知るも 知らぬも 知らせぬも
星野は名古屋の繁華街、新栄に用事があり、そのついでに大学に顔を出し、東洋史の講義に出席した。出席の理由を冷静に考えると、星野は大学生活が暗いものに感じられた。そして、志望した大学でもないからという言い訳で、後ろめたさを覆い隠した。
東洋史の年配の小原教授は、中学校や高校時代の倍ほどの大きさの教室にもかかわらず、マイクを使わず話をする。少し後ろの席になると非常に聞きづらい。そのため面白くもない話に耳を傍立てて聞かないといけない。もしかすると、それが小原教授の意図かもしれない。諦めて聞かないという選択もあるが、聞かないなら出席する必要はないという問答も生ずる。
講義が始まって10分ほどたった頃には、昨夜の夜更かしも手伝って、どう我慢しても、意識が朦朧として、自然と目が塞がってくる。星野はなんとか意識を保とうと、顔を叩いたり、太股をつねったりと、あらゆる手段を尽くして葛藤した。最近運動不足でお腹にまた肉が付いたことに気が付いた。ダイエットしなくてはモテない。
「お前、あいつ知っちょうか」
講義が中盤に差し掛かった頃、うつらうつらとする星野に、青島が右隣から話し掛けてきた。
「えっ。どいつや」
星野は直感的に面白そうだと感じて目が覚めた。こういうときの青島の話は聞くに値することを経験上知っていた。
「ほらぁ、あの一番前の中央に座って、如何にも聞いてますっていう風にしちょる奴」
星野は細い目を見開いて、机から身を乗り出して見た。階段教室の後ろの席に座っていると、教室全体のことが良く分かった。
青島は東洋史の講義に顔を出しているうち、座席の最前列に決まって同じ5人組みが陣取っていることに気が付いた。良く見ていると小原教授は彼らに向かって話し、彼らもそれに応えるように頷いている。まるでアイドルと熱心なファンのようだ。怠惰な空気が漂う教室の中で、その一角だけ異色な熱い時間が流れている。とても我が八事大学の講義には思えない。青島は彼らを皮肉を込めて「うなずきくん」と呼んだ。
「ああ、あの頭をちょこっと坊主にした奴ね」
星野は何度も頷いた。
「そう、そう。あいつ知っちょる。講義が終わってから絶対に、先生の所に質問に行くっていうの」
「いんや。そうなの」
ちょっと驚いたように、星野は青島の顔を見た。
「しかも、どの講義でもだよ。どう思う」
「すごいな」
「それだけ?」
「お前も、あの横に座らしてもらって、一緒に質問に行ったらどうや」
と、星野が面倒くさそうに言うと、青島は明らかに不機嫌な顔になって星野を見た。
「馬鹿たれ。もっと、気持ち悪いとか、変な奴とか思わないわけ」
「そう言われてみたらそうやな」
星野は右手の甲で不快な右目の瞼をこすった。
「そうでしょ。いつも一番前に座って、講義が終わったらなんか知らんけど質問に行って、それが正常な人間に思える?」
「思わんけど。ま、人好き好きやないの」
星野は青島の話しが期待はずれだったことで、また眠気に捕われそうになった。
青島は拗ねた顔でソッポを向いて「まぁ。お前はそういう人間だけんな。いい、いい」と言って、それっきり黙り込んだ。
「お前、あいつになんか恨みでもあるんかや」
星野は不審に思って青島に訊いた。横で不機嫌な顔をされているのは居心地がいいものではない。すると青島の奥で隠れていた成宮が、亀のように顔を突き出した。
「青島さ、前にあいつに中国語の小テストの範囲を尋ねに行ってさ、素っ気ない返事をされたもんで、根に持ってるんだらぁ」
と、成宮が事情を説明すると、青島はバツが悪そうにうつむいて苦笑いをした。
「なんや。それはお前の逆恨みやないか」
と、星野は青島を叱るように言った。
「うるさい。もういい」
と言って、青島は頬を膨らませてすねた顔をした。
星野は青島の様子を見て、とても愉快に感じて思わず吹き出した。一番奥に座る純一、成宮までもがつられて笑いだした。すると、膨れ面をしていた青島も肩を震わせ、照れを隠すように一緒になって笑い始めた。
講義が終わった後、坊主頭の「うなずき君」は、青島の予言通りに、手にテキストを持って教壇の小原教授の元へ急いだ。
