355話 三好三人衆、矢島御所を狙う
坊丸君が出ないので三人称です。
ていうか、お気づきとは思いますが「ども、坊丸です」で始まる時は坊丸視点の一人称、始まらない時はだいたい三人称です。
永禄九年八月上旬。
三好三人衆は、兵三千を率いて河内高屋城をたった。前線指揮官は三好宗渭(三好政康)。ながらく三好長慶と対立していた時期も、長慶幕下となってからも多くの戦場に立ってきた長干斎宗渭である。そして、本陣には三好長逸。
残り一人の岩成友通は三好義継を守ると言う名目で、その身柄を抑える為に高屋城に残った。
三好宗渭、三好長逸が向かうは近江國は守山城下の矢島である。
そう、三好三人衆の軍は足利義秋の御座所たる矢島御所を強襲する事を目指したのだ。
矢島御所は、矢島越中守の本拠地矢島館のそばに作られた建築物で、簡易的な城郭であった。平城とかろうじて言うことができるかどうかの防衛設備であり、三好三人衆の兵に取り囲まれては、永禄の変の悲劇が繰り返されるのは火を見るよりも明らかであった。
三好三人衆の兵が坂本付近まで来たことを伝え聞いた足利義秋方は、打って出ることを決める。
義秋のもとに集った奉公衆を率いるは、和田惟政と細川藤孝。さすがに旧幕臣のみで三千を数える三好軍と戦うのは無謀であった。そこで、三淵藤英、細川藤孝兄弟は足利義秋の名の下、六角義賢に救援を依頼。六角家より守山城城主の種村某、矢島館の矢島越中らの援軍が組織される。
足利義秋方は、奉公衆と六角家援軍をあわせるとその数二千余にまでなった。
永禄の変の時の様に矢島御所を急襲されるものと思い、守山城下にて防備を固める足利義秋軍であったが、予想に反して三好軍の動きは鈍かった。
矢島御所の本陣にて、烏帽子に緋縅の大鎧を身に着けた足利義秋の元に鎧の音を鳴らしながら細川藤孝、和田惟政の両名がやってくる。
「藤孝、惟政、ご苦労」
着慣れない鎧と夏の暑さに少しつかれた様な顔の足利義秋が着座した二人に声をかけた。
「「公方様、ただいま戻りました」」
鎧姿の細川藤孝、和田惟政が拳を床につけ、頭を下げる。
「して、三好の奴らはどうしている」
三好軍の動向を問う義秋に答えるは、和田惟政。甲賀郡和田の領主たる和田惟政のもとには甲賀忍者が仕えているのである。そう、彼は甲賀忍者を使いこなし、情報収集にも長けているのである。
「はっ。三好軍は、坂本よりゆっくりとこの御所に向かっておりまする。予想よりもかなり遅い様子。三好軍のなかで問題が起こっているのか、こちらを恐れているかいずれかでございましょう」
「そうか、そうか。六角も動かす我が威徳に三好三人衆も恐れをなしたに違いあるまいよ」
「「はっ」」
二人は素直に肯首したが、その腹の中では自分達奉公衆や義秋を恐れて動かないのではなく、六角の兵力を恐れているのだと考えていた。
そう、この当時畿内において大兵力を有するのは三家。摂津、丹波、阿波、讃岐の守護を務める細川管領家を実質的に乗っ取った三好、河内と紀伊の守護職にして三管領家の一角である畠山家、そして近江守護である佐々木六角家。
六角家は足利義尚による六角討伐「鈎の陣」も耐え抜くしぶとさを持つ。この時には応仁の乱後、将軍家の権威回復を見せつけるべく尾張の斯波家から長門の大内家と東海、畿内、中国、四国の守護大名家達の軍勢が集結したにもかかわらず六角は耐え抜いたのだ。
観音寺騒動にて六角の勢いが落ちたとはいえ、三好三人衆が「鈎の陣」の二の舞を警戒していると考えるのは自然なことであった。
そして、足利義秋もまた、「永禄の変」の再来を恐れていた。剣豪将軍、武人としての才があると言われた兄義輝ですら、御所を囲まれてしまえば、討ち死するしかなかったのだ。
ながらく僧籍に入っていた義秋は自身が武士として刀や槍を振るう姿が思い描け無かったし、戦の指揮することについての知識もない事を知っている。
この矢島御所で三好軍三千を防いでいる姿が想像できない義秋は、敵の動きが遅いことに内心ホッとしていたのだ。
「藤孝、惟政。敵が坂本よりゆるりとこちらに向かってくるのであれば、こちらから打って出て、これを迎え撃つが良いのではないか。六角の諸将であればどこで迎え撃てば勝てるか知っているのではないか。ほれ、それこそ、『鈎の陣』の時の様に」
還俗したばかりで戦については何もわからない素人と思っていた足利義秋から、至極真っ当な意見が出たことに驚く両名。
和田、望月、三雲と言った甲賀五十三家はそれこそ『鈎の陣』で六角家の戦いを支え、和田家を始め二十一の家は六角高頼から感状を受け取り観音寺城の在番に抜擢された家柄である。
『鈎の陣』の故事を出されては、三雲や望月の六角の諸将、和田惟政も奮起するしか無い事になる。
「はっ。義秋様のお言葉、承りました。さすれば、陸路で来るのであれば瀬田にて迎え撃つのが上策かと」
「細川殿の申される通りかと存じます。なお、今のところその様子はございませぬが、船で琵琶湖をわたってくるかもしれませぬ故に、物見を放つが宜しいと。瀬田城にはそれがしの甥、山岡景隆がおりますので、兵をいくばくかは出してもらえるかと」
故事、地形をふまえて軍略を提案する細川藤孝、そして情報収集担当でもあり近江のことを知る和田惟政がそれを補強する策を出す。
「我々もそれでよろしいと存じます。弟の青地茂綱をの呼び寄せ、船での侵攻を見張らせましょう」
「「我らも異存無し」」
六角から派遣された蒲生賢秀、種村、矢島も同意する。
それをふまえて瀬田川方面には奉公衆を率いる細川藤孝、和田惟政、六角衆をひきいる蒲生義賢が出陣し、琵琶湖の畔には青地茂綱、種村某が連絡と物見係として布陣。矢島御所の護りは矢島越中と三淵藤英が担う事になった。
そして、翌日。瀬田川の畔には両軍がにらみ合う形になる。三好軍は陸路での侵攻を選んだのだ。
滝川一益の滝川家は甲賀五十三家の多喜家の傍流の設定。そうなると、池田恒興の池田家は甲賀五十三家の池田家になるわけです。ちなみに、和田惟政の和田家も甲賀五十三家で、これら三家は南山六家と言う同じ地区の豪族、地侍が先祖と言うことに。
池田恒興の家系は摂津池田氏の遠縁を名乗っていますが、恒興の父、恒利より以前は不明な点が多く、甲賀池田家の一門で、恒利もしくはその父の代で尾張に流れてきた可能性のほうが高いと考えています。
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