五話『初客』後編 2
季節が巡る。
何度も、幾度となく。
暖かな春を、暑い夏を、実りの秋を。
永遠の冬の白い世界の中で。
「――小次郎!」
今日も元気な声がする。
冷たい廊下の先、広々とした玄関で。
藁靴を脱ぐ、彼のその大きな背中に少女は抱き着いた。
「おかえりなさい、小次郎!」
太陽のような笑みを一つ。
背中のぬくもりを感じながら、小次郎は彼女へと視線を向ける。
「――ただいま、小雪」
くしゃっと、優しげ笑顔で――。
◇
小次郎と小雪はこの、冬の屋敷でまだ二人暮らしている。
宿屋をやるという話だが、それをゆっくりと進めながら。
このゆったりとした時間を楽しむように、過ごしていた。
大きく変わったことといえば、小雪の口調がちゃんとしたものになったぐらいだろうか?
そんな小雪は、外から帰ってきた小次郎の周りをくるくると、子犬のように駆けまわる。
台所。その大きな机の上におかれた篭を、もの珍しそうにのぞき込んだ。
「久しぶりに他の国に行ってくると言っていたけど、何を買ってきたの?」
「なに。久しぶりに栗ご飯が食べてくてな。それとお前さんの着物を数着――」
「私に?」
小次郎の返事を聞いて、小雪は目を輝かせながら、篭へと頭を入れた。
がさぞそ、がさごそ。
奥から取り出すのは、山吹色の着物と、桜色の着物。それから薄い水色の着物が一着ずつ。
どれも、今の年頃の少女が好きそうな柄が、あしらわれている。
「こんなに?」
小雪が驚いた表情を浮かべる。
小次郎は笑う。
「今の着物は古くなったであろう?」
「珍しいね!女将たるもの、質素でいなさい――て、いつもなら言うのに」
「……確かにそうだが、お前は若い娘でもある。流行りものにも乗らなくては、な」
「そんなもの?――ふふ、ありがとう小次郎!」
小雪も太陽のように笑う。
大切そうに、もらった着物を抱きしめて、にこやかに。
「今日のご飯は楽しみにしていて!とびっきりの栗ご飯を作るんだから!」
年頃の少女にしか見えない神様は、嬉しそうに竈へと走り寄るのだ。
そんな小雪を小次郎は微笑みながら、見つめる。
あれから、ずいぶんと時間がたったが小雪もようやく、人の暮らしにも慣れてきたところだ。
炊事洗濯は勿論。掃除だって一人で完璧にこなすし、大変な雪かきも最近は率先してやってくれる。人付き合いは、まだまだな気もするが。人の世話は、相変わらず好きらしい。
「小雪も随分と立派になったな」
「ん?そう?」
しみじみと、小次郎は噛みしめるように口にした。
昔の小雪を思い出すように、目を閉じて、それでもにこやかに。
しかし――そう腕を組むのも、すぐの事だけれど。
「だが、女将としてはまだまだ。きっと同じ土俵にすら立ててはいまい!その、物言いではなあ」
「なにぃ。褒めるか小言をいうかどっちかにしてよ!」
言い返せば、小次郎はからからと笑った。
小雪はそんな小次郎に、わずかに眉を顰めていたが。
それも瞬きの間、気に留めていないと言うように、栗の処理に向かった。
「そうだ、小次郎。先にお風呂に入ってきてよ。ごはんなら、できた時に呼ぶからさ」
「ん?何かあるのか?」
「えへへ。今日は柚子風呂なの!小次郎には一番に入ってほしいんだ!」
笑みを浮かべて、それは楽しそうに小次郎を見る。
その様子は、まるで小次郎の世話が楽しくてならないというようだ。
小雪の表情を見つめながら、小次郎も笑みを浮かべて小さく笑った。
「では、お言葉に甘えることとしよう」
◇
屋敷の長い廊下を、夕焼け色のしっぽを揺らめかしながら、小雪は進む。
その手には、料理が乗った膳が一つ。
出来立ての栗ご飯に、ジャガイモの味噌汁。大根の漬物が乗っていた。
「小次郎、喜んでくれるかな♪」
楽しそうに小雪は進む。
廊下の先、一番奥。そこが小次郎の部屋である。
「あれ?」
ふと、立ち止まり。小雪は耳をぴくん、ぴくんと動かす。
話し声が聞こえる。それも二人。――誰かが小次郎の部屋に来ている様子だった。
小雪が首をかしげるのも仕方がない。
この冬の神の社に、人間が訪れることは、まずない。なかったはずだ。
だが、実は最近それも変わっているのだ。しかし、小次郎のようなお客様でもない。
この世界の住人である、四季の国からやってきているのは確かなのである。
小雪は耳を澄ませる。
――……小雪さま――――で?
