小学生編3
優斗に手を引かれながら、二人は藍の家に到着する。
「ねえユウくん、今日もうちに晩御飯食べにくるんでしょ」
「ああ、お邪魔させてもらうよ」
藍の家は、家族で喫茶店兼食堂をやっていて、優斗はそこで夕食を取るというのがほとんど日課になっていた。彼の家には母親がおらず、父親も毎日帰ってくるのが遅い。そのため、優斗には食費としてそれなりの額のお金が渡されていた。
「ただいまー」
藍はそう言って、店の入り口にある戸を開く。この家は住居と店とがくっついたような構造をしていて、普段家に帰る時は住居スペースの方にある玄関を使うようにと言われている。だけど今日はお客さんである優斗も一緒なので、店側の入り口から入ることにした。
「お帰り。ユウくんもいらっしゃい」
二人を出迎えたのは、この店の店長である藍のお父さんだ。優斗のことも、単なるお客さんとしてだけではなく、近所に住んでいる子として小さい頃から見知った仲だった。
「お邪魔します。今日もよろしくお願いします」
優斗がここで毎日食事をとるようになってずいぶん経つが、今となってはいちいちメニューを見て注文することはなく、その内容は全てお任せしている。自分でメニューを指定して頼むより、こっちの方が栄養のバランスを考えた食事が取れるからだ。
こんな事ができるのも、ここが個人経営の飲食店であり、尚且つ顔見知りでお互いに気心の知れた間柄だからこそだ。
「どうする、今すぐ食べるかい?」
外も随分と暗くなってきていて、もう食事時と言っていい時間だ。だけど優斗がうなずく前に、藍がそばに寄ってきて言った。
「ねえユウくん。算数の宿題で分からない所があるから、教えてほしいの」
「ああ、いいよ」
今からを食事をとろうと思っていた優斗だが、それを聞いて、すぐに予定を変更する。
「おじさん。すみませんが、食事は後でも良いですか?」
「もちろんだよ。こっちこそ、いつも藍の面倒を見てもらって悪いね」
こうして優斗は、食事の前に藍の宿題を見る事となった。持っていた鞄と楽器のケースを抱えながら、住居スペースへ、そして藍の部屋へと移動する。
「ここ。ここが分からないの」
宿題のプリントを広げながら藍が言う。藍の成績は決して悪い方ではないが、算数は一番の苦手科目だ。
「どれどれ……」
優斗は、机に置かれたプリントを覗き込む。藍が宿題につまずいた時真っ先に頼るのは、お父さんでもお母さんでもなく優斗だった。
その理由は、単純に、優斗に教えてもらった方が楽しいから。それに、その方がしっかり覚えられるような気がした。
「ここは、こうすればいいんだよ。やってみて」
「うん」
優斗はいつも、すぐに答えを教えてくれたりはしなかった。そのかわり、どうすれば藍が分かってくれるか考え、時に言葉や表現を変えながら、解き方のコツを教えてくれた。
普段は苦手で、あまり好きではない算数も、優斗に教えてもらっている間だけは嫌じゃない。最後の問題を解いてしまうのが、勿体ないとさえ思ってしまう。
だけど全部が終わった時に褒めてもらえるのも、またとても楽しい瞬間だった。
「これで全部終わり。よく頑張ったな」
今日も優斗はそう言って、藍の頭を撫でてくれた。藍はとろけるように顔を緩ませご満悦だ。
宿題が終わったところで、藍は部屋の隅に置かれた優斗の荷物に目を向ける。学校指定の通学鞄。そして、楽器の入った黒いケースだ。
確か中身は、ベースという、ギターの仲間みたいなやつだった。
優斗が音楽に興味を持ち始めたのは、高校生になってからのことだった。今では、学校で軽音部という所に入っているらしい。
「どうした、これに興味があるのか?」
藍の視線に気づいた優斗は、ケースへと手を伸ばす。
「最近ユウくんが帰ってくるのが遅いのって、毎日学校で練習してるからなんだよね
」
