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429話 永禄十二年 新年の儀 後段

ども、坊丸です。


新年の儀での今年の施政方針演説的な奴が終わりました。六角討伐&南伊勢の北畠攻めをするぞって感じですね。まぁ、『信長公記』の内容を知ってるので、その前に六条の戦いこと本国寺の変が入るんですけどね。


それはさておき、後はいつもの家臣からの挨拶です。


例年の如く、重臣から始まるわけです。


で、最初は筆頭家老の森可成殿。森虎丸君のお父さんですな。


金山城城主となって東美濃から中美濃の抑えを担当中。昨年の上洛戦では観音寺城、箕作城、和田山城を攻めた際には観音寺城攻めを柴田の親父殿と一緒に担当。まぁ、この時は、主攻は箕作城攻めで、二人で観音寺城を抑え込んでいた感じだと柴田の親父殿はお話してました。

その後は、長岡の勝龍寺城攻めの先鋒をこれまた柴田の親父殿と蜂屋頼隆殿、坂井政尚殿と担当したとのこと。まぁ、本隊が来る前に実質落城させたようです。織田家の武の双璧、柴田の親父殿と森可成殿に本気で力攻めされたら、そりゃ相当堅城か名将じゃなきゃ無理だろって話ですよ。


続いては二番家老の佐久間信盛殿。佐久間牛助君のお父さんですな。


現在は鳴海城を中心に尾張南部で対徳川、対水野&佐治を担う東方の要。昨年の稲葉山城戦では出陣してましたね。徳川家が武田と今川家への抑えを果たしているので、上洛戦にもかり出されたらしく、箕作城攻めに参加したらしいです。あまり活躍したとは聞いてませんが。


三番家老は柴田の親父殿。


上洛戦では、観音寺城の抑え、勝龍寺城での先鋒としてご活躍。武人としてのお仕事が多かったので、面目躍如といったところでしょうか。


そして、次は丹羽長秀殿。


戦に政治に、調略や取次もできるオールラウンダーの丹羽長秀殿は、箕作城攻めでご活躍だったそうです。上洛した後は、京都で公家や幕府要人等との折衝をこなしていたらしいですよ。文武両面で陰日向なくお仕事をこなすさすがは米五郎左。


で、部将格筆頭から一気に地位を上げてきた滝川一益殿。


伊勢方面を実質的に一人で切り盛りしてますからね。武力、調略の両面で働いております。長野家には織田信包殿を、神戸家には勘八丸様改め三七郎様を養子に送り込むという、養子でお家乗っ取り戦術の素地を作ったと言っても過言ではないでしょう。上洛戦の間は南伊勢の北畠家を抑えていたらしいですよ。


その後は佐久間盛次殿。


理助のお父さんですね。犬山城城主を実直に務めているご様子。箕作城攻めに理助改め佐久間盛政殿と参加したそうですが、ご自身は右足に深手をおったとのこと。盛政殿は奮戦したそうですが。まぁ、無理せず、犬山にて養生してほしいものです。


そして、家老格最後は、林秀貞殿。


林殿は最近、完全に外交担当。上洛戦にあたって浅井家と領土通行の交渉等をしていたご様子。義昭様との交渉事は村井貞勝殿、島田秀満殿がメインであたっていましたから、ちと、活躍の場が減りつつあるご様子。


部将格は筆頭が木下秀吉殿が繰り上がりで筆頭に。


まぁ、秀吉さんが降格したって言うよりは滝川一益殿がその上に飛び込んできたって感じでしょうか。


墨俣城城代を務めていますが、上洛戦では箕作城攻め、特に夜襲の時に活躍したそうです。箕作城に弓の名手がいて日中はそのせいでかなり苦戦したのを、夜襲で対策したのだと。さすが、そういう知恵が回りますなぁ、秀吉殿は。


そのあとに、坂井政尚殿、梁田正綱殿、蜂屋頼隆殿、金森長近殿、河尻秀隆殿、浅井政澄殿。


坂井殿と梁田殿はそれぞれ楽田城城主、沓掛城城主を務めております。

坂井殿は、勝龍寺城攻めで柴田の親父殿と一緒に先鋒の一人として活躍したとのこと。


梁田殿は、上洛戦には不参加のご様子。佐久間信盛殿が上洛戦に参加していたから、三河方面で留守居役だったのではないでしょうか。知らんけど。


蜂屋頼隆殿も柴田の親父殿と一緒に勝龍寺城攻めの先鋒だったはず。


金森長近殿は上洛戦では、柴田の親父殿から名前聞かなかったんですよねぇ。美濃攻めでの褒賞として確か関城の近く吉田に領地もらってたはずだから、遠山党、東美濃の抑えをご担当かな。


