プロローグ
昔から百合の花が好きだった。今年で中学三年生になる私の家は、いわゆるお金持ちで、私は俗に言う『お嬢様』という部類に入るらしい。家の庭には大きな花壇があって、今の時期には白百合が力強く咲いている。雨が多い今の時期は気分も滅入りがちになるけども、雨上がり、水滴を弾いて凛と立つ百合の姿に私は心が洗われる思いだった。
花壇というくらいだから、一段、高くなっている盛り土の上に白百合は立っている。私の身長は一四〇センチに少し足りないくらいで、もう伸びそうにない。ややもすると、花壇の百合から私は見下ろされるような状態だ。百合は美しく、そして強い生物なのだと私は思う。
「食べちゃいたいくらい可愛い」という表現があるけれど、私は本当に百合を食べた事がある。もちろん球根の話で、食用となっているものを調理してもらった。私の家には調理人が居るのである。茶碗蒸しや、お味噌汁に入れて食べると美味しい。それだけでは物足りなくて、私は自分で球根を刻んで、それを炒ってお茶を作ってみた。
まあ自己流だからか、きな粉を水で溶いたような薄味の飲み物にしかならなかったけれど。それはそれで、新しい百合の一面を知れたようで何だか嬉しかった。こんな事をしていたのが小学校の頃で、その後も私は百合を偏愛していたので。だから別の意味での百合、つまり同性の子に執着していくようになったのも、ある種の必然だったのではないかなぁと。そう私は思っている。
私の身長は小学生の時から変わってなくて、これは母親に似たのだろう。母は私の身長に付いて、「ごめんねぇ。お母さんが小さい体だから、大きな子に産んであげられなくて」などと謝ってきて、その度に「気にしてないよー」と私は返している。本当に私は気にしてなかった。
身長が変わらなくなった私に取って、世界は常に変化に満ちていて新鮮だった。小さな球根から百合が咲いて、私の背を越える勢いで伸びていく光景。それらの日常は、常に私を感動させ続けている。もし私が普通に成長していたら、こんな喜びは味わえなかったかも知れない。
他の人より、ほんの少しだけ好奇心が強く育った私は、興味を持った物事に執着しがちな一面があった。例えば百合の花を好きになったら、その球根も食べてみたくなるような一面が。
よく犯罪ドラマで、猟奇的な犯罪者が、自分の恋人を殺してからバラバラにするような描写があるけれど。私は、その気持ちが少し理解できるのだ。怖がられるだろうから、そんな事は誰にも言わないけれど。きっと犯罪者は、自分の恋人を深く理解したかったのではないか。
機械に興味のある子供が、深く理解するためにラジオをバラバラに分解する行為と似ている。もちろん人間をバラバラにしたら死んでしまうから、普通はそんな事をしないというだけだ。そんな事をしてしまうから犯罪者なのだろうし、私も人を殺してまで自分の理解を深めたいとは思っていない。
ただ私は、やっぱり普通の人と比べると、ちょっとおかしな所はあると思う。私は人を殺したくないけれど、それは倫理的な理由ではなく、人の命を観察したいからだ。
生きているという事は変化していくという事で、その変化は常に私を感動させた。そして私が最も感動し、味わいたいと思う存在は、同世代の少女たちだった。彼女たちの体には、私にはない丸みがあって、一日ごとに大人に近づいているような変化に満ちている。
美しい花の球根を食べた私は、彼女らの事も味わいたいと欲した。味わい尽くしたい、というのが正確な表現だろう。小さな体に収まりきらない程の、大きな欲望に突き動かされて、中学生になってから私は行動を開始した。これから述べるのは、そういう、ちょっとだけ倫理から外れたお話である。