318話 犬山城攻め 信長出陣
永禄八年二月吉日。
占いや迷信の類が嫌いな信長にしては珍しく、陰陽道や暦の吉日を気にして出陣の日取りを決め、出陣式もしっかり行った後、犬山城に向けて軍勢を動かした。
古式に拘る林秀貞に口酸っぱく言われたこともあったが、信長自身、従兄弟で義理の兄や瑞泉寺を討つにあたり思うところもあったのだろう。
翌日、楽田城の坂井政尚率いる軍を本陣に加えた信長は、羽黒城の北、現在の五郎丸のあたりに本陣を敷いた。
対岸の伊木山、鵜沼に少数の兵を置き、木曽川沿いには丹羽長秀が陣を敷いている。
佐久間盛次、佐久間信盛は信長の本陣から犬山城方向に数町、現在の名鉄犬山口駅の近くに信長本隊の前陣として布陣。
柴田勝家は、継鹿尾山の寂光院を出て、犬山瑞泉寺の南東、今で言う白山平山、東之宮古墳の南方に陣を構えた。
こうして信清の籠もる犬山城は完全に包囲される形になった。
犬山城への包囲の陣形を取った後、信長の気性ならばすぐに攻めかかると思われたが、今回は違った。
「瑞泉寺に恭順するよう最後の使者を出す。村井貞勝、使者を務めよ。一応、信清にも降伏勧告の使者を出しておく。島田秀満、信清の下に赴け」
信長は最後通牒を犬山城の信清、瑞泉寺の住職に出したが、その内容は天と地ほどの差があった。
瑞泉寺には、要約すれば以下のごとくである。
『恭順し、犬山城攻めにあたり中立を保つならば、寺領はそのままとする。
更に信清を責める文書を門徒に出し、当方に合力するならば、些少ながら寺領の寄進もする。
万が一、信清を支持し、このまま敵対を続ける場合は止むを得ず寺に火を掛けることもあり得る。
返答は明日午の刻までに信長本陣に使者を寄こすこと』
信長は犬山の名刹たる瑞泉寺とその一党に最後まで、降伏の機会を与え、礼節を持って臨んだ。
それに対して信清に送った通告は甚だ居丈高なものであった。
『そもそも当家と犬山織田は祖父を同じくし、信長の父信秀と信清の父信康は兄弟の間柄である。
信康は信秀を悌の心を持って支えた。
翻って、信清の振る舞いはどうか?
宗家たる信長に対する礼にも信にも欠けること甚だしい。
にも関わらず、信長は同族融和の証として姉を信清に輿入れしたが、信清は美濃斎藤に踊らされ、信長と敵対するなど、信長の赤心を理解しなかった。
今ここに信清討伐の軍を発したが、信長の義理の兄に対する友愛を以て最後の機会を与える。
城を明け渡せし、臣下として仕えるのを約せば、馬廻衆として働くことをさし許す。
もし、最後まで抗うとして、姉、犬山殿を信長の下に戻せば、落城しても一命のみは特にさし許す。
なお、刻限は明日の午の刻。信清自身が身に縄をかけて信長の前に参じること』
当然、この文書読んだ信清は怒りを身を震わせた。
が、彼も状況が読めないわけではない。
美濃からの援軍は表れず、木曽川対岸の斎藤家の拠点も落とされた。東美濃の遠山勢やその取次として岩村城にある甲斐武田の秋山虎繁の軍も姿を見せない。
瑞泉寺の僧兵や門徒による僅かばかりの兵糧入れでどうにか犬山城は保っている状態であり、まさに瑞泉寺との連携こそが織田信清の生命線になっていたのだ。
瑞泉寺からの取り成しで、自身と瑞泉寺がそれなりの立場を確保できたうえでの降伏ならば考えられようが、単独でしかも自身の身に縄をかけて、降伏して許しを乞うような真似は、信清にはどうしてもできなかったのだ。
それに、たとえ降伏しても、扱いは馬廻衆というのも信清にはとてもではないが許せなかった。