「相も――――きだ。流石――――と――か。――――――に、――――ない」
――……――が、この――――で――。
「分かっている。――――、げんき――――が、と――とる――――だ」
――…………小次郎様。あなたは――――。
「もう――――ない。だから――――――――のだ」
二人が話しているのは、なんとなく聞こえる物の、ここからでははっきり聞こえない。
疑問に思いながらも、小雪は一歩と足を踏み出した。
――ぎぃ。
古い床が音を立てる。
「――小雪か?」
当たり前だが、気づかれてしまったようだ。
仕方がないので、部屋の前まで小走りで行くと、部屋のふすまに手を伸ばす。
「あけるよ?」
扉を開けると、そこには小次郎と、机をはさんだ反対側に、笑顔を浮かべる年若い青年が座っていた。
「やっぱり、左之助さまだったのですね」
小雪は笑顔を浮かべる。
黒い装束。赤い髪に赤い瞳の青年の名は、左之助。
ある日いきなり小次郎が連れてきた、彼の友人だという。
客人となれば、話も変わる。
「いま、もう一人分膳を用意しますね」
――……あ、いや私は――
「よい、左之助殿も食べていかれよ」
遠慮しようとする左之助に、小次郎が目配せをして、それを止める。
そんな左之助に、小雪は頭を下げて、その場を後にした。
「――なんだ。あれでしたら女将でもやっていけますよ」
「あれは、猫をかぶっておるのだ。儂のまえでは、まだまだ子供よ」
遠くから二人の会話を聞きながら、小雪は再び台所へと向かうのである。
歩を進めながら、思うのは左之助の事だ。
どれほど前だったか忘れたが、急に小次郎が連れてきた春の国の人間――半蔵。
彼が姿を消して、ほどなくしてこの屋敷に訪れるようになったのが左之助だ。
本造と同じく、自分を怖がるようなこともせず。
むしろ最近は、必要な食料などを定期的に屋敷に持ってきてくれる存在。
といっても、小雪はまだ彼とそんなに話をしたことはないが。
なんにせよ、小次郎に友ができることは良いことだ。
そう思い、小雪は笑顔を浮かべるのである。
◇
「小次郎!」
あれから、再び春が訪れた。
相も変わらず、雪の国の屋敷で、小雪は小次郎の部屋に顔を出す。
「――小雪、おはよう」
布団の中。小次郎は呼んでいた本を閉じて顔を上げた。
小雪は笑顔を浮かべて、お盆を手に中へと入る。
お盆には、柔らかく炊いたお米と厚揚げの味噌汁、蒸したカボチャ。梅干しが乗っている。
「今日はちょっとご飯を炊くの失敗しちゃった。ごめんね」
「いいや。いまの儂にはこれで十分だ」
申し訳なさそうに耳を下げる小雪に、小次郎は笑った。
布団からは出ない。小雪は慣れた手つきで小次郎の前に食事を置く。
しかしというか、小次郎は食事に手を出さなかった。
やはりご飯の炊き方を失敗したのが悪かったのだろうか。
「小雪。後で食べる」
「う、うん。分かった」
じっと見つめていると、小次郎が首を横に振る。
しぶしぶと小雪はお盆を下げて、側の机の上に置いた。
食事を前に、小雪は顔を曇らせる。
――少し前、小次郎は廊下でこけてから足と腰を悪くした。
それ以降、小次郎は人里に降りるどころか、殆ど部屋からでなくなってしまった。
