付き合わなかった理由1
その日の夜。藍は自室で宿題をやっていた。
高校に入ったとはいえ、一気に問題のレベルが上がるわけじゃない。しかし今やっているのは最も苦手としている数学で、なかなか思うように苦戦している。いや、苦手かどうか以前に、うまく問題に集中できていなかった。
(ユウくん、告白されたことあるんだ。カッコいいし、好きになる人がいてもおかしくないか。しかも何度かって言ってたから、相手は一人じゃないんだよね。全部断ったって言ってたけど、どうしてだろう? 一人くらい、付き合ってみようって人いなかったのかな? まあ、いても困るけど。もしかして、誰か他に好きな人がいて、だからみんな断ったんじゃ……)
学校でこの話を聞いてからずっと気になっていたが、優斗にはまだ何も言っていない。聞いていいかどうかわからないし、答えを聞くのが怖い気もする。
だけどこんなにも気になるなら、やっぱり思い切って聞いた方がいいだろうか?
もはや藍の頭の中は、数学でなく優斗のことでいっぱいだった。
「どこかわからない所でもあるのか?」
「ひゃあ!」
そんな状態でいるところをいきなり本人に声をかけられたのだから、驚くのも無理はない。今まで優斗は、宿題の邪魔にならないよう押し入れの中に引っ込んでいたのだから、全くの不意打ちだったというのも大きい。
「ごめん、脅かした?ずいぶん唸ってたから、よほど苦手な問題があったのかなって思って」
「私、そんなに唸ってた?」
「けっこう。押し入れの中でも聞こえるくらい」
「~~~~っ!」
恥ずかしくなって、思わず顔を覆う。そんなになってたなんて、全然自覚が無かった。
「わからない所があるのは悪い事じゃないよ。これからゆっくり解き方を覚えていけばいいんだから」
宿題で悩んでると思っている優斗は、優しく諭すように言う。本当は全然違うところで悩んでたのに、何だか申し訳ない。
それでも、話を合わせるため、適当な問題を指さす。
「これ。これがどうしても分からないの」
「ああこれか。教えてやろうか?」
「いいの?」
「どうせやること無いし、別に構わないよ」
実際考えていたのはほとんど優斗のことだが、宿題がなかなか終わらずに苦労していたのも事実だ。ここは素直に頼ることにする。
「お願いします」
「わかった。じゃあまずはここだけど……」
優斗は問題を覗き込みながら、一つ一つ解説していく。教えると言っても、それは答えではなく解き方だ。藍の目線に立って、どうして分からないのか、どうやったら分かるようになるのかまで、ちゃんと考えてくれている。
答えだけを伝えるよりも時間がかかるが、その方がちゃんと藍の力になる。そういうスタンスは、藍が小学生だった頃と変わらない。
優斗が教えてくれるのならと、藍が張り切るのもまた変わっていなかった。
「よく頑張ったな」
全ての問題が終わりシャープペンを置くと、優斗はニッコリ笑って、触れられない手で頭を撫でる仕草をする。勉強を教えてもらった時、優斗は最後、いつもこうしてくれていた。
「ユウくん、私ももう子供じゃないんだから」
「ごめんごめん。つい癖になってるみたいだ」
頭を撫でられるのは正直今でも嬉しいけど、こうもアッサリやられるのは、なんだか子ども扱いされているみたいだ。
優斗だって藍が成長したのは分かっているだろうが、染みついた感覚は、なかなか消えてくれない。
「それにしても、藍の解く問題も難しくなったな。もう少ししたら、俺が教えるのも無理になるかも」
優斗がポツリと漏らしたその言葉には、どこか寂しさが漂っていた。
前に藍が教えてもらっていたのは、当然小学校で習う内容で、学年で言えば優斗よりも七つも下がる。だけど今は、たったの一学年差。問題のレベル差もずいぶんと縮まり、あと一年と少ししたら、追い付いてしまう。
そんなことを考えると、やはりここにいる優斗は幽霊で、重ねた時の流れが違うのだと改めて思い知らされた気がした。
「昼間は暇だし、授業でも聞いておくかな」
優斗は冗談っぽく言うが、藍は切ない気持ちになる。そもそも優斗は、そんな長い間この世にいられるのだろうか。成仏する方法なんてわからないが、それだけに、もしかしたら明日消えてしまわないとも限らない。
そう思うとなんだか焦りが出てくる。今のうちにもっと話をしておきたくなる。
話したいことも話せないまま、突然の別れなんてもう嫌だった。
「ねえユウくん、聞いても良い?」
「なに?他にも分からないところがあるのか?」
「違うの。学校で大沢先生が言ってたことなんだけど……」