織田信光の子で従兄弟の織田信成、信昌兄弟が連枝として遇される、犬山城城主を務めた自分が、織田の一門でありながら傍流で、織田弾正忠家に祖父の代から家臣として仕えている様な中川重政、津田盛月兄弟らと同格の馬廻衆扱いされるなどあってはならないことだった。
それに、信長の書状に対して怒る信清の周りには、彼を説得しうるような有力家臣は既に居なくなっていた。
信清は己の命の保証として、勧告に来た島田秀満に犬山殿を預けつつ、降伏自体は拒否する姿勢を取ることに決め、勧告をはねつけることにしたのだった。
そして、瑞泉寺とその関連寺院の住職達も信長の勧告を蹴った。
彼らにしてみれば、応永二十二年、西暦では1415年に瑞泉寺の大伽藍を犬山に開いてから百五十年余り。
この地にて臨済宗妙心寺派の法燈を守りつつ、犬山の街の発展に寄与してきた自負があった。
信清の父、信康が乾山に城を築いたのが天文六年(1537年)。
瑞泉寺に比して、たかだか三十年弱しか歴史のない城であり、信長、信清の属する織田弾正忠家にしてもほんの三十年、四十年前の享禄天文年間に清須の守護代の下で奉行として力をつけてきただけのポッと出の新参者に彼らからすれば見えるのであった。
そして、その自負と歴史が瑞泉寺首脳陣の目を曇らせる。
信長の器量と気性を読み誤り、信長の丁寧な最後通告を黙殺してしまったのだ。
翌日午の刻。
信長の陣には、信清も瑞泉寺の使者も現れなかった。
信長の下に来たのは、昨夕、島田秀満に連れられて姉の犬山殿とその娘だけだったのだ。
信長の陣には、信清、瑞泉寺の使者が来た場合に備え、両佐久間、丹羽長秀の名代として上田重氏、柴田勝家の名代として吉田次兵衛、本陣付きの坂井政尚や母衣衆らが控えていた。
「殿、午の刻と相成りました」
河尻秀隆が信長に伝える。
「で、あるか。この信長も舐められたものよ。
犬山の信清も瑞泉寺の僧侶らも一名の使者も寄越さぬとは、な。
義理の兄と名刹に礼を以て臨んだが、このざまよ。
皆の者、信清も瑞泉寺もこの信長の気持ちに応えぬ様子ぞ。
ならば、力を以て征するがのみ。吉田次兵衛、権六に伝えよ!瑞泉寺の大伽藍、ことごとくを焼け、とな。
そして、その煙を以て犬山攻め開始の合図と致す。
各々、自分の陣に戻り、火の手が上がるのを待て!火の手が上がれば、一気呵成に本丸まで乗り込むぞ!良いな!」
「「「「「「ハハッ」」」」」」
包囲されて数ヶ月、犬山城落城の時は迫っていた。
漏れ出た蘊蓄 其の一
現在の犬山城は織田信康が1537年に作りましたが、1469年に守護代、岩倉織田家の織田広近が犬山の土地に砦を築いたのが最初と言われます。
其の二
継鹿尾山寂光院は白雉五年(西暦654年)に開山。瑞泉寺よりも遥かに長い歴史を刻む名刹です。
其の参
中川重政、津田盛月、木下雅楽助、織田善右衛門、津田正勝らの父は一般には織田刑部、祖父は信長の叔父の織田信次とされます。
が、織田信次は織田信秀の末弟で織田信長の数歳年上の人物。その孫が信長尾張時代から活躍するのは年代的に合わないことは、各所にて指摘済み。
自分は、言継卿記に記載された、山科言継が織田信秀や織田達勝を尾張に訪問したときに信秀や達勝とともに名が記された「織田兵部丞」なる人物が、中川重政らの父ではないかと考えています。
織田の傍流ですが、守護代や尾張の最有力者の側に居るそこそこの地位の人間であること、兵部と刑部を間違えて伝えてしまった可能性の二つからこの推察になります。
本文中ではそれを踏まえて、信清が中川重政らを下に見ている記載となっています。
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