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230話 信長怒る〜信長論を添えて〜

本編短め、信長論多めです。

悪しからず。


次回は坊丸君視点に戻ります。

永禄四年十二月、信長は激怒していた。


犬山城の信清の裏切りに。

信清に攻められた楽田城があまりにあっけなく落城したことに。

そして、祖父信定、父信秀、そして信清の父にして信長の叔父信康が願っていたであろう織田弾正忠家こそが、織田の、尾張の主になるという夢を信清もいつかは理解して、自分とともに歩んでくれるはずという淡い期待を持っていた自分の甘さに。


激怒のなか、信長は決断を下す。

『信清、討つべし』と。


だが、そこは織田信長である。信清を討つことと美濃攻めを有機的に連結して行うことを考えた。


その結果、信長は、犬山城および稲葉山城攻略のため、本拠地を清須から動かすという決定も合わせて行う。


時に永禄四年、冬。

この決定は、永禄五年新年の儀で、配下の諸将に伝えられ、一部異論も出ることとなる。


ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー


さて、申し訳ないが、本編はここで終了である。ここからは、筆者の信長論というものになる。


本編には影響がない内容に限定するつもりなので、興味のない方は、読まずに飛ばしていただいて問題ないようにしておく。


この作品の掲載時点で映画『LEGEND&BUTTERFLY』、NHK大河ドラマ『どうする家康』にて、織田信長を各々の木村拓哉氏、岡田准一氏が演じている。


この短期間に両作品、両氏の織田信長を比較して観ることができるのは、僥倖だと考えている。


各々の織田信長は、その後ろに、監督と脚本家、そして、演じる俳優の考える信長が投影されていると考えるからだ。


映画の宣伝を兼ねて、とある番組で歴史好きの小学生が信長について論じたり、木村拓哉氏に質問したりしていた。

「織田信長は英雄か、魔王か?」という論点にて。

残念ながら、歴史好き小学生の論は、歴史的事実に基づいた信長像よりも後世の脚色を踏まえた信長像に近く、あまり実りのないものではあったが、エンターテインメントとしては楽しめるものであった。


そして、最近は、信長は中世の破壊者ではなく、中世の最終段階として評価される論調が増えてきた。また、革新的な政策、軍事的革新を数々行った不世出の戦国武将から、先行する政策を真似ただけという評価に変わりつつある。


事実、楽市楽座は信長に先行して六角定頼がすでに天文十八年、西暦では1549年に行っている。

関所の撤廃や街道の整備については、武田信玄が甲斐信濃にて先行して行っている。


つまり、いずれの政策も斬新で驚異的なものではないのだ。


戦場での鉄砲の使用は、本編にて記載した通り、三好長慶が天文十九年(1550年)に洛中にてゲリラ戦的に使用したことが「言継卿記」に記載されている。


また、鉄砲の運用面では島津家の「車撃ち」が三段撃ちに先行している。


鉄砲の大量運用という面では、永禄七年(1564年)に門司をめぐって大友家と毛利家が争った際に大友家が1200丁の鉄砲を使用したと「大友記」にある。(ただし、毛利方の記録である「陰徳太平記」では数百丁になるが)


この様に、長篠の戦いなどで知られる織田信長の鉄砲の大量運用と運用戦術も、また、決して革新的ではない。


他の戦国大名と織田信長の最大の違い、それは本拠地を必要に応じて、移転していく姿勢である。

が、これもまた、信長固有の行動ではない。

父の織田信秀は、本拠地を勝幡城から那古野城、古渡城と移している。

信長に先行する天下人と昨今評価される三好長慶は、先祖伝来の本拠地、四国阿波の三好から、摂津の越水城、芥川山城と移している。

なお、徳川家康も本拠地を岡崎、浜松、駿府と移動しているが、信秀信長父子より後なので、今回は考察の対象としない。


ならば、本拠地移動も信長独自ではないとみえるだろう。

しかしながら、信秀信長の織田家のそれと三好長慶のそれは似て非なるものである。


信長、信秀のそれは、軍事目標に向かってより近くに本拠地を移すという意図が強いが、三好長慶のそれは異なるのだ。

三好長慶の本拠地移動の一回目である摂津の越水城への本拠地移動は、もともと、三好長慶の父が長慶幼少時期に一向一揆に討たれており四国の本拠地と縁が薄いこと、政敵にして一族の三好政長が摂津にて活動して居ることから、摂津越水城を奪取した後、交通の要所である摂津越水城を本拠地にしたものと考えられる。