河尻秀隆殿は上洛戦では信長伯父さんの母衣衆馬廻り衆のまとめ役だったらしいです。なので、自身の活躍は無し。信長伯父さんが居る本陣の統括責任者みたいな感じでしょうか。


浅井政澄殿は、箕作城攻めの攻め手の一人、だったはず。どんだけ活躍したかは知らんけど、脳内にある『信長公記』には箕作城攻めの攻め手の一人として名前がわざわざ記載されてました。なんか活躍したのかな?知らんけど。


次いで、美濃衆の方々。


美濃衆筆頭は斎藤新伍利治殿。森可成殿が上洛戦に駆り出されておりますので、対武田・対遠山党を美濃に残って頑張っておられました。まぁ、斎藤利治殿が居るから奇妙丸様が岐阜城で留守居役をしても大丈夫なわけで。東側の盾となっていただきありがとうございます。


弐番手は、西美濃三人衆筆頭の氏家直元殿。

参番手は、西美濃三人衆の一人、稲葉良通殿。

四番手は、西美濃三人衆の一人、安藤守就殿。


三人衆一纏めで、観音寺城の支城、和田山城を攻めることになったそうなんですが、活躍する前に信長伯父さん率いる本隊が箕作城を攻め落としたというお話。

『信長公記』では、先鋒として使い潰される覚悟で城攻めに臨んだのに、先に箕作城を本隊が力攻めしたので、「意外ななされようだ」と驚いたらしいですよ。やれやれ、まだまだ西美濃三人衆の方々は信長伯父さんを分かっておられないご様子。


五番手に不破光治殿。


何故だが知りませんが、信長伯父さんには気に入られたご様子。武将としてよりも足利義昭様との交渉役、接待役としてご活躍。


その後、竹中重矩殿、加藤光泰殿、井戸頼重、丸毛兼光殿などなど…。


伊勢衆として、長野家に養子に入った信包殿。

そして、神戸家からは三七郎殿の代理で岡本良勝殿。あ、よく知らない付家老の人達もいたけど、三七郎殿の代理は岡本殿なんですな。

国府田、峯、鹿伏兎の当主の方々もいらしているようです。


近江衆は、山岡殿、蒲生殿、後藤殿、進藤殿、青地殿、平井殿など。

ここらへんは六角家から離れて織田家についた国人衆なのでよくわかりません。あ、蒲生殿は信長伯父さんのところにお子さんを小姓衆兼人質として出してましたね。


黒母衣衆筆頭の河尻秀隆殿は城主も務めるので最近は部将格として扱われております。

黒母衣衆筆頭を譲るのはいつの日なんでしょうか?


赤母衣衆筆頭は池田恒興殿。滝川一益殿が部将格筆頭にクラスチェンジしたので、その後釜は自動昇格で池田恒興殿になったご様子。


その他の母衣衆は、佐々成政殿、中川重政殿、津田盛月殿、塙直政殿、前田利家殿。毛利新介殿や野々村幸政殿、福富秀勝殿などもいます。


連枝衆では、信治、信興叔父さんがそれぞれ、尾張野府城主、尾張小木江城主を努めております。信包叔父さんは、伊勢衆の長野家当主にクラスチェンジしてたから、ここにはおりません。

後は、元服したばかりの叔父さんや信長伯父さんから見て従兄弟に当たる方々。信光大叔父さんの息子さん方ですな。


その後は、母衣衆・連枝衆より一段格下の馬廻り衆。奉行衆や右筆、小姓などなど。いやぁ、昔に比べるとだいぶ人が増えましたな。


そんな感じで、みんなの挨拶を広間の袖で聞いておりましたとさ。


あ、奇妙丸様の小姓役を務めた二期生の四名は終わって帰ってきた後、緊張から解放されたせいでしょうか、しばらく惚けておりましたよ。

まぉ、佐々清丸君とうちの竹丸を捕まえて、とっと帰りましたけどね。

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