いまでは、風呂に行くのにも、小雪の手を借りなくてはいけないほど。
言われようのない不安が駆け巡り、小雪の顔を曇らせる。
早く。はやく昔のような、元気な小次郎に戻ってほしい――。
「小雪――」
どこか弱々しい声がかけられたのは、そんなことを考えているとこだった。
小雪は顔を上げる。
「なあに?」
「……すこし話をしようか」
この言葉に、小雪は花のような笑顔を浮かべた。
「小次郎と?――うん!何話すの?」
しっぽが揺れる。
耳がぴくぴく、どちらも嬉しそうに。
座布団をだして、小次郎の側へと置く。
その上に、きちんと星座をして座った。
小次郎と面と向かってのお話なんて久しぶりだ。
もう最近は、本の読み聞かせだって必要なくなってしまったもの。
この世界の事もしゃべりつくしてしまったから。
何を話そう。何を話してくれるのだろう。ドキドキしながら、待つ。
しっぽも揺れてしまうものだ。
「――小雪」
「なあに?」
「最近はどうだ?女将業は上手くやれそうか?」
「何言っているの?お客様もまだ迎え入れていないのに」
「ははは。ちがうちがう。そろそろ、客を入れてもやっていけそうか?」
「うーん。分からない。だって、お客様なんていえるのは小次郎と、時々来る左之助様だけだもん」
「――そうか。それもそうだな」
「では、左之助殿と仲良くやれているか?」
「うん?たぶ、ん?左之助様は最近何かと私を気にかけてくれるよ。食べたいものはありますか?とか、何か欲しいものはありますか?って」
「ふむ。なにか頼んだのか?」
「うん!――牝牛!」
「め、牝牛?」
「そう!新鮮な牛乳を毎日飲みたくない?重たい牛乳瓶を毎日頼むのも気が引けたから、牝牛を頼んだの!」
「……くく。ははははは!お前らしいというか、おおざっぱというか!左之助殿は驚いていただろう?」
「ふふ。うん!でも持ってきてくれるって!」
「……あのね、小次郎」
「ん?どうした?」
「左之助様がね、自分が面倒みるから私に春の国に来ないかっていうの」
「……それで、どうした?」
「断ったよ。今の私が里に下りると、あたりを冬に変えちゃうもん。やっぱり迷惑だよ」
「……」
「それにね。私には小次郎がいるから!――小次郎も一緒なのって聞いたら違うって言うんだもん!一人になったらおいでって――」
「……」
「一人になったら、てなに?小次郎もここにいるのにね!ひどいよ!」
「……ああ、そうだな」
「小次郎?どうしたの、苦しいの?」
「……いや、何でもないんだ。すまない」
いろんな話をする。
あんなことがあった。こんなことがあった。
とりとめない毎日の事。
話すことがないと思っていたのに、小次郎を前にしたら、伝えたいことが滝のように流れだす。
小次郎は優しい笑みを浮かべる。
うんうんとうなずいて、からから笑って。
時折胸を押さえて苦しそうに。どこか、思い悩むように。
それでも、やっぱり最後は笑顔で――。
「小雪――。」
優しい声色で小雪を呼ぶ。
「なあに?」
小雪も笑顔で応える。
「今、頼み事をしたら叶えてくれるか?」
「なあに、改まって。何でも言って!何でもするから!もしかして難しい事?」
「はは、いや。きっと簡単なことだ」