二回目の芥川山城への移動は、主君の細川晴元が長らく居城としたことから、その権力を継承したことを周囲にアピールするためのものと考えられる。


こう比較したとき、信秀信長の本拠地を移動する発想は、三好長慶のそれとは異なることが、読者諸賢にも理解していただけるものと考える。つまり、本拠地移動は、織田信長独創ではないが、織田信秀信長の2代に渡る独自の行動と言える。

(なお、清須城移動は、長慶の芥川山城への移動と同様の意味もあったものと考えられる)


さてこうして見てきたとき、信長の独創性は明確に否定される。


では、何故、それらの先行例と信長のそれが違うのか?

それは一重に織田が、織田弾正忠家が、銭の力を良く理解し、その根本に商売人としての性質を持っている点だと考える。


武士の本質は、平安末期、或いは鎌倉時代から一貫して一所懸命である。


中国地方の大部分を支配した毛利家も、関東一円に力を示した北条氏康氏政父子も、一代で越後、上野、北信濃、越中、能登に領国を拡げた上杉謙信も甲斐信濃駿河、西上野、東美濃を支配下においた武田信玄も基本、本拠地を動かさなかった。


が、織田信秀信長父子だけは必要に応じて本拠地を動かす。

すなわち、織田弾正忠家には、武士らしい一所懸命の思想が極めて希薄なのだ。


そして、楽市楽座、街道整備、分国内の関所廃止は、各々のだけでも商業育成に効果のある施策である。

そして、信長は先行例と違い、全てを採用する。

商業の発展について、その単体の効果を理解していただけでなく、相乗効果が生まれることを商人視点で理解していた可能性をここで指摘しておく。


逆に商人として合理主義と利益を優先する思想が、武士らしいプライドへの拘泥などへの無理解を招いたのではないか?

つまり、武士として他の武士や国人領主への共感能力が無いもしくは極めて低いことが、信長政権成立までの過程で多発する謀反を引き起こしている、と邪推することができる。


そして、信長の政治的立場の特徴は、旧来の政治的権威に対する微妙な距離感である。


正親町天皇に対する献金や親密さが垣間見える内容の書状の存在などから、信長は反天皇家という立場ではなかったというのが、昨今の論調である。


が、天皇家に友好的であること、政治的にその風下に立つこと、天皇と朝廷という政治システムに取り込まれることを良しとする姿勢であることは、別物と考えるべきである。


その証左に、信長は、足利義昭から管領代や副将軍に就任を要請されても、これを受けていない。

また、右大臣兼右近衛将軍を辞任したあとは、朝廷の官位に興味を示していない。

信長は、右大臣を辞したあと、本能寺の変で死ぬまでの四年間、散位無官のまま、実質的には天下人として振る舞っている。

なお、右大臣辞職後、一度、左大臣に推薦されたときも、信長は、対応を有耶無耶にして任官していない。


なお、三職推任問題は、信長の意を確認せずに、公家数名と村井貞勝が先走ったものであり、筆者は本能寺の変が無かったとしても、信長は、官位につかなかった可能性が高いと考えている。

下手をすれば、意に沿わない事を勝手にやったとして村井貞勝に処罰が下った可能性すらあると考えている。


これに比して、このあとの天下人たる豊臣秀吉は朝廷の官位である関白として、徳川家康は征夷大将軍として朝廷の政治システムを利用することで、従来の権威を借り行政権を行使している。


彼らからすれば、朝廷を利用していると考えたのだろうが、これは、明確に朝廷の政治システムに取り込まれたと言うべきであろう。

でなければ、朝廷内の摂関家相当の公家としての豊臣家と武家に対する行政権裁判権を有する征夷大将軍としての徳川家の並立からの徳川による豊臣討伐や、幕末の大政奉還や尊王攘夷の志士などは有り得ないのだから。


ではなぜ、信長は、旧来の権威権力構造に距離を取るような立場を取ったのか?

