表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

234/482

234話 楽田城、再奪取!

今回は、少し短くてすみません。

ども、坊丸です。

永禄五年一月末、楽田城を再度、手に入れるため、総攻撃することになったそうです。


この楽田城攻め、墨俣城の丹羽長秀殿と沓掛城の梁田政綱殿、内政担当でご高齢の林秀貞殿のお三方以外の家老格、部将格は、ほぼ参戦という現在の織田家のオールスター状態らしいです。

信長伯父さんの本気度がうかがえますな。


ちなみに、犬山織田に奪われた楽田城は、犬山城から南に二里程、現在の距離だと7〜8キロメートルのところにある平城と柴田の親父殿から聞いています。


つまりは、対犬山城において非常に重要な拠点ということですね。うんうん。

しかも、二階櫓の殿守と呼ばれる建物を持つのが特徴のお城との事。


この殿守とやら、二階櫓の中には神仏を祀る場所があり、その周囲に欄干を持つ回廊のような場所が一周してるのだとか。

なんつうか、殿守って言ってますが、ほぼほぼ天守ですよね、それ。


永禄元年に織田掃部忠寛殿の父、寛貞殿が物見櫓と仏塔の三重塔を融合させたような感じで建てたのだとか。

あ、織田掃部忠寛殿は、今は津田掃部殿でしたね。


それはさておき、殿守は、信仰心の発露たる仏塔の建設と防衛施設たる物見櫓の実用性を独特の感性でフュージョンさせた建物と言う理解になりました。合っているかは知りませんが。


更に、それを見た信長伯父さんは、即パク…、もとい、参考にして居城の清須城に良く似た「北櫓」というのを建てたらしいのですよ。良いものは、即参考にする、それが信長伯父さん。


あ、もしかして信長伯父さんは、この殿守とやらを発展させていって、最後は安土城に華美荘厳な天守閣を作るようになったんでしょうか?


あ、話が逸れましたね。

そんなわけで、楽田城攻めです。

楽田城の殿守について柴田の親父殿から解説を聞いた数日後、出陣の触れがありました。


親父殿も柴田家一党を率いて参陣するので、婆上様、お多江さん、お千ちゃん、弟達と壮行いたしましたよ。出陣の安全祈願や武功祈願に、まぁ、いろいろやって送り出すわけですが、そこは割愛。


織田家のオールスターで清須城から出陣、兵五千を以て一気に力攻めを行ったそうです。


楽田城には、黒田城を守る犬山織田の家老である和田新助定利殿の弟にあたる和田八郎定教が城代としてあり、兵五百とともに守っていたとのこと。

五千と五百じゃ、相当、守備の才に長けていないとむりでしょうな。


柴田の親父殿の話では、親父殿は犬山城からの後詰めを警戒するために佐久間信盛殿と各々兵五百を率いて楽田城の北側に布陣したそうです。

で、城攻めは、森可成殿、佐久間盛次殿などの家老格、部将衆と信長伯父さんの母衣衆、馬廻りが主力を担ったそうです。


ちなみに、犬山城からの後詰めは姿形も見ることなく、ただ布陣しておっただけじゃった…と、帰宅後にものすごくボヤいてました。

こちらとしては、親父殿達が怪我なく帰って来てくれて嬉しいですがね。


で、楽田城攻めで活躍したのは、津田 掃部 忠寛殿…、ではなく、部将格の坂井政尚殿だったそうです。


まぁ、親父殿の話では、取り囲んだ時点で敵の士気はかなり低かったそうですがね。

北側を親父殿と佐久間信盛殿が、南から南西方向を主力部隊が囲んだ後、攻め始めたら、北東方向からわらわらと逃げ出したらしく、親父殿と佐久間信盛殿の部隊は逃げる兵を追い散らすだけだったとのこと。

そんななか、城門の突破や本丸一番乗りが坂井政尚殿だったらしいです。


そんなこんなで、津田掃部殿はあまり活躍できず、残念、楽田城の城主の座に返り咲くことはできませんでした。

で、一番活躍した坂井政尚殿が、楽田城の城主に抜擢されたそうです。


楽田城を奪取した後、信長伯父さんは、楽田城の東にある大縣神社に参拝したり、政秀寺に立ち寄ってから清須に戻ったそうです。


あれ?この二か所ってどこかで見たような…。

あ、小牧山城建設の前に人心をうまく操る信長様凄いっていう感じの話が、「信長公記」にあったはず。

ていうことは、そろそろ、小牧山城建設の話が出てくるころだな!きっと。

当作品12話を読んで、「永禄年間に天守なんか無い」とのにコメントを多数いただき、大変ありがとうございました。

結論から言って、そのコメントを書いた方々は不勉強な方々であることが確定しました。


楽田城は永禄元年に既に二階建ての櫓を改装した「殿守」があったという記録が「遺老物語」という書物にあるそうです。

信長公なら、即パク…、参考にして即建設、信行最期の場所になる「北櫓 天守次の間」が存在してもおかしくないと思われます。

つまり、太田牛一は「殿守」を後年の「天守」と同一視していると考えられるわけです。

「信長公記」を書いた太田牛一も、その記載を引用して当該のシーンを書き上げた作者も間違っていない、と思われます。パチパチパチ。

遺老物語おきなものがたり」の著者は、あの「小瀬甫庵」だけどね…。


少しでも「面白い!」「続きが気になる」と思った方は、下の★でご評価いただけると、作品継続のモチベーションになります。

宜しくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