エアコンの風に乗って、南国の果実のような甘い匂いが漂ってきた。
「芝田です。市立大学に行っています」
「合田です。名古屋大学に行っています」
「すごい」
キーの高い大きなどよめきが起こった。高校時代の親友の芝田が企画した合コンには、まずまずの合格点が挙げられる名古屋の名門女子大学の女の子が5人集められていた。
「素、お前の番だよ」
星野の右にいる石井が、左の肩で何度かこついた
「岐阜から来ました星野です。八事大学です」
「八事大学。友達も行ってるよ。なんかスポーツやってるの」
星野の正面に座る小柄な彩香が言った。私立八事大学はスポーツの名門大学であることが頭にあるらしい。。
「いんや」
知性を感じさせようと、コンタクトレンズをやめ今日は高級ブランドの黒縁の眼鏡を掛けているのに、その質問はちょっと心外だ。
「こいつさ、体は大きいけどスポーツはからっきしだめなんよ。とくに水泳はだめ。泳げないんやて」と芝田が口を挟んだ。
「そう。八事大学なのにね」
笑いが起こった。星野は席を立ってその場を立ち去りたい気持ちを堪えた。
「N大学の石井です」
N大学は名古屋の私学のトップを自負するキリスト系の大学だ。
星野は進学校にいた自分を嘆いた。しばらく忘れていた挫折を思い出した。
今回の合コンで星野が俄然乗り気になったのは、和風のあっさりした顔立ちに、黒髪で清涼感がある麻子というタイプの子がいたからだ。
「名古屋大学でなに勉強してるの」
と、髪の長いお嬢様風の子が合田に訊いた。
「法律。弁護士になろうと思ってさ」
「すごい」
女子からまた大きな歓声が起った。押され気味の星野は自分にブランドがないことを、靴底で顔をねじられるような痛みで感じた。
合田は広い名古屋大学のキャンパスでのエピソードを、長々と自慢たらしく話し出した。女子が興味深げに聞いている横で、男子はつまみを減らして自分の機会を伺った。
「石井さんは何勉強してるの」
と、お河童頭の快活そうな子が訊いた。
「同じく法律。でも俺は公務員をめざしてる」
「国家公務員?」
麻子が訊いた
「いや。まさか。名古屋市の地方公務員」
「それでもすごいね」
「あっ、おれも岐阜の公務員」
星野は横から会話に割って入った。思わず心の奥に秘めた闘志を公にした。仲間の驚いた顔が目に入った。まだ諦めないのかと言いたげな覚めた目だ。
星野は今回の合コンで、芝田や合田のすでに得たものを、まだ追い求めなくてはいけない自分を知った。大学に入ってしばらく忘れていた闘志を思い起こさせた。それはひたすら上だけを目指すものだ。人を押し退け掻き分けながら上を目指す、岐阜の田舎のお坊ちゃん育ちの星野には辛く苦手なものであった。
2次会は石井の知っているオカマバーになだれ込んだ。大学現役合格組の石井は、遊びでは浪人組の星野の一歩先を行っていた。星野にとってオカマバーは初めての経験だった。星野はどうせ高いお金を払うなら、本物の女性のいる店で使いたいと思った。
ミラーボールが時折尖った光を投げかける、やや照明が落とされた20畳ほどの密室で、女子たちは男子たちをそっちのけで歓声をあげている。
「あなた、色白ね。今度ご飯行きましょう」
星野は壁際の長いソファーにいた。隣に座る店のママが星野を観察するように身を乗り出して言った。
星野は苦笑いして「機会があったらね」と答えた。大人に近づくにつれ、心から笑えることが少なくなったように思う。
「約束よ」
と、ママは星野が気乗りしているのかどうかもお構いなしに言った。
「この前お客さんに新栄にできたイタ飯屋さんに連れて行ってもらったの。美味しかったの。今度そこに行きましょう」
と、ママは星野にすり寄ってきた。星野は少し恐れを感じた。ママはそんな感じに客とスキンシップを図りながらも、店内の目配りは欠かさず、何か用事を見つけたように会話の途中で席を立った。星野は少し安堵した。このままだったら次の約束を決めさせられそうだった。
代わりに星野の右隣に座った「マリ」という名のチーママは、濃い化粧と女装をしているが、背が高く、骨格の大きさから星野は男性を感じた。ママはやや小顔なだけまだ女性を感じる。
