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160話 桶狭間の戦い 第六段

熱田神宮前に揃った軍勢五百に檄を飛ばした後、信長は馬上の人になる。

向かうは鳴海城のほぼ真北にある丹下砦。

信長以下の軍勢のうち、騎馬武者だけが丹下砦の中に入った。


「殿、お待ちしておりました。水野帯刀でございます。山口守孝、柘植玄蕃、真木兄弟らもこれに」

佐久間信盛の指示のもと、丹下砦を築き、そのまま守備を行っている水野帯刀以下が信長の前に揃い、頭を下げる。


「帯刀、戦況は」


「鷲津・丸根砦ともにまだ奮戦しておりますが、陥落は時間の問題かと」


「あいわかった。丹下砦は少し手狭のようだ。善照寺砦に向かう。帯刀以下、丹下砦の者はただ守りを固めよ。攻め手は儂が率いる者どもで行う。鳴海城の今川勢、丹下砦より北の土地には一歩も進ませるな。良いな」


「御意。今川勢を丹下砦より北の尾張の土地には決して足を踏み入らせませぬ」


「その意気や良し。任せた。勝家、長秀。砦の外の徒歩の者どもに声をかけよ。善照寺砦に向かう」


「「はっ」」


丹下砦と善照寺砦、中島砦の間は各々十町(約一キロ)ほど。移動はそれほど時間がかかるものではない。

この時、信長の軍勢は、やや増え、千人強になっていた。信長はこれらの軍勢を率いて佐久間信盛の守る善照寺砦に入った。

ここで、信長は将兵をまとめ、陣容を整えつつ、戦況を見極めていた。


「信盛、戦況は?」


「あまりよくありませぬ。鷲津砦は陥落した様子。丸根砦はまだ奮戦しているとのことですが、いつ落ちてもおかしくない状態かと」


「で、あるか。信盛、しばし、ここで休む。丹下、善照寺の傍に来た我が方の兵は取りまとめておけ。梁田や滝川の手の者が来たときは、小姓らに声をかけよ。小姓らは滝川、梁田の手の者が来たときはよく話を聞いておけ。そのうち、今川の動きに係るものはとく知らせよ」


信長は、巳の刻の後半まで善照寺砦にて、兵が集まってくるのを待った。

()()()()()()であれば、集まった兵力は二千弱。


しかし、この時、善照寺砦に集まった兵力は四千近く。

信長の直属の馬廻り衆、母衣衆は、当然として、家老職の者ども、ほぼすべての部将格が善照寺砦に揃っている。


()()()()()()よりも多くの兵力がそろったわけは何故か。

柴田勝家が清須城で声をかけただけでこの数が集まるだろうか?答えは否である。

坊丸や勝家の指示のもと、清須城をでた信長の動きを多くの家臣に伝えた柴田家の小者たちのおかげであろうか?答えは否である。


では、何故、信長のもとに()()()兵力よりも多くの兵が集まったのだろうか?

集まった兵力の四割ほどは、なんと、岩倉の織田伊勢守家が支配していた尾張上四郡の土豪や小名たちが率いる兵たちであった。


一年前に信長の支配下に入った彼らが、今川家の侵攻に対し信長のもとに集まってきたのだ。

()()()()()()では、彼らは信長に積極的に協力などしていない。そう、まだ彼らは信長に服していなかったのだ。それどころか、彼らは今川家の侵攻に対し信長がどう対処するか、お手並み拝見といった心持ちで冷ややかにみていたのは想像に難くない。


()()()()()()では、信長は、桶狭間の戦いを岩倉城の戦いの時点とほぼ同程度の兵力、すなわち、尾張下四郡から動員できる兵力で戦っていると予想されるのだ。

それに対し、この時間線では、上四郡の兵力も動員できている。いや、動員できているのではない。尾張上四郡の兵力を有する土豪たちが、信長のため、尾張のために自ら集まってきたのだ。


それはなぜか。

信長が、坊丸が提案し石田村で実践して見せた農業改革のうち、低予算でできるもの、簡単にできるものを尾張上四郡の守護代、織田信賢を打ち破ったのち、丹羽長秀、林秀貞らを使って上四郡の村々に行っていた。

そう、尾張上四郡の小名、土豪たちは、その行動に驚き、そして深く感謝した。


いままでの守護代である織田伊勢守家は、ただ自分たちの上に立ち、自分たちから搾取するだけの存在であった。

新たな支配者となった織田信長についても、ほぼ同じ存在であろうと彼らは考えていた。


永禄二年の春に林秀貞や丹羽長秀、中村文荷斎らが彼らの支配する村々に来たとき、彼らは検地など自分たちの権益を侵すものが来たか、面倒くさいことだ、そう思っていた。

確かに彼らは信長の指示のもと、村々の検地などを行った。だが、それだけではなかった。


林秀貞、丹羽長秀、その他の信長幕下の文官たち、奉行衆は、石高をあげるための方法をわざわざ教えてまわり、そして実践するのを手伝った。

その結果、永禄二年の秋、尾張上四郡の村々は以前よりも多くの実りを手にすることになった。

しかも、多く収穫できたから、年貢が急に上がると言ったこともなかったのだ。


尾張上四郡の土豪、小名、いやそれだけではない、村々の農民達が新たな支配者である織田信長は、何かが違うということをその肌で感じた。そして、この領主を失うことは自分たちにも損失だ、と心に刻んだ。


現在の評価では、今川義元は優秀は内政官であり有能な戦国大名とされる。

その今川義元でも「三河忩劇」の後、三河を掌握し、尾張に向けて侵攻できるようになるのに二年から三年かかった。

自分でもそれだけかかったのだから、「尾張のうつけ」が同じ時間でそれができるはずがない、今川義元がそう思ってもおかしくはない。


事実、()()()()()()では、尾張上四郡の守護代を岩倉城で打ち破ったばかりの織田信長は、尾張上四郡を掌握しきれず、尾張下四郡から動員できる兵力で戦っていると予想されるのだ。


だが、しかし。この時間線で、織田信長は、今川義元の想定をはるかに上回って、()()()一年で尾張上四郡を心服させた。

その結果が、桶狭間の戦いにおける織田軍の動員兵力の倍増であったのだ。


このとき、坊丸は、まだ、知らない。

自分が行った石田村での農業改革が、桶狭間の戦いに影響を与えていることを。

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