424話 おかえりなさい
やっと坊丸パート。2回で上洛戦をまとめたのを褒めて欲しい。
ども、坊丸です。
時は永禄十一年十月。先日、無事に足利義昭様が将軍宣下を受けられたと岐阜に早馬が来ました。で、二十七日には岐阜に帰るから準備しとけ!って早馬が到着。祝の宴席や諸手続きが終わったら、サクッと帰ってくるんだね、信長伯父さん。そして二十八日には岐阜に帰って参りました。
なので、表御殿で留守居役の奇妙丸様と林秀貞殿がお出迎えするわけです。と、なると自分たちも奇妙丸様のそばに控えるわけで。
「林秀貞、奇妙。今帰った」
「無事のお帰り、終着至極にございまする」
「父上のお帰り、待ちわびておりました」
「で、あるか。義昭様も無事に将軍となられた。めでたい。とりあえず、休む」
「「ははっ」」
って、上洛戦して、将軍就任まで持ち込んだ最大の功労者なのに、普通なら色々言うことあるだろうのに、挨拶、短!
まぁ、それが、信長伯父さんの味なんですけどね〜。
ただ、ねぇ〜。歴史通りだと、また問題が起こるはずなのよ。年明けすぐにね。六条の戦いとか本国寺の変とかいわれるやつね。
あ、本能寺じゃないよ。本国寺ね。『信長公記』の知識だと三好三人衆と斎藤龍興、長井道利が薬師寺九郎左衛門貞春を先陣の大将にして足利義昭の仮の御所である本国寺に攻め込むんだって。
三好三人衆の方々、一度、阿波まで撤退したのにすぐ京都に戻ってくるなんて大変だね。ってか、斎藤龍興と長井道利っていつの間にか三好三人衆に合流してたんだ。伊勢長島に落ち延びたって噂を聞いていたから、いつの間にか畿内の方に移動していて、びっくりだよ。
それはそうと、今回の上洛戦で織田家はかなりの戦死者、負傷者を出しました。
箕作城攻め、池田城攻めは特に苛烈だったそうです、柴田の親父殿のお話では。
箕作城攻めでは千五百人ほどの死傷者が、池田城攻めでは桶狭間の戦いでも奮戦した水野信元配下の梶川高秀殿が戦死。信長伯父さんの馬廻り衆も負傷者を出したそうです。
そして、柴田家の姻戚である佐久間盛次殿が観音寺城の戦いで右足に深手を負いました。今まで、奇跡的に柴田家の関係者で深手を負った人がいなかったので、ショックです。よく柴田の親父殿が、常在戦場、戦場に出れば生死は紙一重、戦で亡くなる覚悟を持って戦場に出ているといったことを話していましたが…。身近な人の負傷のせいで、『今って戦国時代なのよね…』って久しぶりに実感が押し寄せてきました。
佐久間盛次殿は、しばらくは犬山城で療養しながら、城主仕事に専念するそうです。
ちなみに、佐久間盛次殿の嫡男、理助は上洛戦の直前に無理を言って元服し、佐久間盛政と名乗りました。
烏帽子親は理助本人のたっての希望で佐々成政殿が務め、諱も成政殿の一字をいただいて、『盛政』に。佐久間一族って通字みたいなのが『盛』だから、一字偏諱をいただくと『盛政』になった様子。
上洛戦に参加して初陣を飾ったわけです。理助改め盛政君、箕作城の戦いでは活躍したと柴田の親父殿が言ってました。
あれ?お父さんの佐久間盛次殿が負傷したのも観音寺城の戦いなんだよね。それで奮戦したのかな?
そうそう、元服初陣を経て、理助こと佐久間盛政君は奇妙丸様の小姓衆を離れました。
奇妙丸様と一緒に武芸の訓練をする時に矢面に立ってくれる貴重な人材を失いました。それはそれで悲しい。
それはそうと、帰ってきた信長伯父さんは、矢継ぎ早に政治を行っていきます。
まずは、国内の関所の撤廃。領国内の関所を廃止して通行往来の自由度を高めました。
ていうか、関所は人間が運営するからね、夜は閉まっちまうですよ。だいたいの関所は明け六つ過ぎに業務開始して暮れ六つまでに入った人を審査通行許可を与えたら、閉門ですから。
関所は、現代のコンビニみたいに二十四時間営業はされておりません。まぁ、この時代に夜間に移動しようとする人間なんざ、盗賊と奇襲目的の軍勢だけってもんでね。
領主様が先触れすれば夜間でも関所を開けるんだろうけど、手続き面倒だよね、きっと。
とりあえず、関所の撤廃で商人の行き来が活発になったりするはずです。そして、岐阜城下から加納宿辺りまでには以前に出した楽市楽座令が生きてますからね。岐阜城下で一商売してやろう、一山当ててやろうって商人が訪問するようになる…はずです。きっと、たぶん。
他にも、南近江の領国化を図って色々な施策が。自分が考えた石高あげちゃうぞ大作戦こと農業改革の普及とか。代官の派遣とか。
でもね〜、自分思うんですわ。
『信長公記』の知識によると、金ヶ崎の退き口の後、南近江の交通確保のため重臣を南近江各所に配置するらしいんですよ。って、ことは、本国寺の戦いの時点で既に重臣達を配置しておけば、本国寺での三好三人衆との戦いは楽に勝てたんじゃね?と思ってしまうわけですよ、坊丸君は。
ま、最大の問題は、最近色々とありましてとみに偉い人になった上に、超絶忙しそうな信長伯父さんにそんな提案できる場があるのかということですがね〜。やれやれ、だぜ。
本圀寺は現在、山科に移っていますが、この当時は京都六条堀川にあったそうです。そして、現在は本圀寺という名称ですが、これは徳川光圀が母の追善供養を本国寺で行った後に、自身の圀の字を使うよう命を下したので、本国寺を本圀寺に改めたそうです。なので、本作では当時の漢字である「本国寺」で記載します。
薬師寺九郎左衛門が信長公記に出てくる名前。wikiなどには諱が貞春とされております。ちなみに薬師寺弼長という方も居て、東寺百合文書WEBて永禄8年10月に東寺宛ての禁制を薬師寺九郎左衛門弼長が出しているので、この人も諱の候補に挙がります。同時期に薬師寺九郎左衛門が二人いたのか?短期間で名前を変えたのか?謎ですね。
なお、薬師寺家は細川家で摂津守護代を務めた事がある家柄のようなので、三好一党でもそれなりに重用されたのではないでしょうか。もしかすると、既に亡くなったか動けない三好宗渭の代理を務める為に駆り出された人物かもしれません。三好宗渭は旧細川家臣団の取りまとめ役でしたから。
佐久間一族は桓武平氏の三浦氏系で和田義盛の流れに属する一族。名前の由来は鋸南町の佐久間郷を領有したことから。源平合戦で活躍した和田義盛の流れに誇りを持っているので『盛』を名乗る人が多く通字のようになっています。
佐久間盛次は嫡男盛政が突出しすぎたのをカバーして負傷した設定です。で、親父が自分のせいで負傷したので、キレて獅子奮迅、夜叉鬼神の如く奮戦した、という設定。書籍版になったら、ショートストーリーで盛政元服から盛次盛政父子のこの話も書きたいところ。そういうわけで、本編では書きません。外伝ばかり書きたがる火浦功先生みたいなことはしないのです。
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