165話 桶狭間の戦い 第十一段
織田軍が桶狭間山の北東五町ほど、現在の距離にして五百メートルほどにある生山、巻山を占拠した頃、今川軍本隊に向けて、松井宗信隊の敗残兵達が逃げていく。
「見よ!あの逃げ惑う兵どもの先に今川義元の本陣がある!本陣より少しばかりの軍勢がこちらに向かってきておるが、恐れることはない。雑兵どもをかき分けかき分け来る敵なんぞ、恐れるものか!」
織田軍が生山を占拠した頃、ちょうど太陽が再びその顔を出し始めた。
未の刻の太陽光を浴びて、織田信長が三度檄を飛ばす。
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わずかばかり刻を戻す。
信長軍が松井隊を攻撃を始めた頃、織田軍の鬨の声、松井隊の逃げ惑う声や怒号が、今川軍本陣にも微かに届いていた。
その頃、今川義元は、雨の間に熟考した方針を伝えるため、旗本や諸将を集めるよう小姓達に伝えたばかりであった。
今川義元の耳にも雨が上がった後、松井隊が布陣する生山の方で何かあったらしい物音が伝わってきた。
「誰や、ある。松井隊の方が騒がしいが。なんぞあったか?」
今川義元は、床几より立ち上がり、周囲のものに呼びかけた。
「はっ。物音がしますが何があったかまでは不明でございます」
近くの小姓達が駆け寄ってきて、片膝を付きながら答える。
「ふむ。松井隊の諸将、瀬名隊の諸将にもこの後の行軍予定を伝えるので、母衣衆を遣わせ。松井隊に行く者は、何事があったかも合わせて調べてくるように申し伝えよ」
「はっ」
そう言うと、今川義元の小姓達は、立ち上がり、母衣衆に伝令するため駆け出す。
今川義元は、今一度、床几に座ると、本日このあと中島砦をとり囲む為の布陣を考え始めた。
「丹下、善照寺の砦は岡部元信を出陣させて牽制させるとして、中島砦は如何するか…。儂が大高城に入れば、鵜殿を鳴海城の守備に回せるな…。やはり朝比奈を海岸沿いに北上させて、前陣とするが上策か…。松井、瀬名はその後方か両翼だな…。先程の織田の小勢の通った道を使い、三河衆に左京山の方から攻めさせるのも面白いな…。そうするのであれば、三河衆の後に松井隊を置き、三河衆の働きを見張らせるが良いか…。」
師父たる太原雪斎が居れば、いちいち相談できるのだが、と今川義元は思うが、既に太原雪斎が亡くなって五年。
いつまでも師父を想うのは良くないな、と、義元は頭を軽く振った。
史実でも、今川義元は大切な事柄について太原雪斎以外にはほとんど相談しなかったと言われる。
今回の尾張攻めも、今日まで、そして那古野城下に凱歌をあげるその時まで、今川義元は、全ての重要な決定は自分がただ一人、下してきたし、これからもそうするつもりだった。
全ての勝敗の責を一人、その両肩に背負う覚悟を駿府を出立したその日からしていた今川義元だが、雹を伴う豪雨が、ふと、太原雪斎を思い出させ、その覚悟を揺らがせるのだった。
そうこうしているうちに、生山、巻山の方向から、今川義元の居る本陣の方向に松井隊の敗残兵が逃げてきた。
そして、松井隊に向かった母衣衆が、戻ってきた。
「松井宗信様、討死のご様子。織田の軍勢が生山を襲ったようでございます」
「ようでございます、とは、どういうことだ!」
帷幕にやって来ていた庵原将監が、松井隊のもとに向った母衣衆を義元の代わりに問いただす。
「は、申し訳ございません。残念ながら、逃げ惑う雑兵どものため、松井隊の本陣まで行くこと叶わず。ただ、逃げてくる者共から聞いたところでは、松井宗信様以下、生山にいた主要な将は討たれたと」
「本当か!殿、いかが致しますか?」
「本陣にいる諸将を集めよ。軍装を整え、生山の織田の軍勢を討つ」
「はっ」
しかし、その決断はわずかばかり遅かった。
恐怖、恐慌は、あまりに容易に伝播する。
戦場に馴れた武士階級であれば、混乱し逃げまどう雑兵達に接しても、叱りつけ、その場を立て直せるが、動員されただけの百姓達は、一緒になって混乱してしまう。
桶狭間山の山頂近くに布陣する今川軍の旗本達は、諸将の号令のもと、陣容を整えようとしてが、既に非戦闘員や雑兵達は逃げ出し始めていた。
それでも、今川軍の旗本衆は、どうにか陣容を整え、第一陣が生山方向に向かい、雑兵を押しのけながら、その道のりの7割ほどを進むことができた。
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さて、ここで、視点を織田信長方に戻させていただく。
織田軍が松井宗信の部隊を急襲し、生山の山頂で陣容を整えている頃、太陽が再び輝き始めた。
その刻は、未の刻。現在の時刻にして、まだ、午後二時であった。
「殿、今川軍の雑兵、追いますか?」
「雑兵は捨て置け。それに逃げる先に今川軍の本陣があるはず。特に鎧兜が立派なのに逃げていく臆病者の動きをよく見ておけ。そういった奴らは、本陣にきっと駆け込むはずよ」
「わかりました!」
そして、信長も逃げる兵達を見ていると、少し離れた山の頂上付近に白い陣幕が揺れるのが見えた。
そして、その麓に一団の騎馬武者があつまっているのも。
そこに今川義元かそれに準じる大将格が居ると見定めた信長は、矢継ぎ早に指示を出し始める。
「佐脇!善照寺砦、中島砦から持ってきた火縄銃をここに集めよ!他に鉄砲を持って馳せ参じた者共もここに集めよ!」
「はっ」
「岩室長門!岩倉城攻めで焙烙玉を投げた連中を六名、呼び集めよ!」
「はっ」
「長谷川!母衣衆の滝川一益を呼べ!浮野で橋本一巴の指揮下で戦った鉄砲に慣れた連中もここに呼んでこい!」
「山口飛騨!善照寺で勝家が持ってきた焙烙玉の入った葛籠を持って来い。焙烙玉以外に火薬と坊丸が工夫した湿気っても火がつく火縄を入れたはずだ!確認せい!」
「はっ」
「加藤!焙烙玉や火縄銃を使うときのため、火を絶やさないよう申し付けたが、どうだ!」
「はっ!火は絶やさぬようにしてあります」
「で、あるか!ならば、あの騎馬武者どもが今少し寄らば、火縄銃を撃ちかけ、焙烙玉を頭上に投げつける!準備致せ!その音、その煙を以てこの戦の第二幕を始めるぞ!」
その指示を受け、或る者は走り、或る者は品物や火の状態を確認し始める。
今川軍の本陣の方向を見る信長の顔は、アルカイックスマイルともほくそ笑みとも取れる不思議な笑みの表情であった。
坊丸、名前だけでも出しました。
桶狭間の戦いが終わるまでは、坊丸は名前が時々出るのが精一杯。
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