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391話 稲葉山城攻め 玖の段

レビューをいただきました。ありがたいことです。

ちなみに坊丸君の出てこない合戦が多すぎるのがマイナスというご意見でした。逆に筆者の書く合戦が楽しいという方は、その旨レビューしてもらえると嬉しいです(笑)もっと合戦マシマシでお願いします、とか(哂)

永禄十年八月十二日 時は盛夏である。令和の酷暑ほどではないが、日差しは鎧を焼き、高い気温は鎧下に汗がじんわりと染み込む。


ついに本格的な城攻めを開始した織田軍は辰の刻から稲葉山城の麓、千畳敷にある城主居館を攻め立てる。

井の口を焼き尽くす命を下した信長は、城主居館も焼いて構わないと斎藤利治達に伝えた。

本来ならば、せっかくの建屋であり戦の後にできるものなら利用したいと思うのが人の情であるが、信長は斎藤家の痕跡を全て消しても良いと決心してしまっていた。


恨みを、怒りを力に変えて攻め立てる斎藤利治の軍勢。忠義を示し、戦功をあげなければならない西美濃三人衆もそれに負けじと、苛烈に攻め立てる。


つるべ打ちという表現もかくやというように火矢を、鉄砲を撃ちかける。

そして、本隊や柴田勝家隊から供与された焙烙玉も居館の中に投げ込まれていく。更には熱した油が入った小壺なんぞも投げ込まれる始末である。


斎藤の軍勢は織田に対して矢を鉄砲を撃ち返すだけでなく、消火活動も同時に行わねばならなくなった。

消火活動には人員と水がそれなりにとられてしまう。

すなわち、防御は手薄になり、水という資源は浪費される。


一度は稲葉山城を占拠した安藤守就と実際に居館に暮らした斎藤利治は居館やその周囲の防衛施設のいずれに井戸があるかを把握していた。

その情報をもとに最も鎮火しづらい位置に的確に撃ち込まれる火矢と焙烙玉、そして油の入った小壺。


翌日八月十三日午後に、は千畳敷から槻谷にかけての斎藤氏が築きあげた居館とその周辺の防衛施設は、ついに放棄された。

炎による麓におけるメインの防衛施設たる居館の延焼焼失、徒労ともいえる果てのない消火活動、斎藤利治や西美濃三人衆による物理的な攻撃、更にかつての同僚や一門、援軍に来てくれるはずの西美濃三人衆が率いる美濃の人間に攻められるという心理的な負荷の四重奏。

そんな中一昼夜以上戦い続けた、斎藤家の諸将はよく持ちこたえたというべきであろう。


そして、麓の居館の放棄に伴い、稲葉山城に籠もる斎藤龍興以下の面々はより頂上の防衛施設に移る事となった。


現在は昭和31年に作られた模造天守と資料館、展望レストランやカフェにリス村などの施設がある天守閣近辺であるが、信長が作った岐阜城以前、斎藤家の作った稲葉山城の頃は、現在の一の門付近に門などの構造があったことと現天守台近辺に簡素な石垣があった事が岐阜市のこれまでの調査で明らかにされている。

斎藤家時代の稲葉山城にも山頂には物見櫓や防衛に使えるだけの門等の施設があったことは想像に難くない。


が、この山頂付近の防衛施設への撤退は信長の思うツボであった。


信長は、斎藤利治や安藤守就からの話を聞き、山頂付近の防衛施設には一応は本丸井戸や金銘水と呼ばれる井戸があるもの、雨水を貯める貯水池、貯水槽に近いものであることを信長は既に把握していたのだ。


金華山は二酸化ケイ素を高率に含む堆積岩、いわゆるチャートを主体とした地殻変動によって隆起と風雨による浸食の結果出来上がった山である。

あたかも独立峰のように見えるため、火山であるという誤解もあるようだが、それは誤りである。

そして、このチャートがメインの硬い岩盤からなる独立峰の様な山という特徴は、水を豊富に含んだ地層が無く、水を求めて掘り進んでも本格的な井戸と言える水量のある湧き水が出ることなどありえないことを示している。


当時の戦国武将が地質学的な知識があるとは思えないが、斎藤利治らの話から麓を制圧し水の手を断てば稲葉山城はそれほど長くは籠城出来ないことを信長は直感で理解したのだ。


そう、そのために信長は、佐久間信盛には岩戸山と鷹巣山に布陣させ、観音滝周辺の水源を抑えさせた。河尻秀隆には城の周囲を取り囲むように命じつつ、水源を探させ、現在古井の滝、凌雲の滝、松蔭の滝として知られる三箇所の滝を抑えさせた。そして川に取水する敵には木下秀吉麾下の川並衆を当たらせたのだ。


そして、稲葉山城の麓から二日に渡ってあがった炎と煙は、長良川対岸で稲葉山城の援軍にも入れず、さりとて織田に降る決断もできなかった人々にきっかけを与えた。


稲葉山城の居館から立ち上る煙は、そのまま金華山を覆った。その煙にまみれた稲葉山城は既に落ちたも同然の状態にある、斎藤家は既に負けたのだと彼らに誤解を与えたのだ。


西美濃三人衆に亜す勢力を誇る不破光治とその下に集まった斎藤家に対する忠誠心が高い国人領主達は、ついに織田に降る決心をした。

それは稲葉山城救援の可能性がある数少ない後詰が消失した事を意味していた。


永禄十年八月十三日午後、稲葉山城の戦いは、城が落ちる前に美濃の国人領主達のほとんどが織田に靡くという結末を迎えつつあった。


あとは、斎藤龍興とその一党が最後の奮戦をしてから落城するのか、彼らが逃げ延びる選択をした後にもぬけの殻となった城に織田軍が入城して終いとなるのかの違いしかなかった。


そして、斎藤龍興の知恵袋、長井道利と竹中重治は生き延びるために必死にその脳髄を動かす。その目的が主家にして実家の斎藤家を存続させる為なのか、自身が生き延びる為かは違いはあったのだが。

数字を普通の漢字以外で書き表す文化いわゆる大字ですが、大字の玖って実際使ってるのあまり見たこと無いんですが、皆さんは如何でしょうか?

あ、七を表す大字、漆をいつも死地にしているのはそろそろ戦のエピソードまとめに向かわないと!という自分に対する戒めとお遊びなので、気にしないでください。


斎藤家の時期の稲葉山城については岐阜市のホームページ「第三章 岐阜城の調査」の内容を参考に推察しています。


金華山の地質学的特徴についても岐阜市などのホームページを参考にしております。稲葉山城の井戸、金銘水については攻城団の皆様、その他の情報を参考とさせていただきました。参考資料とさせていただいたことをここに明記して感謝申し上げます。


不破光治は資料によっては西美濃四人衆として表記されることもあります。しかし、他の三人衆が一体として戦場で投入運用されるのに対して、そうでないことも多いので、立場は違ったものと思われます。

四人衆とまとめるのは本来は適切でないというのが自分の印象です。



少しでも「面白い!」「続きが気になる」と思った方は、下の★でご評価いただけると、作品継続のモチベーションになります。

宜しくお願いします。



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