話したいことなんて沢山あるし、きっと一日中語っても尽きることは無い。だけど、今一番聞きたいのはやっぱりこれだった。
「告白されたのに、どうして誰とも付き合わなかったの?」
その瞬間、優斗は困ったような顔をする。
それを見た藍は、やはり軽々しく聞くべきではなかったかもと、早くも後悔し始めた。
「その話、気になる?」
「ううん、どうしてかなって、少し気になっただけで……ごめんね、変なこと聞いて」
出来ればさっきの発言を取り消したかったが、一度言ってしまったことを無かったことにはできない。
「いいよ、話しても。でも、きっと聞いてもつまらないと思うけど、それでも聞きたい?」
それを聞いて迷う。意外にもすんなり教えてくれそうなのに驚いたが、それにしては、さっき一瞬見せた困った表情が気になった。
しかし、だからこそよけいに聞きたい。どうしてそんな顔をしたのか、知りたかった。
「……うん」
躊躇いがちに、それでも小さく頷く。それを見て優斗は、一息ついてから話し始めた。
「わかった。って言って、も大した話じゃないんだけどな。特別その子達とは付き合いたいって思えなかった。それだけなんだ」
「でもそれって、一人じゃないんだよね。誰ともなの?」
「ああ。相手がどんな人かっていうより、俺自身の問題だよ。そういう風に思ってくれたのは嬉しかったけど、それ以上の気持ちにはなれなかった」
優斗は特に感情を見せること無く、淡々と語る。だけどそれを聞いた藍は不安を覚えた。
それ以上の気持ちになれない。その言葉を受けて、何だか胸がザワザワする。相変わらず、優斗の表情に特別な色は見えないが、これ以上聞いてもいいものか迷う。
だが、一度始めた話は、簡単にはストップをかけられない。
「じゃあ、どんな子なら付き合いたいって思うの?」
藍が再び尋ねた時、それまで変わらなかった優斗の表情が、わずかに揺ぐのがわかった。
「そもそも、恋人が欲しいとか思ったことは無いんだ。もし付き合ったとしても、いつかは別れるかもしれないって、つい考えるんだ。というわけで、誰かを好きになるってのがよくわからない。な、大したはなしじゃないだろ」
優斗の話は言葉だけを聞くと、ただ恋愛に無関心なだけのようにも思える。
だけど藍はそれを聞いて、僅かに見せる表情の変化を捉えて、決してそれだけではない何かを察した。
優斗がなぜそんな考えを持つようになったか、その理由を、おそらく藍は知っていた。
(これ、聞いちゃダメなやつだ)
そう思うと同時に、改めて、迂闊にこんな話を持ち出すのではなかったと後悔する。
一見すると、気にする素振りもなく話してくれている。だがこれは、軽々しく触れちゃいけないものだった。
「何だか、藍相手にこんな話をするのは恥ずかしいな。……藍?」
いつの間にか、藍は小さく俯いていた。それを見て優斗は不思議そうに声をかける。
「……ごめんなさい」
「なにが?」
優斗はどうして藍が謝るのか分かっていないようだ。
「だって、急に変なこと聞いちゃって……」
「何だ、そんなこと? 別にいいよ、これくらい」
笑って言う優斗には、その言葉通り気を悪くした様子は見られない。だがもしかしたら本人は気付いていないのかもしれない。静かに語っていた中で、時々悲しそうな表情を浮かべていたことに。
「本当に、誰かと付き合いたいとか、そういう風に思ったこと無いの?」
謝っておきながら、それでももう一度、念を押すように尋ねる。
「無いかな。なぜかって聞かれても困るけど、そんな形で誰かを好きになるって言うのがよく分からないんだ。もしかしたら、俺は人より冷めたいのかもな」
薄っすらと笑いながら、冗談めかして言う。だが、その瞳は微かに揺れていた。笑っているはずのその顔が、ちっとも楽しそうとは思えなかった。
そんな優斗を見て、胸の奥がチクリと傷んだ。そして、気が付くと叫んでいた。
「そんなこと無い! ユウくん冷たくなんかない」
それがあまりに唐突だったものだから、優斗は思わず目を丸くしている。
それでも、言わずにはいられなかった。自身を冷たいと言った、彼の言葉を否定したかった。
「ねえ、私でもだめ?」
どうしてだろう。気が付くとそんなことを言っていた。
なぜこれを今この場で言ったのか、それは藍自身にも分からない。たが今の優斗を見ていると、優斗の抱えていたものを思うと、いても立ってもいられなくなって、勝手に言葉が出てきた。
「私がユウくんのことを好きって言っても、ダメ?」




