406話 浅井長政の諱のこと
考察回をなので、坊丸君のことだけが気になる人は読まないでOKで〜す。
さて、今回は考察回です。本編に関係はないので、本作品の中での坊丸、信長達の動きのみが気になる方は一応、読まなくても大丈夫な構成にしてあるつもりです。
以下は論証になるので「ですます調」ではなく「である調」になります。ご理解を。
さて、皆さんは浅井長政の初名が賢政なのはご存知だろうか?歴史にある程度造詣が深い読者諸賢であれば周知の事実だと笑われるかもしれないが、一応確認である。
浅井長政は永禄二年に元服して、六角義賢の諱から偏諱をもらい、その名を賢政と名乗った。そして永禄4年に「賢政」から「長政」に名を改めている。
初名の「賢政」、これは、父久政が親六角路線を取り、半服従状態、従属国状態となっていたため、元服と同時に六角義賢からの偏諱を受けたという理解で間違いはないだろう。そして、元服と同時に六角家の重臣である平井定武の娘と結婚している。
が、この浅井久政による親六角路線は、浅井氏内部の路線対立から家臣団によるクーデターが起こることによって終結をむかえる。その結果、浅井賢政と平井定武の娘は離縁となる。その婚姻期間は数ヶ月であり、永禄2年4月頃には平井定武の娘は六角側に送り返されたとされる。
そして、その対応に激怒した六角義賢は永禄3年に浅井を攻める。世に言う野良田の戦いである。この戦いでは浅井賢政が浅井軍を率い、六角軍に大勝。この戦を以て浅井家は六角への従属から完全に解き放たれる。そして、親六角路線であった浅井久政は永禄3秋には家督を浅井賢政に譲り、隠居となるのだ。
が、この時点で、いまだに浅井久政の息子の諱は浅井賢政の名乗りのままである。
その諱を変更するのは、永禄4年になる。時に永禄4年5月。浅井賢政はその名を改め、世に知られる浅井長政となるのである。そして、同時期に浅井長政は浅井亮政が名乗った受領名「備前守」を名乗るようになる。
一般に、浅井長政の「長」の字は織田信長との同盟及びお市の方との婚姻により、織田信長の「長」の字を偏諱で受けたと説明される。が、それは、本当だろうか?
ここに断言するが、この「長」は織田信長からの偏諱ではない。
浅井長政と織田信長の同盟、及びお市の方との婚姻は諸説あるが、永禄2年説、永禄4年説、永禄6年説、永禄7年説、永禄8年説、永禄10年説、永禄11年説があり、各々高名な歴史学者が自説を展開している。
ちなみに、本作品では各種資料を精査した結果、永禄10年の秋という学説を採用した。
根拠としては永禄の変後の永禄8年冬に六角義賢が織田信長と浅井長政の同盟や婚姻を画策して失敗したという情報を重視しているためである。
この失敗が事実なら、それ以前の日時に婚姻同盟はないだろう。そして、その後、再度交渉があり、婚姻同盟となったという理解である。
浅井長政の「長」の名乗りを信長からの偏諱とする歴史学者諸氏は、婚姻同盟が永禄4年にあった説をとる方が多い。が、現在の研究では婚姻は早くとも永禄8年の冬以降になる可能性が高い。
また、婚姻が永禄4年説をとる学者諸氏は、浅井長政の嫡男「万福丸」をなぜかお市の方の子とする説をとる。確かに万福丸は天正元年9月に磔の上串刺しにされた時、10歳とされるので、その生年は永禄7年が有力である。浅井万福丸が浅井長政とお市の方の子であれば、永禄7年より前に婚姻していなければならない。
だから、浅井長政とお市の方の婚姻は永禄4年説になり、婚姻して義弟になったので、「長」の字の偏諱を受けたという説明である。
永禄4年婚姻というのは既に否定したが、次に浅井万福丸について考えてみよう。浅井万福丸が本当にお市の方の子であれば、果たして織田信長は彼をそんな晒し者にするような冷酷で残虐な殺し方をするだろうか?
