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324話 猿啄、堂洞、加治田、そして土田。

坊丸が出ないので、三人称での展開&説明メインの回になります。

犬山城落城後、佐久間盛次の一党が犬山城の防衛力強化と街の復興、瑞泉寺との和解に向けて尽力している頃、丹羽長秀は美濃に対して硬軟織り交ぜて、動いていた。


犬山城の対岸、やや上流側にある猿啄城に対しては武力を以て制圧することになった。


自身の配下、寄騎衆と副将として信長より預けられた赤母衣衆筆頭の河尻秀隆、それと河尻秀隆率いる信長の馬廻衆を率いて、犬山城攻略後、夏の前には城を囲んでみせた。


猿啄城は、木曽川の辺りにある急峻な山全体を城とした山城である。

対岸下流の犬山城の抑えとして、中美濃から稲葉山城に抜ける木曽川沿いの道の抑えとしても機能する城であった。


しかも、丹羽長秀は、その陣中にて中美濃三城同盟の岸信周、佐藤忠能らに向けての調略の準備も進めていた。


そして、佐藤忠能の忠義に迷いあり、という情報を掴む。

事実その後、佐藤忠能は、加治田城下の有力者、梅村良澤の勧めもあり、丹羽長秀に連絡を取ってきたのだ。


そして、梅村良澤、丹羽長秀の仲介にて佐藤忠能は、織田方へと転んだ。

ただし、中美濃三城同盟があるため、当面は埋伏し、時期が来たら立つというものではあったが、信長は佐藤忠能の内応を殊のほか喜び、黄金五十枚を褒美として渡したという。


そして、このとき、佐藤忠能と梅村良澤から重要な情報が幾つかもたらされる。


中美濃三城同盟の詳細はもちろん伝えられたのだが、長井道利と竹中重治により更に東美濃の遠山七党と武田をも巻き込んだ斎藤家と武田家の同盟の存在が織田に知らされたのだった。


信長としては、武田家に可能な限りへりくだり友好的に接してきたし、武田家からもそれなりの返答と対応があるので、東美濃での武田家の権益を侵害しなければ、自身の敵には回るまいと考えていたが、織田と斎藤を天秤にかける『甲斐の虎』武田徳栄軒信玄の腹黒さに戦慄を覚えることになる。


そして、美濃斎藤家と戦っては居るが、実際の敵は斎藤龍興ではなく、その後見役こと『蝮の弟』、長井道利であることが裏付けられたのだった。


そしてもう一つは、猿啄城のことである。


猿啄城は先に記した様に要所にある山城で、それなりに固い上、多治見修理以下の城兵の斎藤家への忠義も篤く、戦意も侮りがたいものがあったのだ。


だが、佐藤忠能、梅村良澤らのもたらした話では水の手のほぼ全てを近くの大ボテ山から取っている為に、大ボテ山を押さえれば渇き攻めができるというものであった。


そう、要衝猿啄城の弱点は水の手の脆弱性にあったのだ。


この情報を手にした丹羽長秀はすぐに動いた。

すぐさま、河尻秀隆と精鋭の信長馬廻衆を以て大ボテ山を制圧したのだった。


大ボテ山には河尻秀隆と馬廻衆がそのまま陣を構え水源を押さえ、城を囲む方は丹羽長秀とその配下や寄騎衆が担って城の動きに備えた。


こうして、猿啄城が水を得るには『大ボテ山の水源を取り返す』か、『城の囲みを破るかすり抜けるかして木曽川の水を得る』か、しか無くなったのだ。


一度、大ボテ山に多治見修理以下猿啄勢が水の手を取り返すため、仕掛けたが、山頂に陣取る河尻勢に迎え撃たれ、更には山裾から丹羽勢に挟撃されると、這這(ほうほう)の体で城に逃げ帰る有り様であった。

木曽川に水を汲みに出かけた猿啄の城兵も丹羽勢が妨害し続ける。


猿啄城は渇き攻めを受け十日。

城主多治見修理は、最後の突撃を城兵に命じた。

一度小雨が振ったお陰でここまで保ったが、水分無しで通常人間は3〜7日程で致命的になるという。

ここを逃せば、城兵は脱水で動けなくなったところをただ蹂躙され落城することになっただろう。

つまり、この突撃は、攻撃を装った脱出策であり、「攻撃を仕掛け数合打ち合ったら、散り散りに逃げよ、命あるもの、忠義あるものは堂洞にて再び集まる様に」との命があわせて出されたのだった。