空色の瞳を黒の瞳がまっすぐと見つめ。その小さな掌に小次郎の手が伸びる。
大きくて、ごつごつとした。
――くすんだ枯れ木のような手を、小雪の手に重ねるのだ。
「儂を、家に帰してほしい」
「え、何言っているの?寝ぼけてる?――ここが家じゃない」
「――いいや。違うよ、小雪」
空色の瞳が瞬きをする。
黒髪の男らしい顔立ちで、優しげな顔が映る。
空色の瞳が瞬きをする。
白髪のしわだらけな、優しげな顔が映る。
「家に――。元いた世界に、返してほしい。小雪、儂は、この屋敷を出ていく。出ていかせてほしい――」
「……え?」
◇
「どう、して?え、冗談だよ、ね?」
震え声、かすれる声が口からこぼれる。
白い手が小さく震えながら、自身の手に添えられた手を握りしめた。
小雪をまっすぐに見つめながら、小次郎は静かに首を横に振った。
「冗談ではない。儂はこの屋敷を出ていく。元の世界に帰るつもりだ」
そう、はっきりと。
冗談なんかじゃない。嘘なんかじゃない。
頭が理解を拒み、真っ白になる。
小雪の反応に、小次郎は歯を食いしばる。
無理やりに笑みを作り、小雪の手を握り返す。
「儂も長く生きた。なぁ、小雪。だから、最後は家で迎えさせてはくれないか?」
小雪の前には、一人の男が座っていた。
銀にも似た長い白髪。大きかった背は、一回り以上に小さくて。
大きな手は枯れ木のように細い。その優しかった顔はしわくちゃに。
まるで魔法が解けるように、もう何十年と小雪の側にいた老人は笑った。
「だ、め――」
「小雪」
小雪の言葉を遮るように、小次郎が彼女の名を呼ぶ。
優しく手を撫でて、変わらず彼女の顔をまっすぐに見つめている。
「――なん、で?」
空色の瞳から、ぽつりと雫がこぼれた。
あふれてしまった感情は、もう誰にだって止められず。
小雪は目の前の老人に縋りつく。
「なんで、なんでなんで、なんでそんなこと言うの――!」
「――」
「嫌だよ!!いやだ!」
離れまいと、彼の着物をきつく握りしめて、わんわんと泣く。
「小雪。たのむ」
「嫌だって言ってるでしょ!」
泣きわめきながら、彼の胸をたたく。
「小雪――」
「それ以外にして!困らせないで!ずっと側にいて!」
縋って、頭をこすりつけて。
「……それはできない。儂に残された時間はもうないのだ」
「そんなの関係ないよ!」
弱々しく重ねられた手を拒む。
「たのむ。儂は、最後はお前に見せたくない」
「最後ってなに!最後だからって何!!――最後なら、その時までずっとそばにいてよ!ちゃんとお別れをさせてよ――!!」
声の限り叫んだ。喉がつぶれてしまいそうに声を振り上げた。
小次郎が息を呑むのがわかる。何か言いたげに、息を吸って。
けれども、その言葉は出てこなくて、空気となってか細く消える。
大きな手が、小雪の肩を掴み引きはがす。
涙を流す空色の瞳を、わずかにも逸らすことなく、まっすぐに見据えて言う。
「――だから、今、ちゃんとお別れをしようと言っているのだ。まだ、儂がしゃんとしている間に。人の死に目などに合わせる前に」
涙をこぼす大きな瞳が、大きく開かれた。
「しに、め?それって、それって――」
――死んじゃうってこと?
