430話 やっぱり来たよ、本国寺からの使者
ども、坊丸です。
本日は、一月六日。関ヶ原から吹き付ける雪が岐阜城下も白く染めた、そんな朝。
皆さん如何お過ごしでしょうか?坊丸は寒くて火鉢から離れたくないのを泣く泣く、本当に泣く泣く奇妙丸様の待つ岐阜城へと登城しております。竹丸と一緒に。
平成令和と違い、三ヶ日を過ぎても色々とお正月のお約束行事がまだまだありますが、徐々に通常業務な日々が戻ってきている、そんな感じの日々です。これで、雪の中、岐阜城の表御殿まで歩くのがなきゃ、いつもの冬の光景なんですがねぇ。
で、『信長公記』の記載の通り、やってまいりました。本日昼過ぎ、本国寺からの使者が。
本日は、奇妙丸様の小姓衆として登城しておりますからね、何やら早馬が駆け込んできた後、一気にバタバタし始めりゃ、あ、これは本国寺からの使者だろうと予測がつくってもんです。うんうん。
それで、脳内の『信長公記』のデータのおさらい。三好三人衆の兵が京都に到達したのは一月四日。その日のうちに足利義昭様の仮御所である本国寺を包囲。
その後の日時の記載が無いんで分かりづらいですがね、翌日五日は本国寺の兵力だけで防衛戦を行った感じですかね。六日には細川藤孝、三好義継、池田勝正や伊丹親興らの軍勢が将軍家救援の為に京に到着ってところでしょうか。
で、桂川のほとりにて一戦して、三好三人衆は退散したというような表記になっとります、『信長公記』は。
はい、つまりは、現在、三好三人衆と細川藤孝殿達は絶賛京都桂川のほとりにて防衛戦を展開中のはず。きっと、たぶん。
そして、この後、信長伯父さんは大急ぎで京都に向かうんですよね。通常三日かかるところを二日で向かったという記述が『信長公記』にありますから、めちゃ早で向かうはず。
雪の中、京都まで向かう信長伯父さんもすごいけど、正月四日に京都に攻め寄せる三好三人衆も大概だよね。
だって、正月休み無しで軍を編成して、正月二日か三日は京都に向けて行軍してたってことでしょ。いやはや、三好三人衆に従う足軽の皆さん、正月休み無しでの軍事行動、お疲れ様です。
あ、柴田の親父殿に軍勢準備しとけって言ってないわ。ハッハッハ。完全に忘れとった。
まぁ、大急ぎで行って、最後は十騎で京に入ったって『信長公記』に書いてあるからほとんどの将や兵は置いてきぼりにして急いだんでしょうな。
なら、柴田の親父殿にも活躍の場が巡ってくることはなさそうだし、まぁ、良いか。
あ、奇妙丸様!
二期生達との挟み碁は終わりですか。坊丸歌留多で一遊びするんですね。了解です。準備しますね。
え?お桂殿、火鉢が寂しいから炭をもらってきてほしいですって?牛助、吉祥丸くんといっしょに行ってくれる?ついでに炭もらう手続きも教えといて、お願いね!
☆ ★ ☆ ★ ☆
時は少し遡り、岐阜城大広間。
信長は、本国寺から駆け通しでやってきたという使者に会っていた。
「申し上げます!三好三人衆の率いる軍勢が本国寺を囲み、御所巻のような有り様になってございます。将軍家ご奉公衆が守りを固めておりますが、信長様に急ぎ救援の軍を発していただきたくお知らせに参りました」
「な!真か!わかった。急ぎ、義昭様のもとに向かう。当家以外に救援依頼の使者は出ておるのか!」
「信長様以外にも、細川様、河内の三好義継様、畠山秋政様、摂津三守護の方々、若狭、近江に使者をだしたと聞き及んでおります。大和の松永様はこちらに参られていると聞き及んでおりますゆえ、この後、岐阜での所在を教えていただければ、すぐにでもお知らせに行く所存でございます」
「で、あるか。あい、わかった。久秀には儂から知らせる。使者殿は、雪の中、急ぎ知らせてくれたこと、大変に大義。宿を用意させる。すこし休むが良い」
「はっ。では、松永様への言づけよろしくお願い申し上げまする。ですが、義昭様のもとに信長様ご出陣の一報を届けねばなりませぬ。半刻ほど休息したら、京に向かう所存。願わくは、替え馬を賜りたく」
「うむ、そなたの篤い忠義、見事。替え馬を準備させる。また、我が領内の通行にあたり便宜を図るよう添え状をもたせる。しばし、休め」
「お心遣い、ありがたく。では」
そういうと、小姓に先導されて、下がっていく使者であった。