自分としての考えは「否」である。
最近の織田信長の評価として、「身内に甘い」というのはもはや通説の域に達していると考える。
その一番の例が本作の主人公「津田坊丸」こと「津田信澄」であろう。
史実の津田信澄の事績をみれば、謀反をした弟の嫡男にもかかわらず仏門にも入れず、重臣の預かりとして、年長になるまで手元に置き、「蘭奢待」切り取りの際の使者を務めさせ、磯野員昌の養子として次代の高島郡の支配を認めているのだ。
また、庶兄である織田信広の謀反未遂も把握したうえで潰して、その後は信広に連枝衆の一席を与え続けている。
こうして考えるに、もし、「浅井万福丸」がお市の方の子であれば、果たして磔のうえ、串刺しにして晒すだろうか?
どう考えても、そのような真似はせず、出家させて命は許すだろう。いや、もっと甘く津田の名乗りとしたうえで、遠縁の弱小な家の養子にして一命を許す可能性すら現在の評価による信長ならばありえるだろう。
すなわち、「浅井万福丸」への織田信長の対応をみれば、「浅井万福丸」はお市の方の息子ではない可能性が極めて高いと推察できるのだ。
ちなみに東浅井郡志によれば浅井長政の母、阿古御料(小野殿)は、長政の母であるというだけで指を切断の上、殺されたと伝承される。敵対者の縁者で血縁関係がない場合にはここまで冷酷に、残虐に、非道になれるのも信長という人間のメンタリティなのだ。
こうして、婚姻時期に関する交渉の資料及び浅井万福丸への対応から、自分は浅井長政とお市の方の婚姻時期は永禄4年はあり得ないと断定する。
浅井長政とお市の方の婚姻時期が永禄8年以降でも、同盟は永禄4年に結ばれたという可能性も、確かにある。
が、この時期の信長は桶狭間の戦いの後で、三河松平とも小競り合いをしており、清洲同盟すら成立していない。
すなわち、三河遠江方面への侵攻と美濃方面への侵攻で方針が定まっていない時期なのだ。
また、永禄4年3月には浅井賢政は美濃斎藤を攻めるが、その隙を突かれて佐和山城を失陥。その後取り戻している。
永禄4年5月1 1日に斎藤義龍が急逝。その後から信長は美濃攻めを本格化させている。すなわち、信長は浅井家との同盟を結んだから美濃攻めをしたのではなく、明らかに斎藤義龍が死んだことで、美濃を攻略対象としているのだ。
つまり、浅井の斎藤攻めと信長の斎藤攻めは時期が微妙に異なり両者は連携している様子がない。また、信長が斎藤攻めを開始した時期には浅井は佐和山城を六角から取り戻すのに戦っているため、同盟に両者ともあまり旨味がないのが実情なのだ。
後の歴史の流れを知る我々だからこそ、浅井長政と織田信長が盟約を結ぶと知っているわけで、そこをもとに判断や学説を組み立ててはならない。
歴史学者諸氏に言いたいのは、我々の知るその後の歴史経緯と情報を意図的にマスクして永禄4年の勢力図とその以前及びその時の経緯だけをもとに考えねばならないのではないか、ということである。
では、浅井長政の「長」は果たして誰からの偏諱なのだろうか?
その当時の浅井家重臣には、長の字を持つ有力者は居ない。
良く言われる浅井家と朝倉家の縁で考えても、同時期に長の諱を持つ朝倉家の有力者は居ない。朝倉義景とその一門から偏諱された可能性は無いと判断して間違いない。
織田信長でも、有力家臣でも朝倉家でもなければ、浅井長政の「長」の偏諱の元になった有力者は一体誰になるのか?
その答えにたどり着く鍵は「受領名」の「備前守」を改名のすこし前から名乗り始めたことである。
一般に「受領名」は朝廷や幕府に正式に認められていない私称とされるが、かといって勝手に名乗れるものではない。主君や上位有力者に何らかの功績が認められて、「官途書出」や「官途状」をもらい受けて始めて名乗れるものなのだ。
ちなみに「官途書出」や「官途状」は主君などが朝廷や幕府にその官位をもらえる様にかけあってあげるから、まだ正式にはもらってないけど、身内に対しては名乗っても良いよ、という許可状みたいなものである。
では、浅井長政の受領名に対する「官途状」の発行者は誰になるのか?
