表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
信孝なんかに『本能寺の変』のとばっちりで殺されていられません~信澄公転生記~   作者: 柳庵


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

487/496

487話 南伊勢攻略戦  永禄十二年九月八日

明けましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。


もはや、普通の歴史転生物の枠を完全に越えて山岡荘八先生の「徳川家康」並みの連載期間、作品になることを覚悟しました。5年くらいかけて本能寺の変に到達、その後を2年くらい連載するつもりで書いております(笑)

読者諸賢も諦めて付き合ってください(笑)


ちなみに、「三国志」の吉川英治先生の作風と「黒死館殺人事件」の小栗虫太郎先生の衒学趣味、「信長研究の第一人者」であった谷口克広先生の知見を踏まえて更に独自の一捻りを加えてた歴史解釈を足して3で割ったような物を目指しております。


てか、それは「なろう小説」の枠内ではもはや無いでしょ?というツッコミはげにげに正しいので反論できませぬ(笑)

永禄十二年九月八日早朝、滝川一益は北畠御所に向けて一軍を率いて動き出す。北畠御所までは六里半。高見山地の峠をいくつか越えて行かねばならないため、二日がかりの作戦行動である。


同日、その動きを隠すように同じ南の陣に所属する稲葉良通、池田恒興、丹羽長秀の部隊が動き出した。

南側は搦手門に近いのだが、信長が西側から攻めるように指示があった為、最寄りの搦手門だけではなく西の丸、出丸の三箇所に分かれて攻めかかる。


池田恒興が西の丸、稲葉良通が出丸、そして丹羽長秀が搦手門の正面を担当した。


今回、池田恒興は母衣衆ではなく、一隊を率いる将として大河内城攻めに参加していた。信長の考えを読み機嫌の具合を見てどう動くべきか考え、そして行うが大事な母衣衆として働くのと違い、将としての必要な才覚はまた異なる。


丹羽隊、稲葉隊が陣立てを整えるなか、そんなこともよりも時を惜しむかのように池田恒興の率いる部隊は、配陣もそこそこに一番最初に西の丸に向けて攻めかかる。

西の丸に向かってやや勾配の緩い坂を見つけると池田恒興の号令のもと、一斉に西の丸に攻めかかていく。


慌てて攻めているかのような池田隊の様子が稲葉良通の陣からはよく見えたのだった。


「ふむ、池田殿は部隊を率いるのが初ということもあり、だいぶかかっている様子。

信長様は滝川殿の言を受けて牽制だけでよいと仰せられたはずだが…。

たしか落とせるなら、落とせとも言われたが、流石にたった三部隊でこの城を落とすのはは無理筋というもの。

それが分からん池田殿でもあるまいが…。やはりは功を焦っているのかのぉ。

まぁ、他所は他所、うちはうちとさせてもらうか。美濃衆よ、無理はせず、命大事にせよ!」


出丸を攻める稲葉良通は、今回の攻撃はあくまでも滝川一益の多芸御所攻めへの助攻に過ぎないと、ゆっくりと陣立てしたのだった。

そのせいか稲葉隊が出丸に矢を打ちかける始めた頃には、既に夕刻が近く、申の刻から未の刻に移り変わりつつあった。


「夕日となってきた!これから暗くなる故無理はするな!者ども、後は鬨の声と火矢、鉄砲だけで良い。重ねて言う!無理はすせずとも良いぞ!」


期せずして夜襲となるが、狙ってやったものではないので、それほど夜襲としての効果は無い。そして、そこに追い打ちをかけるように夕立ちも襲い来たのだった。濡れた斜面は滑り、城攻めをさらに困難なものにするのだった。

雨が降り出し、味方の動きが悪くなったのを見て取った稲葉良通は、いっそう大きく鬨の声をあげることを指示し、矢を打ちかけながら徐々に部隊を撤退させていく。

流石は、西美濃三人衆の中で武勇にて知られる稲葉良通。天候、時刻、彼我の士気の差などを踏まえての采配は見事の一言である。


池田恒興隊に遅れること少し。丹羽長秀隊が搦手門に向けて攻撃を開始する。


「恒興らが気張っておるぞ!我らもゆくぞ!」


普段は冷静な指揮をする丹羽長秀が池田恒興隊の鬼気迫る攻撃の気配を見て部隊に喝を入れる。

主攻と言える搦手門を任されていることと家老格として仕事をしている自分が初めて部隊を率いる池田恒興、外様の稲葉良通に負けられないという気持ちもあったのだろう。


火縄銃、焙烙玉も交えて攻めかかり、ついに搦手門の前まで到達する丹羽隊。が、搦手門の正面まで到達した丹羽隊にも雨が祟る。


最初は小雨だったので、坊丸考案の湿気りづらく雨に強い火縄を使って火縄銃、焙烙玉で攻めていた丹羽隊であった。だが、一転、夕日を遮る程に雲が濃くなり、激しい夕立ちが襲い来る。


坊丸も雨上がりや霧、小雨までは対応できるように火縄を工夫していたが、流石に十数間ほど先の城門や柵が見えない程の白雨ではそれも限界があった。更には、雨が足場を悪くする。


搦手門への火縄銃や焙烙玉の猛攻がピタリと止んだ。そして、雨足に足が止まった丹羽隊は、城兵の格好の標的となる。彼らの頭上に雨とともに投石や矢が降り注ぐ。前線で奮闘し、指揮をとっていた侍大将達がそのキチンと揃った鎧兜を目印に、いの一番に狙われ、倒れていく。


「これ以上、損害を出すわけにはいかん。やむなし、引け、引けぇ!」


当然、西の丸を攻めている池田恒興隊も同じ状況になっていた。

驟雨の中、搦手から大河内城を攻めた織田軍三隊はまさしく濡れ鼠となって退却した。


永禄十二年九月八日戌の刻、尺限廻番衆から三隊の被害や敗走の様子を聞いた信長は、一つ舌打ちをした後、ただ、「で、あるか」と呟いた。


本陣の篝火は先程の雨でのせいで燻り、いつもの明るさや火勢はなかった。

年末の大掃除で確認したら谷口克広先生の信長や戦国時代関連の書籍だけで10冊以上手元にあることが判明してビックリ。その他に小和田哲男先生、和田裕弘さんなどの書籍も合わせると20冊以上ありました。この感じだと自分、谷口克広先生の弟子みたいなもんですな。ハッハッハ。


信長公記では九月八日の大河内城攻めは夜襲となっておりますが、夕刻からの攻撃に変更しました。また、九月八日の三部隊での夜襲と九月九日の滝川一益の多芸御所攻めは連動しているものとして話を構成し直しております。


少しでも「面白い!」「続きが気になる」と思った方は、下の★でご評価いただけると、作品継続のモチベーションになります。

宜しくお願いします。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