「水割りは、濃いめ、薄いめ」
と、マリが星野に聞いた。
「薄いめで。俺あまり飲めないんだって」
上品な手つきと物腰で、マリはグラスに氷とブランデーを注ぎながら「私は男ができたら尽くすタイプなの。どんなに忙しくても晩御飯を作ってから仕事に出て行くし、朝は朝食を作って見送ってから寝るの」と言った。
「すごいでしょこの子。尊敬するわ。私とはぜんぜん違うわ。私なら、疲れてたらほったらかしして寝るわ。私は尽くされたい方」
と、テーブルを挟んで星野の右斜め前に座った、用事を終えてきたママが、マリを称えた。
「この子、男ができたらとにかく尽くすの」
「そう。もうその人のことしか頭になくって。とにかくなんでもしてあげようと思うの。どんなに仕事で疲れていても必ずご飯は作るし。身体も揉んであげるし。とにかく尽くしたいの。相手からすると、なんかそれが鬱とうしいらしいんだけど。それでよく逃げられるの」
と自虐して、マリは笑った。
「それがすごいわ。私なんかもうそれは絶対にできないわ」
と、ママは感心して言った。
「昔、九州からこっちに仕事で来ていた人と同棲していたの。朝昼晩は栄養を考えた料理を作ってあげて、服は洗濯して、アイロンあててあげたし、いろいろ気を使ってあげたのよ。でもその人、九州に妻子があって、そっちに帰ることになったとき、私、駅まで見送りに行ったの。その時、お土産と九州までの切符と、帰ってくるお金もあげたの。もう帰ってこないと分かっているのによ。バカでしょ」
と、星野に話すと、マリはまた自虐的に笑った。
星野は心外にも心が打たれた。映画のラストシーンのようなセピア色の駅の情景が頭に浮かんだ。列車は「のぞみ」ではない、不器用に角張った、自ら窓の開けられる古い茶色の客車だ。ピュアな心がある女だ。しかも今では日本遺産に認定しても良いような和の女だ。はたして斜め前で騒いでいる女子大生たちはどうだろうかと思った。
「どうやって、男と出会うんね」
と、星野は訊いた。
「女装してね、ポルノ映画館に行くの。そこに来ている男の横に座って、こうやって膝に手を置くの」
と言って、マリは星野の右膝に左手を置いた。ズボンを通してマリの手の温もりが伝わってきた。
星野はその手の映画館には行ったことがなかった。そのような処に女装の男がいたとしたら、欲したくなるものだろうか。性欲が高まると男と女の見境がつかなくなるのだろうか。星野には解釈しがたかった。
「私、本名を誠司っていうのね」
と、突然マリが言った。星野は立派な男の名前だと思った。
「あるとき、いつものように映画館で男の横に座って、膝に手を置いたのね」
星野は頷いた。
「そしたら、手を振り払われたの。それでまた手を置いたの。そしたらまた手を払うのよ。」
星野は失恋の話かと思った。
「そしたらその男、なんかぶつぶつ言ってるの」
と、マリは星野の顔を見た。
「なんだろうと思ったけど、気にせずまた手を置いたの」
星野はその熱意に感心した。
「よく聞いたら『誠司やめろ。誠司やめろ』って言ってるの。なんで名前知ってるのかなと、不思議に思って顔を見たら、私の叔父さんなの。もうびっくりしちゃって。なんで私って分ったのかなって思って。映画館て暗いじゃない。しかも私こんな風に女装して、化粧もしてるのによ」
星野もびっくりした。人生二十年で知った世の中の広さと不思議さをもってしても、不可思議なことに思われた。
この手の店は若い女性に人気らしい。唯一の他の客の若い女性が帰ると、そこについていた「ちひろ」と言う名のホステスがやって来て、星野の正面にいる石井の左隣に座った。
「でらべっぴんだがね」
と、石井は叫んだ。
星野は目を疑った。背中の中ほどまでの長い髪を持つそのホステスは、本物の女性にしか見えなかった。左目じり下のホクロが女の色気を醸し出している。
星野の水割りが少なくなっていることに気が付いたママが、チーフを呼んだ。
頭髪をワックスで固めた、黒いスーツ姿の華奢なイケメンが、カウンターから氷を持ってこちらに来た。
