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433話 永禄十二年 春 坊丸のとある一日

ども、坊丸です。


本日、出仕すると奇妙丸様のテンションが変でした。

そして、疲れ切っている牛助くん。

どうした、何があった?奇妙丸様の話を聞いてただけ?その割には目の下に隈がありますが。

何何?後で奇妙丸様の話を聞いてやってくれ、と。自分は帰って寝たいと。

牛助くん、この感じだと一晩中奇妙丸様の話し相手をしていたのかな?とりあえず、帰って寝てください。牛助くん、お疲れ様&おやすみなさい。


で、孫子の兵法の座学と太田牛一殿の弓の教練が終わり、少しばかりの空いた時間がきました。奇妙丸様の私室には虎丸くんと自分。佐々清丸に稲葉吉祥丸くん、坂井松千代くんの五名。あ、竹丸は夜番ですから不在です。


「皆のもの、金平糖を一粒づつ下げ渡す。集まれ」


奇妙丸様がそう言うと、虎丸くんと自分が前列、二期生の三名が後列となって奇妙丸様の前に並びます。


で、一人一粒づつ金平糖をいただきました。


「うむ、行き渡ったな。皆のもの。それは、昨日、父上からいただいた金平糖の一部になる。皆とともに食べようと思い、準備した。」


「ありがたく頂戴いたします」

「「「「頂戴いたします」」」」


虎丸くんの声の後で、みんなで唱和。


「うむ、食べるが良い」


奇妙丸様が口に入れたのを見て、みんなで金平糖を賞味。まるっと口に入れてガリガリかんでいるものもいれば、ゆっくり舐めているものもいるので、面白いです。


「昨日は、父上に呼ばれて、この金平糖をいただいた。それと、公方様の御屋敷を作っている時に南蛮人、しかもバテレンと何度か面会したとのことであった。なんと、バテレンは不思議な光沢のある黒き南蛮帽と赤いマント、それと金平糖を父上に献上したとのことであった。そして、昨日の父上は南蛮帽と赤いマントを羽織って自分と茶筅に見せてくれたのだ!あの父上のお姿、驚いたぞ!」


あ、このテンションで長い時間語られたんですね、牛助くん。

美的センスのよさはなかなかどうして素晴らしいものがある牛助くんですから、見たことのない南蛮帽とか外套とかには興味持ちそうですがねぇ~。

実物が見られないのにそれを身に着けた信長伯父さんの姿を長々語られるのは辛いかもね。


「そしてそして、父上が言うには、バテレンは、赤茶色い髪の毛をした者や金色に近い髪の者がおったそうじゃ!目の色も水色や碧色のようであったそうじゃぞ!日ノ本の者はほとんど黒髪に黒い瞳であるからな、バテレンは一目でわかるそうじゃ!しかも、しかもだ!南蛮より船に乗り二年も三年もの歳月をかけて日ノ本まで来たのだそうだ!なんとも、凄いことよな!」


あ、南蛮帽被った父上カッコいい!の後はバテレン話ですか。うんうん。外国人初めて見たら、びっくりするよね。見て無くても話だけでも驚くよね。


あ、あれ、奇妙丸様?なんか話の内容が繰り返しになり始めましたよ。あ、これ、だいたい同じ話が何度も微妙に形を変えて繰り返される奴っぽい感じになり始めましたよ。


うん、牛助くん、これはきついね。しかも、一対一だから相槌なんかを打ち続けるしか無いもんね。うん、牛助くん、君の昨晩の頑張りが推し量れるというものだよ。ウンウン。

ごめん、みんな、自分は心を無にして適当に相槌を打つことにするよ。後は、任せた。


そして、竹丸が夜番で来たので、帰宅。

竹丸の話だと、未の刻に柴田の親父殿が京から帰ってきたとのこと。本日夜にでも本国寺の変の後の様子を聞いておこうっと。そして、竹丸には、奇妙丸様のお相手を頑張るように一言声をかけておきました。


え?詳細は伝えないのかって?何事も自分で体験するのは大切なことですよね〜。

それにほら、同じエピソードも三回目なら、語り口が上手くなったり、少しは熱が冷めたりするかもしれないし。


てなわけで、頑張れ!弟よ!

では、兄は帰宅する!さらばだ!


で、夕刻。


「親父殿。長らくのご出陣、お疲れ様でした」


「おお、坊丸か。つつがないか?」


「はっ。奇妙丸様のもと、留守居役の補佐をしておりました。まぁ、事務仕事は林殿や明院殿らがおられまするので、形だけ、にございました。親父殿は、如何でありましたか?」


「何、戦支度で向かったが、翌日には三好三人衆は打ち破られたと知らせがあったのでな。一度上洛して、武威を見せたら岐阜に戻るものと思っておったが、動員された兵を用いてそのまま、義昭様の御所造りよ。

本国寺から屏風絵を運んだり、名石を運んだりと造作仕事を二ヶ月半ほど行っておったわ。

戦のはずが、墨俣の時のようなことばかりさせられていたわ」


そう言うとカッカッカッと呵う親父殿。

いや、墨俣城改修作戦の時、親父殿は、メインの建築作業してないでしょ。自分の記憶と吉田次兵衛さんのお話が確かなら、墨俣城の近くに竹で作った馬防柵を設置しただけでしょ。まぁ、いいけどさぁ。


ちなみに柴田の親父殿のお話では明日は、岐阜に戻った家臣を中心に一同を集めて信長伯父さんからお話があるんだそうです。


あれ?奇妙丸様はそんな予定話してないぞ。ってことは、奇妙丸様&その小姓衆は呼ばれて無いのかな?

それは、それで情報がすぐに確認できなくて困るんですが。まぁ、余計な仕事が減ったとも言えるので、無問題(モーマンタイ)かな。

本国寺の変から御所造営の後、信長が帰ってきた後のゴタゴタに巻き込まれて過ぎていく坊丸の1日。


ルイス・フロイス達イエズス会の宣教師の方々がどれくらいの期間をかけてポルトガル本国から来たのかは、途中のインド各地にて布教活動の期間次第なのです。ルイス・フロイスの場合はゴアに若い頃に移動して布教し、その後日本に来ております。

2-3年かけて移動したと言うのは、天正遣欧使節の日本ヨーロッパ間の移動日数が約2年半かかってあることから、割り出した数日です。

この当時は喜望峰回りしかない上に帆船ですから風次第で長らくどこかの港で足止めとかあったものと推察されます。


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