少し前まで、優斗が帰ってくる時間はもう少し早かった。だけどここしばらくの間は、明らかにそれまでよりも遅くなっている。
「そうだよ。もうすぐ学校で文化祭って言うのがあって、みんなの前で演奏するんだ。だから、その練習」
文化祭が何なのかは藍も知っている。優斗たち高校生のやる、お祭りみたいなものだ。小学生である藍も、その日は高校の中に入って色々と見て回ることができた。去年だって、優斗がステージの上で演奏するのを見に行っていた。
「去年のユウくん、とってもカッコ良かったよ」
藍は心からそう思ったのだけど、それを聞いた優斗は、少しだけ苦笑いを浮かべる。
「去年は始めてからそんなに時間が経っていなかったから、まだまだ下手だったんだよ。だから今年はもう少し上手に弾けるようにしたくて、練習している最中だよ」
どうやら去年の演奏は、優斗にとって不満があったみたいだ。
藍からすれば、十分上手かったと思うのだが、優斗がそう言うのなら、精一杯頑張ってほしかった。
「練習、頑張ってね」
「ああ、ありがとな」
藍は応援しながら、なんだか今すぐにでも、優斗の弾くベースを聞いてみたくなった。
だから、試しにこう聞いてみる。
「ねえユウくん、弾いてほしい曲があるの。『鱚よりも速く』の歌って弾ける?」
甘えるように言ったのは、好きなアニメのタイトルだ。
魚の鱚よりも速く泳ぐのを目指すという水泳アニメなのだが、優斗にも何度も話しているし、どんな歌かは知ってるはずだ。
だけど優斗は、少し困った顔をする。
「練習しないと今すぐには無理かな。それにな──」
優斗はそこで一度言葉を切ると、楽器の入った黒いケースを開く。中から出てきたのは、ケースの色とは対照的な、真っ白なベースだった。
「楽器ってのは、それぞれ出せる音が違ってて、ベースじゃどうしても音域が低めになるからな。元の曲のままだと、出せない音があるかもしれない」
優斗が説明するが、ベースはもちろん、それ以外の楽器もやったことのない藍には、よく分からない。
ただ、無理っぽいというのだけは、なんとなく理解できた。
「じゃあ、『鱚よりも速く』は弾けないの?」
そう言った藍の表情は、実にしょんぼりとしていた。
どうしても聞きたい、なんてワガママこそ言わないが、残念がっているのは優斗にもよくわかる。
優斗は少しの間、困ったように悩んでいたが、やがてうーんと唸った後にこう言った。
「わかった。『鱚よりも速く』の曲だな、なんとかやってみるよ」
「ホント⁉」
その言葉を聞いたとたん、一気に藍の顔が明るくなる。
「ああ。だけど弾けるようになるまでちょっと時間が掛かりそうなんだ」
「それってどれくらい?」
「うーん。文化祭か、もしかしたらそれより後になるかもしれない。それまで待っていられるか?」
優斗の言う文化祭までは、まだ少し日にちがある。それより後かもしれないとなると、思っていたよりもだいぶ時間がかかりそうだ。
しかしそれでも、優斗が弾くと言ってくれるのなら、いくらだって待てる気がした。
「うん、待つ。だから、絶対弾けるようになってね」
「ああ、約束だ」
これは藍の知らない事だけど、優斗がこの約束を叶えるのは、決して容易では無かった。
本来独奏楽器でないベースだけで一つの曲を弾こうとすると、まずそれに合わせて編曲をするところから始めなくてはいけない。なのに彼がこんな約束をしたのは、単純に、藍のお願いを聞いてやりたかったからだ。
藍が優斗の事をお兄ちゃんのように慕っているのと同じく、優斗もまた、普段から自分に懐いてくる藍を、妹のように可愛がっていた。それはもう、溺愛してると言っていい。
そんな可愛い妹分からの頼みとなると、断れるはずがなかったのだ。
しかし、この約束が果たされることはなかった。
これからわずか数日後。優斗に二度と会えなくなるとは、藍は夢にも思っていなかった。