「このひと。おなべよ」
と、ママが言った。
チーフは、照れくさそうに微笑んでいる。
「おなべ?」
と、星野は訊き返した。
「本当は女なの」
と、ママが言うと、チーフは微笑んで頷いた。知らないと男に見えるが、女と言われれば妙な気持になる。星野はチーフに女の片鱗を見つけようとじっと観察した。
「しかも、この人新婚なの」
隣のマリが意外なことを言った。
「おめでとう」
ママが拍手したので、傍の者も理由も分からず、ただ酒の勢いで大きな拍手の連鎖が起こった。
「ただ、彼、今悩みがあるの」
と、マリが神妙な顔をした。
チーフは苦笑いして頷いた。
「お嫁さんが子持ちで、その子供が懐いてくれないんだって。それですごく悩んでるの」
マリがチーフを見て言うと、チーフは深刻な顔をした。
「もうどうしたらいいのかなと思って」
と言う、チーフの悩みはかなり深いらしい。
星野は慰める言葉が見つからなかった。しかし、今は嫁も取れない軟弱な男が多い中で、チーフはずっと男らしいとは言える。酔いが回ったのか、星野は部屋の暗さが黒い霧に見えた。良く類は友を呼ぶと言うが、まさにこの店のことを言うのだろう。考えると、自分が八事大学にいることも類が友を呼んだようにも思える。星野はあわててその考えを打ち消した。
女子たちが帰りの列車の時間を気にし始めるとお開きの時の合図となった。協議の結果、この場は男子が女子たちをご馳走することになった。星野は厚い長財布を取り出すと、札束を取り出して数えだした。
遠くから、ちひろが羨望の目でそれを見ている。
「あいつ、田舎の地主の息子でお金はあるんだがね」
それに気づいた隣の石井がちひろに言った。
「ほんとに。お金持ちね」
「とりあえず。俺が女の子の分は出しておくから」
ここぞとばかりに星野は格好をつけた。
「すごい」
と、ちひろは目を丸くして星野を見た。
「良く飲みに出るの?どこの大学生。お名前は」
帰り際、ちひろが星野に近づいてきて興味深げに訊いた
「八事大学経営学部。青島宏治」
星野はとっさに嘘を言った。
解散間際、星野はとりあえず、麻子と電話番号の交換をするところまではたどり着いた。
前期試験が終わり、長い夏休みが明けると、大学に来る学生の数は目に見えて少なくなった。ただ皮肉なことに、まるで休校のような落ち着きが、キャンパスに学術の最高峰らしい重みをかもし出した。大学に在籍することで、自由の免罪符を与えられたように過ごす学生が多いことは間違いなかった。それがこの大学特有のものかは星野には分からない。将来この大学の肩書きがいくらになるのかなど、彼らの頭には微塵もないようだ。まるで鎖から解き放たれた犬のように浮かれている。何か楽しいことを探すことに、若さに由来した有り余るエネルギーを使っている。星野はこれを反面教師にしようと考えていることを、誰にも気づかせないようにした。
初秋の残暑を避けるように、星野と青島は大学傍のパチンコ店にいた。星野は本来パチンコはしない。家では賭け事は禁じられていたし、両親と祖父からもらう少なくない小遣いと、美容師の卵の高校の同級生から、時々練習台になるように依頼される際もらうアルバイト代もあるからだ。たまたま時間の空いた今日は、青島に誘われてお付き合いをした。星野のパチンコ台は、カタカタという釘に玉の当たるだけの退屈な音が久しく続いている。やっぱりここでは2度と遊ばないと誓った。反対に、右隣に座る青島のパチンコ台からは、鳴り止むことがない賑やかな音楽が続いている。
「えらい調子いいやんか」
「うん。これいいわ」
と、青島は台を見詰めたまま澄ました顔で言った。
ジャラジャラ、ジャラジャラと幸福の鐘の音が途切れることはなく、見ている間に、玉が山盛りになった長方形の箱が、4箱出来上がった。
「晩飯おごれよ」と、星野が言うと、
「まあ、まだ分からんけん。待ちなさいって」
と、青島は落ち着き払った態度で、先走る星野を制した。