小雪の導き出された答えに、小次郎は頷く。
優しい顔に、さみしそうな笑顔を浮かべて、小次郎は再び小雪の手を包む。
「小雪、人は死ぬのだ。儂のように年を取って。些細なことで。さっき最後までといったな。――けどな、きっと。――今のお前では、まだその苦しさを背負うことはできまい。永遠のお別れを味わうなら、最後は笑顔で別れられる、今にしよう」
◇
長い廊下を、小雪は小次郎の手を引きながら歩いた。
お互いに何も言わない。ただ、冬の静寂が二人を包む。
広々とした玄関へ出て、玄関先にある石畳を歩く。
その向こうには大きな門が一つあって、それがこの屋敷の入口となる。
門の前で、小雪は立ち止った。
左手、細い人差し指が門を差す。
「あそこ、あれを潜り抜ければ、もとの世界に戻れるようにしました」
俯き、淡々と小雪が言う。
それでも小次郎の服を掴む右手は、なかなか離してはくれない。
「小雪――」
大きな暖かい手が、小雪の右手を包む。
震える白い指先を惜しむように離した。
小次郎の手が、ゆっくりと離れる。
一瞬のためらいもなく。迷いもなく。
彼女の隣を、彼が過ぎてゆく――。
「――小次郎!」
悲痛な声が一つ。
再びすがるような手が、小次郎に伸びる。
その指先が、彼の腕に触れる前に。
小次郎は口を開いた。
「小雪、女将としての最初の仕事だ。――儂を見送ってくれ」
白い手が、あと数センチの所で止まった。
目も鼻先も真っ赤に、小雪の空色の瞳に再び涙がたまる。
女将――。
そんな馬鹿げたことを。
『宿屋の女将にならないか?』
彼がそう言い始めて、何十年の月日がたっただろう。
彼はいろいろと考えていいたようだが、正直小雪にとってはどうでもいいことだった。
宿屋なら、部屋も庭も、浴室だって綺麗にしなさい。
一緒に掃除をしながら、小次郎は口うるさくいった。
お客様が入浴中は、お背中を流しましょう。
小次郎の時代では当たり前で、楽しそうだから採用した。
食事はお客様の好みを取り入れよう。
せめてここにいる間は、嫌いなものも入っていない美味しいものだけを食べてもらおう。二人で決めた。
小雪しかいないのだから、お客様は一人だけ。
その方が心づくしのおもてなしができるから。
そう、沢山約束事を決めておきながら。
いつからか、小次郎は言っていた。
『小雪が楽しく毎日を過ごせるようにしよう』
独りぼっちの神様を案じるように、それが口癖になっていた。
でも本当はどうでもよかった。
だって、小雪には小次郎がいたから。
もう、独りぼっちの寂しさは、拭えていたから。
「できないよ。できない……」
小雪は涙を流しながら、幼子のようにいやいやと首を振る。
本当にこれでお別れなんて、嘘のようで。
涙を流す小雪を前に、小次郎は僅かに表情を変える。
何かを言いよどみ、そして、小雪へと身体を向けた。
淡い期待に白い手が再び小次郎に伸びる。
それを取るのは、彼の大きな暖かな手で。
しかし、その手は彼女の期待に応えることはない。
「こじ――」
「ああ、本当によい、出立日和だな」
細い手に押し付けられるのは、一通の手紙。
その文をしっかりと彼女の手に握らせて、彼の手は離れていった。
しん、しんと、雪が降り積もる白銀の世界。
小次郎はゆっくりとした足取りで、門前へと向かう。
ゆらゆらと、一歩ずつ。時折胸を押さえて苦しそうに。けれども、迷いもない足取りで。
嘘つき。――その言葉を思い出す。
この宿を出る時は、晴れ晴れとした蒼天の日が良いと言っていたのに。
小雪がちゃんとした女将になるまでは、帰れないってこぼしていたのに。
四季を捨ててしまった小雪の元では、晴れの日なんてものはないのに。
自分が女将になる気はないって、気が付いていたくせに。
ずっと、一緒にいてくれるって信じていたのに。
でも、小雪は小次郎の言葉を跳ねのけられなかった。
彼が言う通り、小雪は、死のお別れの苦しさを背負うことはできなかったから。
――だったら。だけど。だからこそ。
小次郎の最期の言葉を思い出す。
最後は笑顔で――。女将として――。
小雪は着物をきつく握りしめる。
『女将』が何なのか、分からなかった。
でも小次郎は間違いなく、この宿屋に訪れた最初のお客様だ
『女将はいつも笑顔で、最後まで笑っていなさい』
その教えが頭の中で響く――。
うん。――分かったよ、小次郎。
その通りだ。
