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386話 稲葉山城攻め 四の段 炎、舞う

八月五日申の刻。

瑞龍寺の七堂伽藍は燃えていた。

信長の意を受けた河尻秀隆は、瑞龍寺に火を放ったのだ。そして、その炎は稲葉山城城下、その当時は井の口と呼ばれた町を赤く照らす。


その後、瑞龍寺山の山頂を確保した河尻秀隆、斎藤利治の両将は、信長を迎えるべく山頂付近に本陣を設営。信長をそこに迎え入れた。


「秀隆、利治。ご苦労」


信長が小姓衆数名と槍三人弓三人衆から伊東清蔵と太田牛一の二名を引き連れて本陣に入ってくる。

床几に座って待っていた河尻秀隆と斎藤利治は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

本陣には、河尻秀隆と斎藤利治の坐していた床几の他にすでに五つの床几と軍議に使う井の口、稲葉山城の地図が広げられている。

その様子を見た信長は満足そうに頷き、上座に据えられた床几にドカリと座った。


「秀隆、利治。瑞龍寺とこの山頂の確保、ご苦労である。両名の働き、見事。褒めて使わす」


「「はっ」」


その場で信長に向けて再度一礼する両名。


「二人共、まぁ、座れ。それと経過の報告を」


報告を求められた両名はチラリと視線を交わしあい、目線で斎藤利治が河尻秀隆に頼むと訴えかける。


「では、それがしより。斎藤利治の部隊は上加納山を経て、我が部隊は瑞龍寺の東側より山を駆け登り瑞龍寺山を確保致しました。我が部隊に対して瑞龍寺の僧侶らが文句を言いに来た上、寺の方より石を投げる、罵詈雑言を吐くなど致しましたので、殿のご下命の如く、これらの行為を敵対行為とみなし、警告の上、寺に火を放つことと相成りました」


「で、あるか。ならば、火を放つことやむなし。秀隆、良くやった」


そう言った信長の片方の口角はわずかに上がった。


「はっ」


河尻秀隆の礼をうけると、信長は煙の上がる方向をしばし眺めた。再び正面を向いた信長の両口角は上がり、まるで微笑みを浮かべるが如くであったが、酷薄さと強い決意の入り混じった仄暗い瞳をしていた。


「さて、両名が軍議ができるよう設えたのだ。小姓衆、母衣衆よ。両佐久間と権六、五郎左にここに参るよう疾く、走れ」


そう、近習に命じると、信長は斎藤利治に義父道三存命時の稲葉山城の様子や井の口町並みの様子などを聞くのだった。


そして、そんな話をしていると四半刻もしないうちに、今回参陣の四名の家老達が山を登り本陣に順次やってきた。

今回の稲葉山城攻めの主要六将が揃ったところで、信長が口を開く。


「さて、皆のもの、揃ったな。秀隆、利治の働きにより、山頂を取った。瑞龍寺は焼いた。ここまでは順調。しかも、斎藤家に未だ軍を集める暇を与えておらん。今までは、斎藤家の軍勢に有利な場所を抑えられ、迎えうたれた。今回はそうはさせん。で、あるからして、敵に軍を集め、陣を敷く時を与えてやる謂れは無い。故にもう一手、こちらから攻める。すなわち、井の口を焼く。皆が、兵が疲れているのはわかっているが、ここが勝負の分かれ目ぞ。各員、一層の働きを期待する」


「「「「「はっ」」」」」


「で、どの様になさるので?」


息を合わせて応えた後、佐久間信盛が間を空けず作戦の詳細を問う。

それをこれから言うところだったのだがという微妙な表情を一瞬した信長だったが、軍扇で地図を指しながら詳細を説明する。


「秀隆と利治は、山を下りそのまま目の前の街を焼け。その後は麓に陣を敷くが良い。勝家と長秀は瑞龍寺を回り込み南側から井の口に火をかけて回れ。火の手が落ち着いたところで、焼け跡に陣を敷け。盛次はここからここ。瑞龍寺の焼け跡を片付け、そこと上加納山を抑えろ。信盛、お主は岩戸山を抑えろ。各自、良いな」


「「「「「「はっ」」」」」」


信長から明確な指示が出れば、織田軍の動きは早い。

六人の将は陣幕をでると、足早に自分の部隊のもとに散っていく。


そして、河尻秀隆、斎藤利治の部隊は、山をかけ下り、街を焼いた。河尻秀隆の部隊は既に瑞龍寺を焼いており、井の口への火攻めに忌避感は無い。斎藤利治とその近習達はかつて稲葉山城城下に暮らしたものも多くおり、内心は忸怩たるものがあった。が、美濃衆とはいえ、元佐藤忠能配下の加治田衆には稲葉山城にも井の口にもそこまで思い入れはない。斎藤利治の部隊は部隊上層部の思いとは反して、火攻めという命令を素直に受け入れて、焼いて回る。

柴田勝家、丹羽長秀の隊は、信長の命で井の口を焼くと伝えれば、速やかに火攻めの準備を進めていくのだった。


そして、たまたま、その日は風が強かった。瑞龍寺を焼いた炎は、広範囲に火の粉を散らしていた。

そして、そこに城下町の南東と南西から火をつけてまわる織田の軍勢。

井の口の町に放たれた炎は強い風に煽られ勢いを増していく。瑞龍寺から飛んできた火の粉もそこに加わる。炎は業火となり、火の粉は四方八方から降り注ぎ、延焼に次ぐ延焼を起こす。炎は井の口、稲葉山城下を舐め回し、火災旋風を数本上げるほどのいきおいとなった。炎は城以外の建物を焼きに焼き、街は灰燼に帰した。


本来なら、井の口の城下町自体も稲葉山城の防衛施設、防衛機構の一部を成しているのだが、それらは、織田軍の放った炎に飲み込まれた。斎藤利永が稲葉山城改修後に城下町となり、斎藤道三が本拠地として発展させた井の口の街は永禄十年の戦いではその機能を全く発揮することなくただ灰となったのである。

そして…火の勢いが落ち着いた後、稲葉山城は裸城同然の有り様になっていたのだった。

稲葉山城は鎌倉時代の建仁年間に二階堂行政が砦として築城するも、その後あまり重要視されず、一度は廃城になったそうです。15世紀中期に斎藤妙椿の兄、斎藤利永が改修して再度要衝として整備、斎藤妙椿がさらに発展させ守護代の斎藤氏、持善院家斎藤氏の本拠地の一つとなっていきました。更に斎藤道三、義龍、龍興の道三流斎藤氏三代が居城とし発展しました。


火災旋風は、たいかの際に起こる現象として知られます。細かい発生のメカニズムは不明ですが、炎によってできた上昇気流により炎自体が竜巻のようになって高く伸びていく状態です。上昇気流の速度は秒速30〜100メートル、移動型の場合、2キロにわたって移動し周囲を焼くこともあります。

信長公記では、風の強い日に井の口の町に放火して稲葉山城を裸城にしたことが記載されております。城下町がほぼ無くなるくらいの炎、火災だったと想定すると、関東大震災後の火災や2016年の糸魚川大火並の火災であったと思われ、火災旋風が発生していたのではないか予想しました。



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