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422話 観音寺城の戦い

残念なことに坊丸くんを絡ませる事ができませんでした。困ったもんだ。

永禄十一年九月。

六角承禎、義治父子に足利義昭が開く予定の幕府要職就任を呈示して味方につけようとした信長であったが、六角父子はこれを拒否。六角父子に拒否された信長は力による六角家の征伐と南近江を押し通ることを決心する。それと、南近江の領有も。


一度、岐阜に戻った信長は、九月七日、織田信長自身率いる直轄の兵一万五千、尾張美濃北伊勢の重臣や国人衆らの兵、三河松平からの援軍三千、北近江浅井から援軍一千を加え、総数五万とも言われる軍勢を率いて岐阜を出立。


九月十一日、織田軍は近江愛知川の北に陣を敷く。


これに対して、六角勢は、観音寺城に六角承禎父子と千人を、観音寺城の北東にある和田山城に田中治部ら六千を、観音寺城の後詰と言える西南西にある箕作城に三千の兵を入れて守りを固める。その他の支城十八にも兵を集め、徹底抗戦の構えを取った。


ここで織田信長は、敵主力が籠城戦を選んだ時に行う彼らしい戦術(テクニック)を披露する。


すなわち、敵主城と前衛の城を動けない程度に攻めつつ、敵主城が最も頼りとする後詰兼後退先と予測される城を先に全力で落とすと言う戦術である。


佐和山城下までは浅井家の勢力下であり、そこから和田山城までの間にも山崎山城や目加田城をはじめ支城は幾つかあったが、織田軍は小勢の支城は全て無視して、愛知川北岸まで進んでいる。


和田山城に対しては西美濃三人衆をあて、観音寺城には織田家の誇る武の双璧、森可成と柴田勝家をあてる。

そして、信長、佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉、浅井政澄に率いられた主力は、観音寺城を無視して後詰の箕作城に攻めかかかる。


本作にて既に記したとは思うが、本来、籠城戦は後詰があってこそ勝利が得られる。

後詰が来た時、後詰による挟み撃ちにあうことを嫌い攻城側が撤退するか、後詰および城から打って出る兵を両方相手にする守備方有利な状況の後詰決戦を行うかになる。

つまり、後詰が無い籠城戦というのは、何か大きな異変が起こらない限り、決定的な敗北をただただ時間をかけて迎えるだけということになるのだ。


そして、観音寺城は街道に向けて開けた作りとなっていて、単独では防御機構としての能力は低いと言う評価がある。

すなわち、北から来る軍に対しては和田山城が、南から攻められた場合は箕作城が前衛の城として働き、それを観音寺城ともう一方の城が連携して後詰をするという、三つの城の連携が前提の城郭であったというのだ。


それに対して、信長は和田山城を攻めると見せて、主力を後詰で万一の退避場所に当たる箕作城に向かわせた。


九月十二日。数時間続いた織田軍の猛攻も日没に合わせて、潮が引くが如く落ち着いた。

大和日置流(別称吉田流)の弓の妙技と我慢強い指揮にてしのぎきった吉田出雲守重高は、一息ついて、周囲に最低限の夜間警戒の指示を出すと、弓矢を抱えるようにして本丸大広間にて座りこんだ。


夜襲があるかもという気持ちと、さすがにこれだけ攻め寄せれば、攻め手も今晩くらいは一休みするだろうと言う淡い期待を持って自身の強弓を身のそばに置いて、身を休めたのだ。


織田軍も攻めあぐね、攻めつかれて一休みしたい流れであった。

が、木下秀吉の麾下蜂須賀正勝は、あえて夜襲を秀吉と信長に提案した。 

弓の名人がいるならば、夜襲だと。

あえて兵から少しずれたところに松明を灯せば、そこばかりを見て、明かりのちかくばかりを射るだろうと。 

そこに案山子を立てておけば、敵は動かぬ的に弓を射掛けるのに忙しく、守りは雑になるだろうと。

この蜂須賀小六の発案を呑んだ信長は、木下隊を主力にして箕作城に夜襲をかけさせる決断をする。


結果、木下隊の奮闘もあり、昼間の損害より少ない損失にて箕作城は落ちた。が、それでも信長方の兵の死傷者は千五百にのぼった。これに対して箕作城側の死傷者は二〜三百。多くの戦死者負傷者を出したが、信長は箕作城を翌日十三日未明には、占拠するに至る。


然る後、織田信長は箕作城に陣を敷き、丹羽長秀らが率いる部隊は和田山城に向かう。

そして、彼らが和田山城を攻めるために向かう間に、箕作城落城の一報は和田山城の守備隊にも入った。

自身の後詰として期待していた箕作城の落城の一報は、和田山城内を混乱に陥れる。守将である田中治部は、野良田の戦いをはじめ六角家の主な戦に参加してきた歴戦の将であったが、その報に触れると、一日で城を落とす織田軍の苛烈な攻撃に恐れおののき、間道から逃げ去る始末であった。


箕作城、和田山城の陥落の報せを受けた六角承禎父子は、支城にして連係するはずの二城の余りに早い陥落に驚愕した。織田軍が愛知川北岸まで攻め寄せてきたのを確認し、十二日昼に三好長逸、岩成友通らに援軍要請の使者をだしてまだ半日とたっていないのだ。

六角承禎父子としては、和田山城、観音寺城、箕作城の連係にて守りを固め、敵の後背を脅かしながら時間を稼げば、三好三人衆の援軍が来てくれるだろうと考えていた。そして、三好三人衆の援軍が後詰となれば、織田軍も退くだろうし、万一後詰決戦となれば自分たちが有利と考えていたのだが、その計画は余りに早い二城の陥落にて脆くも崩れさった。


そして、六角承禎父子は、観音寺城から落ち延びて、甲賀郡に潜んでのゲリラ戦を選択する。そう、祖父高頼が鈎の陣、延徳の乱で行った戦術を選択したのだ。


城に残った兵たちの抵抗虚しく観音寺城は落城。十八ある支城に籠る国人領主達も日野城の蒲生賢秀以外はそうそうに信長に降った。


その蒲生賢秀は、孤軍奮闘、頑強に抵抗を続けたが、娘婿の神戸具盛の説得を受け人質を出すことで許され降伏した。


この人質こそ、史実では蒲生氏郷になる鶴千代である。そして、蒲生賢秀も六角家への忠義と抗戦の際の指揮や戦術を評価され、史実では信長に厚遇されることになる。しかしながら、この時間線での彼らがどうなるかはいまだ不明ではある。


かくして、南近江の大部分はたった数日で織田信長の軍門に下ることになった。


永禄十一年九月十三日。

夏の薫も薄くなり、琵琶湖の水面に秋風が吹き抜けるころ、かくして南近江の主は宇多源氏の名門六角家から織田信長に変わることになったのだった。

上洛戦争はサクッと流す予定だったのですが、以外と長くなってしまいました。困ったもんだ。


箕作城の守将は吉田出雲守とありましたので、六角承禎との絡みを考えると弓道で有名な大和日置流、吉田流の吉田重政、重高、重綱と想定。出雲守を名乗ったのは重政と重高ですが、年齢を考慮して本作では重高としました。


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