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431話 信長伯父さん、なかなか帰ってきません。

ども、坊丸です。 


あ〜、梅も咲き、鶯の声も朗らかな候、皆さん如何お過ごしでしょうか。

なんと、信長伯父さんは正月七日に出陣して以来、岐阜に帰ってきやがりません。奇妙丸様と林秀貞殿の留守居役もだいぶ長くなってきております。


まぁ、『信長公記』の知識だとそうなるのは何となく分かっておりましたがね。

『信長公記』のデータによれば、五月十一日に岐阜に戻ってくるらしいですよ。


この間、足利義昭様の為に二条の邸宅を将軍の邸宅兼防衛施設として改築するらしいのです。将軍家御座所ですからね、石垣を組んで簡易的な城郭とした様子です。

御所巻からの偶発戦闘で将軍がサクッとお亡くなりになるような施設や奉行衆の奮戦でも数日しか持たなそうな施設では、さすがに駄目ってことなんでしょうね。


防衛施設以外に公的な面会なども行うわけですからね、御所の中の御殿には細川氏の邸宅から藤戸石という名石を運んだり、近隣の寺などから名石や銘木、襖絵や屏風、絵画などを召し上げて搬入したご様子。

二条御所の普請には、村井貞勝、島田秀満の両名を普請奉行に任じたようですが、藤戸石の搬入の時などは信長伯父さん本人が普請の指揮を執った模様。やる気満々だね〜。


そんなわけで、信長伯父さん、普請の現場にもでてるんですよねぇ〜。

東日本大震災後の福島原発事故の際に事故現場のちかくまでヘリで出かけていって混乱に拍車をかけた某総理大臣みたいになっていないといいんですがね、ええ。


ちなみに、救援に率いた将兵はそのまま、人足としてこき使われているようで、柴田の親父殿なども戻ってきておりません。

そのせいで、糧食や金子をどんどん京都に送らなきゃいけないらしく、林秀貞殿や松井友閑殿が兵站部門としてヒーヒー言っております。

送る金子がなかなか手配できずに、普段使わないような鐚銭(びたせん)も送る羽目になったと伝え聞いております。

いいのかなぁ〜。現代日本だと劣化したコインは銀行さんが回収して、日本銀行に送って処理していただくようですがね。大丈夫なんすかね、鐚銭。

こんな銭は使えねぇ〜!みたいなこと言われるんじゃないかと思いますが。経済に悪影響とかないでしょうか?知らんけど。


二条御所の造成が一段落したところで、内裏の修繕の命令も出したみたいですよ。担当する奉行は、村井貞勝殿と朝山日乗って方。

『信長公記』でも、朝山日乗って名前はここが初出なので、何者なのかよくわかりません。


で、二条御所が落成した後、信長伯父さんは茶器をかき集めたらしいんですわ。

天下第二位の茶入「初花肩衝」、茄子の名器三茄子の一つ「富士茄子」、法王寺秘蔵の茶杓、蕪なしの花入れ、平沙落雁図、江村家の桃底の花入れ等を権力と銭の力で手に入れたらしいです。


いやぁ、茶器収集欲、物欲に素直な信長伯父さん。そこに痺れる憧れるぅ〜。コレクターの鏡ですな。

自分は、高校の授業や京都に遊びに行った時にいただいた抹茶とその時の数物の茶器しか見てませんから、よくわかりません。

あ、細川藤孝殿からいただいた、茄子型の茶入、何か名品の写しらしいのは持ってますがね。


そういえば、かき集めた茶器、茶入二つに茶杓、花入れ二つに床の間用の水墨画ですからね。茶碗がねぇんですけど、いいんすかね。

あと、茶釜も無いっすね。

まぁ、蓋置、水差し、建水に香合はそれほどの名品じゃなくても良いとは思いますが、名品集めるなら茶碗が一番最初じゃないの?って思うのは、素人考えなんでしょうか。


なんて、思って日々をダラダラと過ごしてたら、なんと四月上旬、もうすぐ岐阜に帰るから準備しとけ!ってご連絡があったみたいです。

って、『信長公記』に書いてある日付の一ヶ月ちかくまえじゃん!マジかよ!

そして、そのご連絡とともに奇妙丸様にも信長伯父さんから書状が。

奇妙丸様は、手紙が届くとすぐに目を通すと、わざわざ小姓衆の居る前で音読して頂けました。パパからの手紙が嬉しかったのかな。奇妙丸様ったら、以外と可愛い所あるからね。


まぁ、内容はと言うと、以下の如くでしたよ。


一、四月二十日頃に京をたって岐阜に向かう。南近江を見て回りながら帰るので四日程かかる。林秀貞(はやしのじい)に連絡してあるが、奇妙も知り置くこと。


一、留守居役が長くなっているが奇妙はつつがなく過ごしておるか。茶筅も大事無いか。


一、将軍家御所の普請の現場で、和田惟政に連れられたバテレンに会った。紅毛碧眼という松永霜台の話は本当であったので、とても驚いた。


一、バテレンより黒い南蛮帽子をもらった。岐阜に戻ったら見せてやるので楽しみに待つこと。


一、バテレンは言葉は通じること難しいが、高慢な仏僧たちよりもよほど話の道理がわかる。これについても話してやるので、楽しみに待つこと。


うん、なんか、奇妙丸様の心配とかより、バテレンに会った驚きやワクワクのほうを伝えたい気持ちの方が勝っている文章にみえるのは、自分の気のせいでしょうか?


しっかし、『信長公記』とは岐阜に戻って来る日付が違うみたいなんですが、歴史変わってきてるんですかねぇ?

坊丸が予想より早く帰ってくる信長にびっくりしておりますが、これは『信長公記』の日付が微妙に間違っているのが原因です。

ちなみに、足利義昭の為に作った二条御所の普請開始日も間違っております。言継卿記などでは一月二十七日が普請始なのですが、『信長公記』では二月二十七日になっております。太田牛一は本能寺の変の後、日々付けていた書付をもとに執筆しておりますので、思い違いによる微妙な誤差や書付の劣化による数字の誤読があるのかもしれません。


永禄十二年の二条御所造成、永禄十三年の宮城修善絡みで京都に鐚銭が大量に流入したのは事実のようです。饅頭屋町文書に鐚銭も物凄く品質の悪いものを除いては銭として扱うとする定撰銭条々、銭ではなく米による売買を禁止する精銭追加条々を信長が出したという一文があります。


初花肩衝は言わずと知れた天下の名物。徳川記念財団所蔵。

富士茄子も茄子型茶入の名品で富士の如く優れた品物故にこの名をいただく名品。前田育徳会所蔵。

法王寺秘蔵の茶杓はどのような物か不明。

蕪なしは、青磁の花入れで蕪なし型の物の通称になるので、現存のどれになるかは不明。失伝している可能性もあります。蕪という膨らみがあるタイプの花入れの形に近いもので蕪がないものの一般名称になります。

平沙落雁図は牧渓の水墨画。出光美術館所蔵。

桃底の花入れは、その近くが桃のごとく優美に膨らんだ物の一般名称。江村家は、武野紹鴎門下の高弟、辻玄哉の兄、江村栄紀のことと思われますが、詳細不明。そして、品物も不明。


二条御所普請中に普請現場でルイス・フロイスに会ったのは事実。フロイスの『日本史』によると二条御所完成までに数回会っているようです。


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