「堀久、松永殿に今の内容を知らせ、支度させよ。ともに京にむかう。佐脇、他の小姓衆と手分けして城下にいる家臣に触れを。取り急ぎ、軍を整え、明日朝に京にむけ出立。義昭様を害そうとする三好三人衆の軍を討つ、と」
「「ハッ」」
走り出す両名を見送り、一つため息を付く信長であった。
「くっ。坊丸の小僧が言うた通りになったか。まっこと、あの小僧、面妖な。まるで、先が見えているかのようではないか。まぁ、使えるのは間違いない。奇妙から引き剥がして儂の小姓とするか…。いや、たまたま、たまたまかもしれん。そこまですることはないか」
まるで、自分にそう言い聞かせるように、呟く。そして、右手の扇子を左手に打ちつけてわざと音を立て、切り替えるように頭を一、二度振った信長は、いま一度目をつむり、今度は息吹を長く吐き出すように嘆息するのであった。
永禄十二年一月六日夕刻。岐阜城下は出陣の準備をする将兵で大変な騒ぎとなった。
翌七日朝、辰の一点、信長軍は準備時間の短さ、冬の早朝という悪条件にもかかわらず、数千の兵を岐阜城下に集めた。輜重の補助として急に駆り出された馬借たちが荷物の重さで一悶着あったが、なんと信長本人が馬借達の元に赴き、騒ぎを解決する一幕もあった。
岐阜城下をたった信長軍は、強行軍で移動した。
岐阜を早朝にたった一行は、その日のうちに北近江の門根城下(現在の滋賀県米原市三吉地区、高速道路の米原ジャンクションのある付近)まで移動したのだ。
そして、門根城を領有する堀秀村、その重臣の樋口直房にあい、信長自身は門根城に宿泊。
軍勢はその周辺の神社仏閣、八坂神社や総寧寺、樋口館、少し離れた山津照神社、青木館、醒井宿に分かれて泊まることになった。
翌一月八日。前日同様に辰の刻から動き出した信長軍のもとに急使が到着した。
「信長様にお知らせいたします!義昭公はご無事にございます!細川様、三好義継様、摂津三守護の皆様の奮戦にて、桂川付近にて三好三人衆の軍を撃破!三好三人衆の軍勢は堺まで退いたとのことにございます!」
「で、あるか。それは、重畳。義昭様の無事が何よりである」
信長の付近に詰める小姓、丹羽長秀、河尻秀隆、池田恒興らもほっと安堵の声が思わずでる。
当然、彼らとしては強行軍で移動する必要がなくなったと思ったからである。
「皆のものに申し伝えよ、当初の予定を変え、軍勢は明日は佐和山、明後日は矢島御所、明々後日に京に入るように変更。儂は、義昭様の様子をいち早く見るため、今このときより早駆けにて本日夜には京に入る。騎馬にてついてこられるもののみ、ついてこい。長秀、そなたはあとに続く軍を今のごとく動かせ。儂についてくるのは小姓衆、母衣衆のみで良い、急ぎ支度せよ!」
「「「ハッ」」」「「はっ?ははっ」」「はっ」
佐脇、山口、長谷川らの古参の小姓衆は、桶狭間と同じだなと懐かしさすら覚えながら、大急ぎで支度に取り掛かる。
ゆっくり動けば良いことがわかっている丹羽長秀は落ち着いて拝命したことを明らかにした。
川尻、池田の両名はまた信長様の気分屋なところが出たと、天を仰ぎ、呆れながらも支度に取り掛かる。
そんな両名の肩を優しく叩いて丹羽長秀は自分の仕事に向かうのだった。
信長の岐阜-京都間の通常の移動は「信長公記」そのたの資料を見るとだいたい以下のとおりです。
一日目 岐阜発→垂井宿もしくは関ケ原着。宿泊。
二日目 垂井宿もしくは関ケ原発→佐和山城近辺着。宿泊
三日目 佐和山城付近発→守山近辺着。宿泊。
四日目 守山近辺発→午後早めに入京。
一日あたり、35キロから45キロくらいですね。歩きの供回りもいることを考えればまぁ、妥当かと
これに対し、今回の予定行軍以下の通り
一日目 岐阜発→門根城付近着
二日目 門根城付近発→守山近辺着
三日目 守山近辺発→京都到着
予定通りなら一日50キロ弱を移動しております。
そして、予定を変更した信長様の動きは以下のごとく。
一日目 岐阜発→門根城付近着
二日目 門根城付近発→京都到着
門根城あたりから少数の騎馬のみで馬を飛ばしに飛ばして、その日の夜に六条本国寺についたというわけです。そりゃ少数の騎馬のみになるよね。
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