星野はその台で打つのを諦めて他の台に移動した。星野は珍しく意地になったが、座る台、座る台、釘と玉の打ち合う単調な音が続き、しまいには「帰れ帰れ」と言っているように聞こえ出した。今日は、青島のように幸福の花弁が自分に降り注ぐことは無いと諦めた。このままでは数日分の小遣いが消えてしまうと気が付いたらぞっとした。今度の日曜日には麻子と長島スパーランドでデートをする約束がある。
星野が青島の所に戻ると、足元には銀色の玉の詰まった宝箱が、誇らしげに高く積み上げられている。
「すごいやん」
星野は青島の左隣の椅子に座ると、弾んだ声で言った。
「それがさぁ。見てよ、これ」
と言って、青島は球を打つ手を休めて、左手の人差し指と親指で、着ている深緑色のセーターの右胸元辺りを摘み上げた。よく見ると、セーターに楕円形に黒くなった部分がある。
「さっきさ、こうやっちょったら」
と言って、青島はパチンコを打つ姿勢をとった。
「コーヒーを手に持ったヤッちゃんぽい人が俺の後ろに来て『おっ、兄ちゃん出しとるな』とかなんとか言って、ずっと立って見ちょるんだわ」
ヤッちゃんとは暴力団員のことだ。
星野は相槌を打った。
「それは別にいいんだけど。そしたらあと1回懸かれば6箱いくっていう時に、フィーバーが懸かったんだわ」
店のざわめきに加え、景気づけする店員のマイクの声が、時折青島の声を遮る。雑音に負けないように、青島は身振り手振りを交えて星野に話し始めた。
「『やった!』と思って、後ろへもたれ掛かったんがいけんかったわ。そしたら俺の肩が、ヤッちゃんの持っちょったコーヒーに当たってしまってかいに。それがこぼれて・・・」
星野は息をのんで青島の顔を見た。
「怒ったやろ」
星野は恐る恐る訊いた。
「馬鹿。怒る訳ないでしょうが。そのヤッちゃんが近くに立っちょるのが悪いんだけん。怒りたいのはこっちの方だわ」
と、青島は力を込めて言った。
星野はそれを聞いて、体の緊張が一気に抜けた。
「しかし自分から当たっちょって文句も言われんが。相手はヤッちゃんだし。コーヒーは熱いは、パチンコは止めれんはで、ほんと地獄見ちょったわ」
と言って、青島は頬を膨らませた。
「熱かったか?」
星野は可笑しさが込み上げてきたが、なんとか堪えた。
「当たり前だわ。熱湯が段々と服を伝って下りて行くけんね。それまでの周りの羨望の目が、いつの間にか、変なものでも見る目に変わっちょるけん」
星野はとうとう堪えられなくなり、吹き出した。
「お前、よくヤッちゃんに、文句言われんかったな」
星野はケラケラ笑いながら絞り出すように言った。星野は今日の青島はやっぱり付いていると思った。
「当たり前だが。文句言いたいのはこっちの方だって言っとるでしょうが」
と、青島はあくまでも強気なので、星野は青島をちょっと見直した。
「でも良かった。今日の夕飯代が浮いた。ちょうど今晩カラオケの約束があって、名古屋に居んといかんのやって」
と、星野は明るく言った。ツいていないときは、ツいているものにすがるのがよいと思う。
「ちょっと。何言うだ。地獄を見た人間に、まだそんなことをさせる気ぃ」
と、青島は驚嘆したように言った。
「それとこれとは別やんか」
「ちょっと待ってよ。俺、今月金を使いこんぢょるけん」
と、青島は情けない声で星野に言った。
「から揚げ定食にコーヒー付けてよ」
「ちょっと、それはきついわ。コーヒーはなしでしょ」
星野は青島のセコさにがっかりした。
「それじゃさ、うちの近所に出来たラーメン屋行こっか」
青島の提案に、星野はすぐに同意をした。星野の家では塩分を気にする親の影響で、ラーメンを食べる機会はほとんどなかった。
「そこ、結構旨いんだって」
「そんじゃ、俺ラーメンだけ奢ってもらったらいいわ。あとは自分で出すし」
冷静に考えると、少し厚かましい気がして、星野は遠慮した。
すると青島は「あれ、俺に全部奢らせん気い」と、今度は逆に太っ腹なことを言った。
「お前、どっちゃね」
こうして、星野は青島の能天気さに呆れて、いつも突っ込むことになる。星野は八事大学には愛着を持つことはできなかったけれど、居心地の良さを感じることがあった。それは気取らなくて良い仲間が出来たからだと気が付いた。