161話 桶狭間の戦い 第七段
午の刻の少し前、現在の時間で言えば午前十一時少し前に今川義元は、桶狭間山の麓に陣を布いた。
沓掛城から桶狭間山までは約五キロ。
一刻ほど、現在の感覚で言えば二時間弱の時間をかけて沓掛城から今川義元の本隊とその先陣を務める松井宗信隊、瀬名信俊隊は移動してきた。
松井宗信隊は生山、幕山等に北西を向いて、鳴海城方向に向けて布陣。
瀬名氏俊、井伊直盛らは巻山から西北西を向いて、大高城方向に向けて布陣。
今川義元の本隊は、桶狭間山の頂上付近に陣を張った。
古来、今川義元の進路については鳴海城説と大高城説があり、いまだに決着はついていない。
しかし、ここで断言しておこう。両説とも正解であり、誤りであると。
まず、第一に今川義元は鳴海城に向かっていたという説を支持する事はできない。
沓掛城から鳴海城に向かうのであれば、西に向かう鎌倉街道を通って、相原郷を経て鳴海城に向かえば良いのである。
それに沓掛城を出て、桶狭間山近辺に到達するには、東浦街道を経て大高道に入り、大高城に向かう途中、街道を北側に外れて山に布陣しなければならない。つまり、鳴海城にまっすぐ向かうつもりはサラサラなかったということになる。
さらに言えば、大高城に向かうことが確定していれば、北側の桶狭間、田楽狭間などと呼ばれる微妙な谷間の連続する地区に布陣する必要があるだろうか?
今川軍は前陣、本隊合わせれば一万人弱の大軍である。
わざわざ狭間に分かれて布陣するならば、わずか数百メートル、大高城方向に進軍し、瀬名氏俊、井伊直盛らが布陣した文久山や巻山に布陣すれば大軍であるメリットも活かせるのだ。
しかし、今川義元はそうしていない。
ここから導かれる結論は一つ。
今川義元の当初計画、第一のプランは、大高城に向かうことであることは間違いないが、もし、鳴海城の周囲の砦を容易に打ち破る事が出来れば鳴海城に向かうという二段構えの計画だったのでは無いか。
桶狭間あたりであれば、鳴海城、大高城ともにほぼ同じ距離であり、計画変更となっても、行軍距離は大きく変わらない。
大高城に向かうのであればそのまま大高道を進み、鳴海城に向かうのであれば、少し北に向かい、そこから手越川の両岸に軍を分けて進めばいいのである。
これが、桶狭間付近で今川義元が昼休憩を長く取っていた理由である、と本作品では断ずる。
更に言えば、今川義元は最前線に出る気はさらさらなかったであろう。
よく、「鷲津、丸根砦のことは朝比奈泰朝に任せた」といった書状や発言があるから、今川義元は、鳴海城に向かったはずだという意見を述べる者が居るが、これは明らかに間違いである。
この論法であれば、今川義元の本隊、前陣は鳴海城方面に向かって攻めていなければならない。だが、瀬奈氏俊らの陣の位置からはその意志は感じ取れない。
そもそも、今川義元が三河方面に自身で軍を率いて打って出たのは、この桶狭間の戦いが初めてである。
それまで、すなわち第一次、及び第二次小豆坂の戦いは、太原雪斎が総大将か、或いは別人を総大将に立てて軍師として実質的な采配を取っている。
今川義元が自身で軍を率いたのは河東一乱だけでは無いか。
ただ、河東一乱では、本拠地駿河での戦いであり、勝手知ったる土地での戦いである。
もしかしたら、河東一乱でも太原雪斎存命の時期は自身は飾りの大将で、軍を指揮することはなかったのではなかろうか。
太原雪斎のことである。総大将は本陣や後方でどんと構えている事を今川義元に何度も教え諭しているのではなかろうか。
なぜならば、今川家は、当主の急逝で混乱を何度もしてるのである。
今川義元の兄、氏輝と彦五郎兄弟の急逝で花倉の乱が起こった。
今川義元の祖父、義忠が応仁の乱にあわせて行った遠州出征での流れ矢による戦死では、今川氏親と小鹿範満の間での家督争いが数年にわたり起こった。
当主の急逝による家督争いは、家勢が落ちるということを太原雪斎は父や親族から幾度も聞かされていたはずである。
今川義元は、その太原雪斎の遺志を忠実に守っている。
桶狭間の戦いに赴く前に、子の氏真に当主の座を譲っているのはその現れであろう。
で、あれば、である。
今川義元が自身の旗本衆を率いて最前線に出る気は絶対に無い。
太原雪斎亡き後、今川義元は特に相談する相手がなかった事は、徳川家康他の言葉にて伝わっている。
桶狭間山で、今川義元は戦況を聞いて一喜一憂しながら、目的地を大高城にするか鳴海城にするか、表情に出さず、ただ一人、思い悩んでいたのではなかろうか。
そして、今川義元が桶狭間山に陣を布いて、戦況を見守っている頃、中島砦では、佐々政次、千秋季忠らが動き始めていた。
善照寺砦に織田信長が率いる兵が入った事を受けて、彼らは勇躍し、丸根砦への救援を決めたのだった。
今回は今川義元の動きの解説だけで終わってしまいました。
いやはやなんとも。
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