その答えは二つ。

三好長慶の衰退を見たことと、信長の家系が弾正忠という官位を得ていることである。


三好長慶は前述した通り、信長以前天下人と考えることができる。

が、三好長慶の立ち位置は、細川管領家の最有力家臣というものであった。


すなわち、鎌倉幕府における執権の最有力家臣にして家宰、内管領に伍する立ち位置である。

が、鎌倉幕府における平禅門や長崎円喜と三好長慶との違いは、主家の細川晴元、将軍の足利義輝と対立した際に、この両名を室町幕府の中枢たる洛中から追い出している点である。


彼らを追い出した三好長慶は、畿内最大の有力者、朝廷の守護者を十数年務めるが、永禄元年冬、足利義輝と和睦する。

この和睦後も三好長慶主導の三好政権は続くが、ピークはこの和睦前後であろう。

軍事力および権力は絶大なままであるが、やはり、直接的な朝廷の守護者から、将軍家の一家臣として裁可を仰ぐ対象が増えたことが三好長慶の行動を縛っているように、厭世的になって行くように見える。同様の論として歴史学者の今谷氏のそれがあることを指摘しておく。

筆者や今谷氏がそう見えたなら、信長がそう感じてもおかしく無いだろう。

つまりは、旧来の権威や権力構造は、利用しているように見えて、其の実、それらに縛られる事になりうる事を信長は、三好長慶を見て感じとったのではなかろうか。


もう一つは、弾正忠という官位である。


弾正台は、律令制における監察機関として存在している。

現実的には、その活動はほぼなく、令外の官である検非違使が出来てからは更に存在意義が危うくなっている。


が、本来の弾正台は、左大臣以下の違法行為について、天皇に直接の奏上、いわゆる奏弾式が許されている。

つまり、官位は低いが、権力の中にあって権力の暴走を見張り、天皇に直接意見できる存在、という稀有な存在なのだ。


信長は、自身も、弾正忠への任官を希望し、事実任官されている。そしてその官位を気に入り、息子の諱に『忠』の文字を入れた程である。

父信秀が弾正忠に任官された際には、弾正台の仕事とその意義の説明を受けたことは、想像に難くない。


ここに旧来の権力構造に取り込まれまいとするメンタリティが醸成される素地があると考えるのは、穿った見方であろうか?


そして、何と言っても信長は、強運の男である。

格上の今川義元を桶狭間でジャイアントキリングし、強敵になったであろう斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信は本格的な抗争になる前に急死している。

まるで、世界が彼らと信長との抗争を行わせるべきでないと認識しているかのようにライバル達の急逝が起こるのだ。


さて、ここまでの筆者の信長の評価からして、本能寺の変が起こらなかったならば、日本統一後にどのようになっていくか、端的に予想してみたい。


結論から言えば、天皇や朝廷から距離をおいた軍事的な実力に裏打ちされた自前の権力構造と、重商主義、資本主義的な方向性が示唆される。


これは、18世紀の帝国主義に類似した政権になり得るといえる。


すなわち、絶対王政期の重商主義と軍事力を背景とした領土拡張主義、その結果獲得した植民地および独占的市場の形成である。


歴史学者は、信長を中世の最終段階と評価するようになった。

だが、それは本当なのだろうか?


はたして、豊臣秀吉や徳川家康が築いた歴史上比較的よく見る封建体制が、信長が築くはずだった権力構造と社会システムよりも優れているとどうして決め付けられるのだろうか?


歴史学者は、歴史は線的に進歩するという幻想に囚われてはいまいか?


あえて言おう、織田信長が本能寺の変で倒れていなければ、日本の形は全く異なるものになっていたと。


あえて言おう、「時が未来に進むと、誰が決めたんだ!」と。

ターンAターン、ターンA♪

筆者の無闇に熱い信長論を全部読んでくれた方々に感謝を。

小牧山城などの本拠地移動について語るはずが、無闇に熱い信長論になっていた…。

時間も、かかっとるし…。

もう、こんなことはやらないと心に誓いました。次回からまた、坊丸君頑張ってもらう予定。


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宜しくお願いします。



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