9. 血と涙のアメ
『うへぇ……ニコのお嬢にも困ったもんだ。雨を降らせる実験ねえ……天才なのは結構なことだが、おかげさまで俺の服はびしょ濡れだぜ』
暗闇の中、一人の男がぼやく。
彼の服は濡れていた。
髪の毛先かた水滴が滴り落ちる。
水滴。
もうひとつ、異質な水滴が地面に落ちた。
『っ……』
『ん? 誰かいんのか?』
どちらも同じく透明な液体だが、幼い少女の目から零れ落ちたソレは異質なものだった。
男は少女のすすり泣く声を聞き、暗がりへ歩みを進める。
視線の先、部屋の角には少女がうずくまっていた。
ああ、なんだ――いつものことか。
そう思いながら、男は屈みこむ。
『よ、クラヴンのお嬢。また泣いてら。どうした?』
『……うるさい。アサマはどっか行け』
痛烈な少女の言葉に、アサマと呼ばれた男は困ったように頭を掻いた。
慣れてはいるが、毎回対処法がわからない。
子どもの世話は苦手だった。
『あっ、さーては喧嘩だな!? バロンのお嬢か、ナドリスの坊ちゃん! それか……ええと、メアの坊ちゃんか?』
『……違う。陛下』
陛下。
少女の言葉にアサマは腰を抜かした。
『おいおい。陛下と喧嘩したってのか?』
こくり、少女は首肯した。
泣きはらした目を隠すように俯く。
もっとも、暗がりのせいで目元など見えないのだが。
アサマは少女を宥める手段を思いつく。
相手が陛下と呼ばれるあの人物なら、少女を元気にできるかもしれない。
『そりゃすげえ! 陛下と真向から喧嘩できる人間なんて早々いねぇぜ? クラヴンのお嬢は度胸があるなぁ……もしかしたら世界いち勇敢かもしれねえ』
『でも、泣いてるもの。わたしは弱いの』
『そんなことないさ。正面から喧嘩して泣くのは恥ずかしいことじゃねえ。むしろ恥ずかしいのは陛下さ。いい大人が、お嬢みたいな子どもに喧嘩吹っ掛けて……本当に情けねえよな!? 安心しな、お嬢は陛下よりも大人だぜ?』
アサマの言い分に少女は顔を上げた。
潤いを孕んだ瞳が暗闇の中に光る。
『……ほんと?』
『おう! クラヴンのお嬢は将来大物になるね!
……あ、でも今の悪口は陛下には内緒だぜ?』
『うん』
心なしか少女の声色が明るくなる。
これは成功したかと……アサマは内心でガッツポーズした。
子どもをあやすのは苦手だが、最近はコツを掴んできたような気がする。
『それより、聞いてくれよ。ニコのお嬢がな、雨をとうとう降らせたんだ!』
暗い話題よりも明るい話題。
つまらない話題よりも面白い話題。
アサマは少女に喜々として報告した。
『アメ……?』
『おう、雨だ。空から水が降るんだ。すげぇだろ?
お嬢も一緒に見に行こうぜ』
『だからアサマはびしょびしょなの?』
『お、おう……まあ乾かせばいいんだよ。靴下が濡れてて気持ち悪いけどな』
アサマは濡れた髪をかき分けた。
服が濡れて不快なのに、不思議と心地よい。
少女は収まってきた涙を拭いて立ち上がる。
そしてアサマを無視して部屋の外に向かった。
『って、おい! どこ行くんだ?』
『アメ、見にいくのよ』
『そうか。俺ももっかい濡れてこようかね』
少女の歩幅に合わせて、アサマはゆっくりと歩く。
しばらく沈黙したまま歩いていた少女。
彼女は道中、不意に尋ねた。
『ねえ。いつか、本物のアメを見られるの?』
『ん……ああ、そうさな。見るよ。俺たちで一緒に、陛下と国のみんなと一緒に見る日が来るさ』
『ふーん』
半信半疑。
少女はアサマの言葉を聞き流す。
だけど、心の奥底では。
期待している自分がいた。
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「死ねッ……!」
前のめりに倒れたアサマ。
その隙は見逃さない。
影の針を展開し、四肢を貫いた。
「クソ、俺は……!」
ショートソードを絡め取る。
倒れたアサマに警戒しつつ接近するも、動く気配はなし。
……やった、のか?
ナイフを抜き接近。
まだだ、油断するな。
口で起爆する爆弾。腹に巻かれたダイナマイト。
今までアバドンがしてきた悪辣な抵抗を思い出せ。
俺の先輩だって……入隊してから何人もアバドンに殺されてきた。
油断したその瞬間に。
「――影装」
影の鎧を纏い、奇襲に備える。
瞼の上部に影を乗せ、閃光弾の防御準備。
警戒しつつ、迅速にアサマへと接近。
「やる、ねぇ……坊ちゃん……」
吐血。
心臓部を貫かれて、アサマは口から血の塊を吐き出した。
放置していても死ぬだろう。
だが、確実にここで殺しておく。
「……この基地の通信途絶は、お前たちの幹部を倒せば解除されるのか?」
だが、ひとつだけ確認を。
入手できる情報は確保しておかなければ。
「……あぁ。バロンのお嬢だけが……基地の隔離を、解除できる……生きたきゃ、お嬢を探すんだな……それと、ドヴェルグにも……」
「もういい」
「がぁっ……!?」
ナイフでアサマの背を刺す。
レナスとかいう幹部を追えばいい。
それだけわかれば十分だ。
言葉を失ったように瞳を閉じるアサマ。
抵抗する気はないのか?
「…………」
もう一度、刺す。
手足、背中、腹。
「っ……」
「死ね」
首、頭、首。
刺して、刺して、刺す。
できるだけ苦しんで死ねばいい。
俺たちの先輩を殺し続けてきた悪魔が。
地獄に落ちろ。
「死ね、死ね……!」
確実に殺す。
間違っても息を吹き返さないように破壊する。
争いの根源を抹消する。
二度と、この世に……!
「イージャ!」
「――ん」
鼓膜を叩いた甲高い声。
俺は無我夢中から引き戻され、顔を上げる。
リラがいつしか立ち上がっていた。
もう復帰できたのか、よかった。
「もう、やめて……死んでるでしょう。それ以上、意味がない……時間の、無駄よ……」
途切れ途切れにリラは言った。
そうだ、こんなことをしてる場合じゃないだろう。
早く他の部隊への応援に行かないと。
それにソウルさんのこともあるし、状況の確認だって。
クソ、なんで俺はこう……無駄な時間の消費ばかりするんだ?
ぐちゃぐちゃになったアサマの死体。
血を払い、立ち上がる。
「……悪い。ホワイトさんとジーラさんは……ちょうど終わったみたいだな。作戦を継続しよう。この男が言うには、原罪人レナスをどうにかしないといけないらしい」
「……そう。早く行きましょう」
「ああ。厳しい相手だったが……もっと強い奴が潜んでいる可能性もある。油断せずに進もう」
ソウルさんも気絶から回復したようだ。
だが、まだ傷は残っているだろう。
あまり無理はさせられないな。
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雨。
痛みに流した涙。
流れた血の涙は、沼となって広がった。
これは殺し合い。
血の沼に横たわったショートソード。
骸の瞳から流れる透明な液体。
すべてを呑み込み、直視して。
進まなければならない。
「……ごめんなさい」
誰が呟いたか、悔恨の言。
誰にも届かずに消え行った。