そして、突撃の時。

城門を開き打って出た猿啄勢は、戦うと見せて皆、逃げだした。

城主多治見修理は、美濃での再起を諦めて、甲斐武田のもとまで走ったという。

そして、敗走した兵の多くは堂洞城の岸信周のもとに落ちのびた。


猿啄城落城より数日後。

信長は小牧山城にて伯父である土田政久の訪問を受けた。


「信長殿には尾張統一のこと、誠におめでとうございまする」


そういうと、上座の信長に向かって平伏する土田政久。


「土田の伯父上の陰日向でのご助力もあってのことにござる。先年の柴田らへのご配慮、犬山攻めの折の東美濃や木曽からの支援を荷改め、荷留めなどしていただいこと、誠にありがたし。

で、わざわざのお越し。何事かございましたか?」


信光、信康と言った能力のある叔父、自身を長らく支えてくれた大叔父の秀敏を失ってから、信長は一族連枝に恵まれていない。


野心はソコソコあるが謀反を実行しきる程の人望も実行力もない庶兄の信広。


真面目であるが故に反信長の家臣の話を信じ、謀反を起こし成敗することになった実弟の信行。


堅城犬山城を頼みに美濃斎藤に踊らされた従兄弟で義兄の信清。


信清と違い、先が見えるだけの才があったのに、斎藤家との戦いで散った従兄弟の広良。


生母土田御前との関係を考えれば、伯父の土田政久は信長寄りの立場を維持してくれている親族である。

が、親族に恵まれていない信長はいまいち土田政久を信頼しきれず、ついついこういった物言いになってしまう。


「さてさて、柴田家の面々からの依頼は、甥の信長殿、大甥の、なんと行ったかの、信行の嫡子は?」


「坊丸ですな」


「そうそう坊丸か。甥と大甥から頼まれればそれなりに一肌脱がねばな。

犬山城攻めの裏で荷留め荷改めは、まぁ、なんだ。信長殿ほどではないが、儂も信清の奴は好かんかったのでな。

先代の信康殿は義弟でもあり、お互いそれなりの礼節をもって対応しておったしな。信康殿も土田と犬山は地続きで近いとはいえ、美濃衆として立場もわかってくれていたが、信清ときたら上から目線で従えだの、なんだの言ってきおったからな」


「で、何用でございまするか」


土田政久の話が長くなりそうだと感じた信長は再度要件を聞く。

要件を訊ねられた土田政久は、一度居住まいをただし、深く平伏しながら答えた。


「今までは、犬山織田の存在、美濃斎藤家と中美濃衆としての関係などがあり、信長殿に表立ってお味方できませんでしたが、今後当家は信長殿のお味方として働く所存。

信長殿、いや、信長様のご下命あらば一所懸命に働いてみせまする。宜しくお願い致しまする。

あわせて、こたび、この土田政久、生駒家の養子となることと相成りました。今後は、生駒親重と名乗ることとなり申す。以後、宜しく見知り置きの程お願い申し上げまする」


「なっ!生駒家の養子とな!伯父貴、その年でか!まぁ、そちらは、良い。

美濃可児郡は土田荘の生駒親重殿、当家への助力ありがたし。今後は美濃攻めを行うこととなる故、可児郡からの助攻の程、宜しく頼むぞ」


「ハハッ」


先に養子の方に食いつくか、と内心苦笑しながら、土田政久改め、生駒親重は再度頭を下げるのだった。

土田政久は、土田御前の兄として設定しています。

ちなみに、信長の側室、生駒吉乃は生駒家宗の娘で生駒豊政の孫。

土田政久は、生駒豊政の養子となり、生駒の苗字となります。土田政久の母が生駒豊政の妹であり、土田政久を分家養子としたと言われます。

土田政久(生駒親重)は土田御前経由だと信長の伯父になり、吉乃経由だと義理の叔父?伯父?になります。

土田生駒、尾張生駒、織田弾正忠家の血縁の濃さを感じます。


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宜しくお願いします。



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