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201話 稲葉山城と犬山城と~戦の後始末~

森部の戦い、十四条の戦い、軽海の戦い、これらの三連戦での最終的な敗戦は、斎藤家に甚大な被害をもたらした。兵力、優秀な家臣、そして国主としての威信。


父の急逝により、当主の座を継いだのは、若年の斎藤龍興。

後の世では、織田信長の躍進の前に没落した結果から、今川氏真、朝倉義景と並び凡庸とされるが、他の二者と同列に扱うのはあまりに酷である。


今川氏真は父義元の薫陶を受けたうえで、義元が亡くなる二、三年前から駿遠二州の領主として活動しているし、朝倉義景は若年で当主の座を継いだとはいえ、名将朝倉宗滴の後見と補佐を八年ちかくうけ、その後国主の座を二十年弱保持している。


翻って、斎藤龍興が斎藤家当主となったのは齢十四。

父義龍は斎藤道三を弑逆し、美濃を手に入れてまだ五年。

子龍興への後継者教育よりも美濃の安定と対信長や対浅井、足利幕府を利用して家格の向上などやらなければならないことが山積みの時期であった。


斎藤義龍が後もう少しばかり生きながらえ、余力が出た後にでも、後継者としての教育を十全に受けていれば、龍興の評価も今少し違ったものになっていたかもしれないのだ。


ただ、この時間線においても史実同様に斎藤龍興は、後継者教育をわずかに、ほんのわずかに受け始めた程度の若者である。


亡くなる前の斎藤義龍の考えとしては、自分がこのまま急逝しても、自分が信任し才や器量を認めた六人の重臣が彼を支えれば、信長に対抗できるというものであった。


しかし、森部の戦いで六人の重臣のうち、二人が失われた。

そう、斎藤義龍の考えた自身が逝去した後の統治プラン、権力継承プランは、自身の死後に行われるであろう信長強襲への対応プランによってもたらされた結果により破綻してしまったのだ。


そして、現在、稲葉山城には六重臣のうち、日根野弘就・竹腰尚光の二名しかいなかった。

二人の重臣は先の戦いにて戦死し、西美濃の北方、大垣を治める安藤守就、氏家直元の二人の重臣は、墨俣にいる信長の軍勢に対応するため、そして軽海の戦いの後の敗戦処理のために自身の領地に戻っていたのだ。


そして、三連戦の結果的な敗戦の為に、ろくな恩賞もでなかったうえに、氏家直元たちと同様の状況にある西美濃の国人領主たちは斎藤家と斎藤龍興に対し不満と不安を溜め込み始めていた。


しかしながら、斎藤龍興にしても稲葉山城にいる二人の重臣にしても打てる手は多くはなかった。


そこに、東美濃から斎藤龍興に思わぬ援軍が現れたのだ。


祖父斎藤道三の末弟で苗字を斎藤に改めることなく長井の姓を名乗り続ける長井道利である。


兄斎藤道三から重用されない状況にあった彼は、斎藤道三に対し国人領主の不満があるのを嗅ぎつけるや、自身と年齢が近い上に父道三から才能を疑われて廃嫡の危機にあった義龍と不満を持つ国人領主を繋いだ。

そして、兄である斎藤道三に対する勢力に育て上げた上に、彼らを焚き付けて兄である斎藤道三の追い落としを画策するような人物である。


斎藤義龍も叔父長井道利の危険性を感じ取ったのか、東美濃・北美濃の対応を一任するという建前で、稲葉山城の中枢から彼を隔離したほどだった。


長良川の戦いで斎藤道三に組した明智家を滅ぼした斎藤義龍は、長井道利をその後釜の城主に据え、東美濃の遠山の各家、北美濃の遠藤・東への対応を任せた。


そして、長井道利は蝮の道三譲りの知略にて、遠山とその背後にいる甲斐の武田信玄と交渉で渡り合い、遠藤家に対しては婚姻関係で取り込むなど、与えられた場にて結果を出し、自身の立場をちゃくちゃくと築いていた。


父斎藤義龍の死後、急な家督相続から信長軍に対しての連敗、自身を支えるはずの重臣の戦死と窮地に立たされていた斎藤龍興のもとに、兵を率いて駆けつけ自身への協力を申しでる有能な大叔父の存在は、まさに天祐にみえたことであろう。


そして、斎藤龍興は六重臣の欠けた席に長井道利を据えた。


ただ、彼も大叔父にやすやすと権力を明け渡す気はなかった。

残った四人の重臣と大叔父により自分の頭の上で物事を全て決められてはたまらじと、自分の近習のなかで一番の年長でかつ斎藤の血縁者である斎藤飛騨を六重臣の最後の席に送り込み、美濃の国政に自身の関与できる余地をできるだけ確保しよう画策したのだった。


だが、この人事が斎藤龍興の首を締めることになろうとは、このときは、まだ誰も知らなかった。



そして、十四条の戦い、軽海の戦いから数日後、犬山城でも動きがあった。


そう、犬山の織田信清のもとに、先の戦いで戦死した弟の広良の首が届けられたのだった。

信長としては精いっぱいの礼を払い、死に化粧をしたうえで、黒塗りの首おけに入れて送り届けた。

戦況および戦死の状況を精密に記載した書状と亡き広良への感状、さらには信清に対する詫び状までをもつけたうえで、奉行の島田秀満にそれらを託したのである。


だが、それほどまで礼を払っても、信清の怒りは収まらなかった。

弟広良と犬山の兵卒を、信長が捨て駒や最前線での盾としたのではないかと言う疑念が拭えなかったのだ。

島田秀満の必死の説明にて、織田信清の怒りは、その場では収まり納得したように見えていたが、信清の不審と怒りはその腹のうちにて余焔のように残り続けるのだった。

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