い出さないわけがない。
「……ごめんなさい」
無神経なことを言ったのと、心配をかけたこと、その両方に謝る。だが優斗は、もう一度藍に怪我が無い事を確認すると、途端にホッとしたようにその表情を和らげた。
「いいんだ。怪我が無くて良かった」
その安堵した様子を見て、改めて心配をかけていたんだと理解する。申し訳なく思いながらも、一度間を置いたことで、再び焦りが出てきた。そもそも自分は優斗から逃げようとしていたんだ。
正直今だって、これから優斗に何を言ったら良いのかわからず、困ってしまう。
「なあ。俺と、話をしてくれないか?」
優斗の言葉に、思わず身を固くする。
聞くのが怖い。だけどこの状況で再び逃げ出すわけにはいかなかった。そんな事をしたら、せっかく安心した優斗をまた不安にさせてしまう。そう思うと、足に力が入らなかった。
黙ったままでいるのを、あるいは逃げ出さなくなったのを、優斗は肯定と受け取ったようだ。
「もしかして、俺の家の事情って、知ってる?」
「それは……」
優斗の質問は、藍の予想していた通りのものだった。それでいて、怖くて触れるのを避けていたものだった。
怖かっているのは藍だけではない。答を待つ優斗の顔には、いつの間にか不安と緊張が戻っていて、手は微かに震えていた。
それを見て、藍は答えるのを躊躇する。果たして言ってもいいものかと迷い、だが結局は、真実を告げた。
「……知ってる」
その瞬間、まるで時が止まったような気がした。
たったそれだけのことを、言葉にするのが怖かった。もしかしたら、この一言が優斗を傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、体が震えた。
だがそれを聞いた優斗の反応は、藍の想像していた以上だった。顏には明らかに悲しみの色が広がり、その場でがっくりと肩を落とした。
「そっか……知ってたのか……」
小さく悲しげな声が、辺りに響く。その落ち込み方ときたら、見ているこっちが痛々しくなるくらいだった。
「藍には、知られたくなかったな」
沈んだ声を聞きながら、揺れる瞳を見つめながら、藍は自分が答えを間違っていたのかもしれないと思った。
優斗の家が抱えていた事情。
藍がそれを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、優斗が亡くなるより少し前に起こっていた出来事だった。
それは彼の立場からすると決して人には聞かせたくないものだっただろう。そして多分、これこそが昨夜言っていた、『誰かを好きになるってのがよくわからない』という言葉の理由なのだろう。




