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301話 中美濃三城同盟と稲葉山城、失陥

永禄六年冬、長井道利は中美濃から甲斐にかけて暗中飛躍していた。


新加納の戦いでかろうじて勝利し織田信長を撃退したが、小牧山城が完成したことで美濃への圧力は高まっていた。


そこで長井道利は竹中重治を自らの帷幕に迎え、密議を凝らす。


新加納での戦いでの織田軍の動きと小牧山城の位置を確認した二人は、信長は今後、中美濃方面に進出する意志があると見て取った。


それを受けて、長井道利は史実どおり中美濃三城同盟に向けて動き出した。


史実の中美濃三城同盟は、関城の長井道利、堂洞城の岸信周、加治田城の佐藤忠能の三者による中美濃防衛の為の軍事同盟である。


そして、その動きを見た竹中重治は献策する。

東美濃の遠山勢、さらには岩村城や苗木城に居る武田勢も巻き込んではいかがでしょうか、と。


それを踏まえて、長井道利は遠山七頭、秋山虎繁には直接会い、甲斐の武田信玄には書状で連絡を取り始める。


長井道利が考えていた中美濃三城同盟という小さい枠組みは、東美濃の遠山七頭、遠山勢を抑える役割も担う伊那郡代の秋山虎繁率いる武田勢を加えることで中美濃、東美濃、信濃伊那まで繋がる巨大な軍事同盟の構想、史実以上の大きな枠組みに変容しはじめていた。


史実における永禄年間の武田信玄は、北信濃で上杉政虎との抗争に明け暮れ、東美濃の遠山氏が傘下にあることに満足し美濃方面にはそれほど大きな関心を払うことは無かった。


が、この時間線では織田信長が事実より少し優勢の状態であり、竹中重治の献策を受けた長井道利が、斎藤道三譲りの謀略と外交戦を展開する。


織田は先代の信秀の頃から遠山氏と婚姻関係を結んでおり、西美濃、中美濃を領有する斎藤が滅べば早速遠山氏を取り込む動きをするとか、信長の母は可児郡土田の出身であるので、そこから川沿いに恵那、中津川を狙うだろうとか、三河の松平と結んだようだから先年に手に知れた挙母や瀬戸から北上し多治見を経て恵那、中津川を狙っているとか、越後の上杉と連絡を取っており、美濃を抑えた後は信濃を挟撃するつもりだなどの有象無象の情報を虚実取り混ぜて遠山氏の主要な拠点である岩村城下、苗木城下、伊那谷、木曽谷の町々に流す。


そのうえで、武田信玄に織田は上杉と手を結んで南信濃を狙っている、美濃斎藤が倒れることがあれば武田の南信濃領有も安全ではないことを伝えより一層の協力を要請するのであった。


そして、武田信玄が歩き巫女を情報収集につかっていることを把握していた長井道利は、自身の書状が信玄に届く数か月前から積極的に歩き巫女に自分の話に合うような偽情報を多くの地点でつかませておく念の入れようであった。


武田信玄はこの時代の戦国大名にしては情報の有用性をよく理解している名将であった。

故に、歩き巫女という市井の情報を集める諜報組織をつくり、自身の戦略に生かした。


だからこそ、上杉謙信の配下に何度も調略を成功させているのである。そして、その先進性が今回は裏目に出る。


虚報や讒言を駆使し、人の心の隙や嫉妬心などの闇を利用して成り上がる兄斎藤道三の姿を間近で長年見て、そして時にはその指示で動いてきた長井道利は信玄の自信と情報収集能力を逆手にとって、自身の流した虚報を信じこませ、ついには自身の意見に沿うように動かしてしまう。


そう、武田信玄は秋山虎繁に遠山氏の領有する地域への影響力の維持と織田信長牽制の為に美濃斎藤家への一層の協力を指示してしまうのだった。


武田信玄の命とあれば秋山虎繁に断るすべなどない。そして長井道利の弁舌にかかれば遠山七頭の意見などいかようにも誘導できる。

しかも武田が中美濃の同盟を手伝うのであれば、遠山氏にその方針に反対することなどできなかった。


永禄六年秋冬、坊丸が穏やかにすごしたその季節に、長井道利は中美濃と岩村城下、苗木城下を飛び回り、中美濃三城同盟の締結とそれに対する遠山氏、武田家の秋山虎繁の協力を取り付けてみせるのだった。


そして、この時期、長井道利はこのような工作を行うには情報管制が容易な自身の居城、関城を中心に活動し、稲葉山城からすこし距離を置くことになる。

そして、この稲葉山城から自身が離れたことが、永禄七年二月から八月までつづく騒動の原因になり、その後の斎藤家の没落につながることになろうことなど、長井道利には知る由もなかった。


永禄七年の年が明けて、構想通りに中美濃三城同盟と遠山、武田との協力体制を構築した長井道利は、自身の居城である関城の防衛力強化、兵力強化の為にいまだ、自身の居城に留まっていた。


そして、そこに凶報が入る。


永禄七年二月六日、稲葉山城が竹中重治と安藤守就の手により乗っ取られた、と。

ここでは織田信長と上杉政虎(謙信)の同盟が虚報とされていますが、永禄七年六月から永禄八年九月頃から上杉家の重臣 直江景綱と織田信長は書状のやり取りをしています。

しかも上杉側から織田家の内情を探るべく連絡を取ったようです。


この頃、信長は武田信玄とも友好関係を築こうとしています。

武田信玄のことですから上杉から織田に友好を持ちかける予定があるのは、把握していたかも知れません。


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