ちなみに普通に考えれば京極氏の当時の主君格の誰かになる。が、この当時の京極氏の当主格には京極高広がいるが、永禄3年、京極高広は六角義賢と組んで浅井賢政(長政)と戦い、野良田の戦いで敗北。北近江から一時撤退している。
京極高広が浅井家と和解するのは、浅井久政の娘、いわゆる京極マリアと婚姻して小谷城の京極郭に戻ってからになる。2人の婚姻時期は永禄4年もしくは永禄5年とされる。
永禄4年であればギリギリ可能性があるが、受領名の名乗りは長政という改名の前に行われたようであるから、本当にギリギリになる。
では、「官途状」が京極高広からのものでなかった場合、誰が浅井賢政に官途状の発行と受領名の名乗りの許可を与えたのか?そして、受領名と改名の時期を考えればそれを与えた人間から偏諱を受けたとするのが妥当だろう。
結論から言うと、自分は、官途状の発行主と偏諱の元になった有力者というのは、三好長慶か三好義長のいずれかであると断定する。
先ほど示したように、永禄4年2月には浅井賢政は美濃斎藤を攻め、その隙を突かれて佐和山城を失陥。その後奪還の為に戦っている。
そして、その頃三好長慶は細川晴元と和睦。したかに見せかけて、摂津普門寺に幽閉。それに対して六角義賢と畠山高政は連合軍を形成して三好長慶、義長父子と永禄4年の3月から11月まで岸和田城や将軍山城で戦っている。
そう、浅井賢政は三好長慶らにとって、六角義賢を共通の敵とした存在である。敵の敵は味方とはよく言ったものである。
三好長慶、三好義長父子は、浅井賢政に対して受領名授与や将軍家相伴衆にして畿内最高の実力者父子からの偏諱という栄誉を与える代わりに、六角義賢の後背を突く様に促したと考えることができるのだ。
なお、三好義長という人物を知らないという読者諸賢に向けて解説すると、三好義興と三好義長は同一人物である。
三好義興として知られる人物は、元服直後「三好慶興」と名乗る。そして、父長慶が足利義輝と和睦した後の永禄2年に足利義輝から偏諱を受け、「三好義長」と名乗る。
その後永禄4年の相伴衆や官位叙任の後、永禄5年年になる前にはよく知られた「三好義興」の名乗りになる。
三好長慶からの偏諱の可能性もあるが、三好長慶は永禄4年の弟の十河一存の急逝、三好実休の敗死以降、軍権を三好義興、松永久秀に預け飯盛山城にいる事が多く、実質的な三好家の主権は三好義興に移っていたと考えられる。
このため、浅井長政の偏諱元である上位実力者は三好長慶と断定出来ないと判断し、あえて、三好長慶、三好義興(義長)の名前を併記とした。
浅井長政の「長」の一字の偏諱については、以上から三好義長もしくは三好長慶からの偏諱であると本作品では想定する。
特に三好義長からであれば、浅井長政自身が織田信長への対抗から家を滅ぼした人物であることと、三好義興の「義長」時代が2年弱と短く、三好義興が22歳と若年で急逝していること、そして偏諱元の有力者として見られてこなかったことを考えればなにも資料が無いことも頷けるのではなかろうか?
最後に今一度、断ずる。
浅井長政の「長」は、「織田信長」からの偏諱ではなく、「三好義長」もしくは「三好長慶」からの偏諱である、と。
将来、この説が、歴史学者に受け容れられ肯定される日をねがって、考察回を終了する。
まさかの考察回で四千文字オーバー。やっちまった…。
万が一、書籍化された時は、考察回や桶狭間の戦いの考察回部分は後書き前のコラムとして独立させるのが良いかなぁ…、とか妄想したり。←妄想という名の書籍化検討いただける編集者への提案だったりします(笑)
考察回って衒学趣味の極致みたいなもんですからね。