永遠のお別れを味わうというのなら。
そうだ、そうだね。あなたの言う通り。
最後のお別れは、笑顔で迎えましょう――。
「こじろ――――!」
張り裂けんばかりの声を出す。
彼の歩む足が止まる。
振り向かなくていい。
涙も、鼻水も流れっぱなしだから。
けれど、いつものように、太陽のような笑顔を精一杯に。
きっとうまく笑えてないけど、それでも命一杯に。
「――――いってらっしゃい!」
門の向こう、まばゆいほどの光が小次郎を包む。
逆光のその中で、それでも確かに。
彼は、青い空のようにからっと笑った――。
◇
しん、しんと。
雪が降り積もる雪化粧。
小雪はその場から動けずにおりました。
手には文が一通。
彼が愛した空色の瞳が、それを映します。
小雪殿へ
春も終わりのこの頃、そろそろ初夏の時期となりました。そちらは、ひどく寒い夏になると思いますが、どうかお体を無事にお過ごしください。
さて、何から書こうか、筆を持ってみたものの悩ましいものでございます。
こうして、文を前にすると、あなたとの思い出が色鮮やかに蘇ってくるばかりです。
最初、わたしがこの世界に落とされたとき、声をかけてくれたのはあなたでした。
夕暮れを染めたごとき髪、蒼天を写した瞳。見たこともない容姿ゆえに、最初は物の怪かと、少なくとも人の子ではないと恐れたものです。
ですが、あなたはその気を失わせる笑顔を向けてくれましね。
恐れ知らずで、胸のあたりをぽかぽかと照らしてくれるような、まさに太陽のような笑顔を。
そのくせ、寂しがり屋で独りぼっちを嫌がり。わたしに向ける、縋るような瞳も忘れられません。
人間の我儘に付き合って、四季を失って、それでも人間を愛そうとするあなたは、とても。それはひどく、哀れでした。
こんなわたしの存在が、あなたのそんな心を少しでも癒せるのなら、この無骨物の時間ぐらいなら分け与えてもよいと思えるほどに。
あなたは私の世話を焼きたがるけど、掃除は下手で、料理も裁縫も出来ずに、頬を膨らましてばかりでしたね。
困った子だと、手のかかる娘ができたようで、いつも微笑ましく見つめておりました。
女将業だってそうです。こちらはわたしから言い出したことでしたが、あなたは本当にやる気がなかった。
とりあえず、わたしが出した案をそのままに受け取り、実行して失敗して。それでも絶やさずに笑って。
宿屋だというのに私以外のお客は一切入れなくて。
でも、それはきっと、あなたの寂しさが拭えていたからだと信じています。
わたしという存在が、あなたの心を埋められていた、と信じてもよいでしょうか?
わたしの記憶のあなたは、いつも嬉しそうに笑っていて。
愛おしくなるほどに寂しがり屋で、いつもわたしの後をついて回って。
人が大好きな癖に、自分を置いてきぼりにする人間が何よりも怖くて。
いつも心配していました。
この子は、泣き方を知っているのか。
怒りたいときに、感情をあらわにする方法を持っているのか――と。
年も取らない、あなたの側で長い年月を生きました。
あなたはこれからも、この屋敷で、一人過ごすのでしょうか?
そこは、悔しくてたまりません。
なぜ、自分だけ年を取るのか。
なぜ自分は、あなたの最後の、その瞬間まで、側に立っていられないのか。
神と人では、なぜ、こうも立場が違うのか――。
けれど、きっと、それは。
神と人であるゆえに。
いいえ、きっと、神と神でも。人と人でも。
お互いの時間がちぐはぐで、永遠ではないから、その一秒一秒が愛おしいのでしょう。
あなたを一人置いていくのは心苦しいです。
まだ、死を看取ることができない、あなたを言い訳にして、
あなたに自分の死を見せたくない、去り行くわたしを、どうかわすれないで。
いつか再び、あなたの側にいたいと願う人間が現れるまででいい。
臆病者のわたしよりも、強くて、あなたの側に最後まで立つことができる人を。
それまでは、どうか沢山のお別れを経験してください。
わたしのような長い日々ではなく。
たった一日だけでいいのです。
たった一日。それを沢山。
うんと、手に収まり切れないほどに、大事な思い出を作ってください。
忙しくて愛おしい毎日を沢山過ごして、
ああ、こんな人間がいたな、と思える日まで。
あなたに贈る最後の言葉はただ一つです。
小雪。
どうぞあなたは、
幸せにおなりなさい――。
小次郎




