423話 上洛戦
上洛戦を駆け足で。坊丸君出ないからね。
南近江の六角家を蹴散らした後、信長は守山、三井寺を経て九月二十八日入京。その後東福寺に陣を敷く。
対する三好三人衆は観音寺城落城の報を受け、岩成友通が山城の國は長岡にある勝龍寺城に、三好釣竿斎宗渭は山城國木津城に、三好長逸は摂津の芥川山城に各々兵を集めていた。
三好三人衆は、三好家一門衆の重鎮格の三好長逸、畿内家臣団筆頭格の岩成友通、旧細川家臣団の取りまとめ役の三好宗渭という位置付で理解されることが多いが、彼らの居城にも意味があるのだ。
三好三人衆の居城、それは三好長慶以来の三好家本陣とも言える芥川山城に三人衆筆頭の三好長逸がはいり三好家としての政権を維持、松永久秀の勢力下にある大和、奈良盆地と山城國の境界と言える木津川付近に三好宗渭が在城し松永久秀を牽制、京都と芥川山城の中間地点に畿内衆のまとめ役で文官としても有能な岩成友通が主として三好長逸、時に三好宗渭と連絡を取りつつ、兵にて京都に圧をかけ、また文章や有職故実にて京の公家達とやり合うと言うものであったのだ。
そして、足利義栄は芥川山城から二里弱、現在の距離にして七km程度南に行ったところにある富田の普門寺を御所代わりとしていた。また、阿波讃岐衆をまとめる篠原長房は芥川山城や普門寺から西に八里ほどの摂津越水城に在城していた。
東福寺にてこれらの情報をつかんだ信長は、まずは勝龍寺城を攻めることを選択する。
信長本隊に先行して森可成、柴田勝家、蜂屋頼隆、坂井政尚らを勝龍寺城に向け出陣させる。
城外にて野戦があったが、四将は危なげなく緒戦を制した。その報を受け信長本隊が勝龍寺城に向かう。が、その間に四将の攻撃を受け、岩成友通は城を明け渡し退散。信長本隊が勝龍寺城の北、現在の向日市寺戸に布陣した時には、既に勝龍寺城は落ちているという有様だった。
勝龍寺城落城の一報を聞いて、三好宗渭は焦った。その理由は、自身の居る木津城が袋のネズミと成りそうだからである。
木津城から北には織田の大軍、南にはここ数年争っている松永久秀率いる大和衆。つまりこの二者に南北から挟まれる形になるのは火を見るより明らかだからだった。
そして、そのことに気づいた三好宗渭は速やかに木津城から脱出し、一路西に向かうのだった。これで、山城の重要拠点が二つ、落ちた。
そして、今までと同様に信長の豪運が炸裂する。永禄十一年九月下旬。十四代将軍足利義栄が病に倒れたのだ。
足利義栄が健康で覇気に溢れた人物であれば、観音寺城が攻め落とされた時点で、足利義昭と織田信長に詰問状を送っただろう。
そして、自分に従わないとあらば、将軍としての賊軍討伐の御教書を畿内から各地の大名小名に送り軍勢をかき集める事もできたはずだ。
さらには朝廷に参内して、幕府と朝廷の威光を無視する賊軍、朝敵やそれに準じる存在だと義昭を認定させて貶める事もできたはずであった。
義栄自身にその覇気や行動力が無くとも、朝廷と良好な関係を築いた三好長逸であらば義栄とともに参内してそれと同様な事ができたはずである。
が、肝心の十四代将軍足利義栄は病にて臥せった。足利義昭と織田信長が軍を率いて上洛した頃、足利義栄は軍務からはなれ阿波にて療養すべく篠原長房とその軍勢に守られて瀬戸内海を渡海する準備をしていたのだ。
彼が健康であれば、御教書にて軍勢は容易く集まっただろう。そして、足利義尚が六角家討伐の際にしたように鎧兜を身に帯びて、軍の先頭に立ち軍勢を鼓舞できれば、織田信長と足利義昭も容易には畿内を制することができなかったであろう。
が、足利義栄の体調はそれを許さなかった。つまりは、三好長逸の描いた対義昭戦の絵図は義栄の体調不良により実現不可能になった。それどころか、主力の一翼を担うはずの阿波讃岐衆は、足利義栄を案ずる篠原長房に率いられ義栄を奉じて四国に向かう途中と言う有様であったのだ。
信長の軍が永禄十一年九月二十七日山城國をたち摂津に入ると、二十八日には芥川宿に火を放つ。さらに二十九日には芥川山城の麓の市街を焼いた。ここに至り、三好長逸と細川晴元嫡男の細川六郎は城を落ち延びた。
普門寺に義栄はなく、三好三人衆の居城いずれもが数日のうちに落ちるという有様であり、篠原長房と阿波讃岐衆は十月二日越水城を放棄し、足利義栄を守って阿波に移った。
これで、三好三人衆側の重要拠点はいずれも落城か放棄されるということになった。
これで速やかに畿内を制したかに見えたが、摂津池田城の池田勝正が頑強に抵抗する。しかし信長軍が池田城下を焼き力攻めを始めるとさすがに降伏。
義昭と信長は芥川山城に入り、摂津、山城、河内、近江、和泉の五畿内、さらには播磨や丹波の大名小名がこぞって挨拶に訪れた。また、公家たち名刹の高僧たちの挨拶を受けたという。
その後、大和の征伐を行った信長は、十月十四日に足利義昭に供奉して京都本国寺に入る。
そして、十月十八日、足利義昭は宿願である将軍宣下を受け、室町幕府十五代将軍になる。
永禄の変後、幽閉先の興福寺から逃げ出してから三年余りの月日がたっていた。
なお、足利義栄は九月末から十月二十日の間に亡くなっているそうです。朝廷の方々、将軍位を二人にあげてるじゃん!って問題は最大二日しか被らないのでOKみたいです。キチンと足利義栄側に将軍位を召し上げるって連絡をだしてからじゃないとダメなんじゃないかと思いますが。
それとも、足利義栄が既に亡くなっている情報をどこから掴んでいたんでしょうか?朝廷の方々。
だとすると、足利義栄の亡くなった日は十月十八日以前ということになるわけですが…。
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